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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

判決を言い渡すものの葛藤

2007-04-04 | 堅めの話
裁判官の「お言葉集」出版 厳粛判決に人間味も(朝日新聞) - goo ニュース

 「死刑はやむを得ないが、私としては、君にはできるだけ長く生きていてもらいたい」(死刑判決を言い渡して)、「あなたのような動機で人を殺しては、社会は成り立たない」(殺人などの罪で実刑判決を言い渡して)。現実にあった裁判で裁判官が発した、ときに厳しく、またしみじみと考えさせる言葉を集めた本「裁判官の爆笑お言葉集」が出版された。


「死刑はやむを得ないが、私としては、君にはできるだけ長く生きていてもらいたい」

死刑を言い渡す人の発する、葛藤に満ちたこの言葉の重みといったらどうだろう…

夢見たいなことを言っている薄っぺらな理想主義の人々には、このような葛藤は決してわからない、いや、わかろうとしないのだろうと思う。
「死刑は悪!」「人殺しは悪!」それで終わりだ。
世の中は、このような葛藤によって支えられているといっても過言ではないのに…


そのほか印象に残った言葉は…

「あなたのような動機で人を殺しては、社会は成り立たない」(殺人などの罪で実刑判決を言い渡して)

…こういう言葉を聴くと、裁判官はまさに「法の番人」、つまり「法治国家の番人」なのだなぁ、と思う。


「私も中学時代、いじめに遭い、つらい思いをした。ですが、我慢して少しでも人の役に立とうとがんばってきました。あなたもつらいと思うが、厳しく自分を律してやり直して下さい」(公然わいせつ罪に問われた被告が「人間関係のストレスが動機」と話したのに対して)

…情状はわかるけれど、罪は罪。人生経験豊かな裁判官の方が口にすると深みがある。


・・・それにしても、
いい本だと思うのに、なぜ題名が「裁判官の“爆笑”お言葉集」なのだろう。
なんだか茶化しているようで気分が悪い…


「では、どうすればいい?」

2007-02-03 | 堅めの話
ウチは、子どもに毎日「反省ノート」を書かせています。

そもそものキッカケは、息子が
「自分に都合の悪いことを隠している」
ということがたびたびあったので、
「このノートに書いて教えてくれたことは、一切怒らないから」
という条件付で、毎夕食後に報告させることにしたことです。
(「反省」というより「ざんげ」ですね^^;)

と言っても、今では単なる日記みたいになっていて、今日学校であったいいこと・悪いことを教えてもらっているのですが。
今では姉も喜んで書いていて、いい会話のきっかけになっていますし、帰宅の遅いダンナも「反省ノート」を読むのを楽しみにしているようです。(「反省ノート」って聞こえが悪いですね^^;でも他にいい名前がなくて…)


息子が「今日悪かったこと」を書いてきたときは、同時に
「今度からどうすればいいと思うか」
を書いてもらうことにしています。
それを見ていて、あることに気づきました。
「問題の解決法を考える」というのは、子どもにとっては意外に難しいものらしいのです。

たとえば…
「給食の時間に、ふざけていて先生に怒られた。」
このように書いてきたとします。
「で、今度からどうすればいいと思う?」
と聞いてみると
「う~ん…今度からふざけないようにする。」
という答えが返ってくることがよくあります。

…ウッカリ「えらいえらい」などと言いそうになりますが、待てよ…?
これってただの精神論で、よく考えると解決法にはなっていないんですよね。
「ふざけないようにするには」どうしたらいいと思うか?を考えてほしいのに…

それでも、いろいろと質問を重ねてみると、徐々に「どうすればよいか」が見えてくるようです。
私「どうしてふざけたの?」
子「だって、給食早く食べ終わったからヒマだったんだもん。」
私「そうなんだ。じゃあ、ヒマができないようにするには、どうしたらいいかな?」
子「う~んと…給食をあんまり早く食べ終わらないようにする。」
私「そうだね。でも、どうして給食をみんなより早く食べ終わっちゃうんだろうね。」
子「えーと、よくかんでないからかも…今度からよくかんでゆっくり食べる!」

こういう具合です。(上記の例はフィクションです^^;)


まったくしょーがないな、子どもってこれだから…
と思ったのですが、オトナの世界をふと見回してみると…

「差別意識は問題である」
→「差別意識をなくそう!」

「格差社会は問題だ」
→「格差のない社会にすべきだ!」

「戦争は悪だ!」
→「戦争は、してはいけない!」

…こういう具合に、精神論止まりの主張しかしていないお粗末な記事や政治サイトがいかに多いことか…
あなたがたが批判している人々は、「そのためにはどうすればいいか?」を試行錯誤しながら模索しているのに…

「では、そのためにはどうすればいいのか。」

問題に対しては、常にそう問いかけ続けなければならない。
その「手前」で止まって満足してしまっていてはいけないな…と、自戒をこめて強く思ったのでした。

お付き合い

2007-02-01 | 堅めの話
PTAに関わって3年になります。
その間わかってきたことはいろいろあるのですが、最近あらためて自分の考え方の変化に気づいたのは、こんな話です。


先日、役員でPTAの引継ぎ事項について話していたときに、
「A文具店を大切に。他の店のほうが安いからと言って安易におつきあいを絶たないように。」
という確認をしました。

A文具店というのは、いつもPTAや学校で備品を調達するときによく利用するお店です。
ぶっちゃけた話、百均ショップも乱立するこのご時勢、探せばそこよりも安く手に入るところはいくらでもあります。

だからといって、「安さ」だけを基準に合理的に店を選択すればよいというものではないんですよね。

以前の私は
「節約第一!支出は少なければ少ないほどいい。」
これが当然だと思っていました…

ところが、PTAをやっているといろいろなことが見えてきます。
A文具店には、急ぎの注文や配達などで多少の無理をきいてもらうこともあり、イザというときもとても頼りになるのです。
学校のこともよくわかっていらっしゃる(そこのお子さんはウチの小学校の卒業生だそうです)ので、「学校の役に立てれば…」という感じで、いろいろ親身になってくれます。
できてはつぶれる(失礼)百円ショップでは、こうはいきません。

PTAは会費を徴収しますから、その使い方に敏感になるのは当然です。
しかし、「安さ第一」で突き進むと、お金は節約できても、「信頼関係」などの見えない何かを失ってしまうこともあるのだ、ということが、オトナになってきた(←今ごろかい^^;)私にもやっとわかってきました。

癒着といわれれば、そうかもしれない。「お付き合い」との線引きは難しいです。
でも、他より明らかに高いとか、リベートが絡んでいるとかの話でもありませんし、普通の感覚で許容できる範囲なら、こういうお付き合いは大切にすべきだと思ったのです。
商売といえども、基本にあるのは人間同士のお付き合いですから。

コメント欄…

2006-12-09 | 堅めの話

前のエントリは、実は下書きを書いたのが五日ほど
前だったのだが(日付を見ればおわかりいただけると思う)
そうこうしている間に、めすねこさんのブログで、
私の想定しているコメント欄の使い方とは“正反対”の例を
目撃してしまった。

私はフェミニズムについてはちゃんと本も読んでいないので、
自分の意見を述べることはできないのだが…
でもそんな私にも、コメント欄でのかの論客の“論法”が
おかしいことはわかる。

そのやりとりは、こんな感じなのだ。

「あなたの批判するフェミニズムは、主流ではない」

(めすねこさん)「では、主流とは?」

「・・・・・・・・・・・・」
「とにかく、あなたの認識は間違っている」


何を論拠としているのかを示さずに、よく批判に乗り込んで
くるなぁ…と、変な意味で感心してしまった。

2ちゃんねるなどで、
「(ネットウヨク等は)ソースソースとうるさい」と揶揄されるのを
見ることもあるが、
ソースを示せない意見より、ソースを明示した意見のほうが
信頼性が高いに決まっている。
(もちろん、ソースとは“情報源”の意味である。)


「愛を語る」んだったら、ソースは必要ない。
しかし議論の場でそんな態度では、人にまともに意見を聞いて
もらえるはずはないだろう。
前のエントリで述べた、自説に「当然」「自明」をくっつける
人々に似たものを感じる。

議論の仕方を見ているだけで、
どちらの知識が深いか、
どちらがモノを考えているか、そして
どちらの考え方が衰退していく運命にあるかが
一目瞭然にわかってしまうのだなぁ…と、
一連のやり取りを感心しながら読ませていただいた。
(他人事で申し訳ないが…)
やっぱりめすねこさんはスゴイ!


私たちは“コメント欄”を手にした

2006-12-05 | 堅めの話
ネット上には種種雑多なブログやHPがあるが、
「読む価値があるページか否か」を判断する私の基準の一つは
“コメント欄”だ。
多少の例外はあるにせよ、
“コメント欄”を見れば、そのブログ主の度量のようなものまで
一目でわかってしまう、そんなことを感じている。

あるブログで、
「事実に基づかない」
「道理の通らない」
「偏見に満ちた」
自説展開がなされたとしよう。
すると、ネット上ではしばしばコメント欄(あればだが…)に
“ツッコミ”が入ることになる。

もちろん、誰しも人間だから、時には突っ込みどころのある記事を
アップしてしまうこともあるだろう。つまり、
「“ツッコミ”が入る=悪いブログ」「入らない=いいブログ」
と言いたいわけではない。

そのブログの価値を一目瞭然に表してしまうのは、
“その突っ込みに対するブログ主さん(あるいは常連の方々)の対応”
のほうだ。
一言で言うと、その対応如何で「人の話を聞く気があるかないか」が
マルワカリになってしまう、という恐ろしさがあるのだ。

人の話を聞く気がない人々で固められたブログでは、
どんなにもっともな意見であっても、異論は全く受け付けない。
「質問に答えよう」「一緒に考えよう」という姿勢さえ感じられない。
ひどい場合には無知呼ばわりだ。(そんなことも知らないんですか?
もっと勉強しなさい、等。)

やたらと「当然」「自明」「常識」といった言葉を並べるのも
特徴の一つだ。
要するにきちんと説明できないから、そういった言葉で
逃げているのである。

もっとひどくなると、
自分の主張に賛同する人しかコメントを許可しなくなったり、
コメント欄そのものを閉鎖してしまったりする。
(そういう理由で、さしたる理由もなくコメント欄が
閉鎖されているサイトは、どんなに正しく美しく聞こえる
主張が繰り広げられていても、まず疑ってかかることにしている。)


さて、コメント欄が無くなってしまうと、一見反論が存在しない
かのようだ。すると、美しく聞こえる主張を
理屈抜きに正しいと信じ込んでしまう人が増えやしないだろうか…?

いやいや、さにあらず!
たとえコメント欄をなくしたところで、おかしな意見には
ネット上でちゃんとツッコミが入っているのである。

たとえば、私は納得のいかない(&コメント欄がない)サイトに
出会ったとき、そのサイト名で検索をかけてみることがある。
すると、ほとんどの場合ちゃんと批判意見がひっかかってくるのだ!
他にもおかしいと思っている人がいたんだな、といつも安心?する。

つまり、ネットが巨大な“コメント欄”の役目を果たしていると
言えるだろう。

しかもこの“コメント欄”、大手新聞の記事だろうが何だろうが
おかまいなしなのがすごいところだ。
どんなに偏向していようとも、「変だ」と感じても、
突っ込みさえ入れらなかった時代から考えると隔世の感がある…

幸いなことに、
日本のネットは中国のように監視・規制されてはいない。
この“コメント欄”を手にしている限り、
(そして、それをもとに自分の頭で考えようとしている限り)
おかしな方向にどんどん行ってしまうことはない、と私は信じている。

やっぱり品がほしい。

2006-11-06 | 堅めの話
ここで書こうか書くまいか、迷っていたのだが、やはり書いてみることにした。
ご意見をいただければうれしく思う。


先日、学校で講演会があった。
「ブックトーク」と銘打っていたのだが、いらした方のうちお一人のお話は、微妙なものだった。

その方のお名前は、森達也さんという。(映画監督だそうだ。)

講演が始まると、驚きの連続だった。
いきなりしょっぱなから、愛想も何もなく
「今日は私、早朝から長距離移動しなきゃならなかったんで疲れてます。」
などとおっしゃる。そんなことを言われても…
なんだかこちらが悪いことをしているような気分になった。
でも普通講演会のしょっぱなでそんなことを言うだろうか?講演を聴きに来ている人に対する礼儀を欠いていないだろうか…?

一応 「今ごろドラクエにはまって寝不足っていうのもあって…」
などとつけくわえていたが、それはそれで若者に媚びているようでなんとも…(ドラクエは私も好きなんだけどねぇ…)


その後のお話の内容はといえば、
「空港のボディーチェックには意味がない」
「意味のない決まりごとには、従う必要はない」
などなど、“超リベラル”なことばかりだった。

「考えもせず決まりごとに従うのはバカ」
森達也さんに言わせると、その例の一つが
「トイレの後、手を洗うこと」
なのだそうだ。

何でも
「キタナイ手で触った蛇口を、洗った後の手でまた触るなんて意味ないでしょ?そう思わない?」
ですと。
「オレの○○(…書きたくないので伏字にしているが、講演ではズバリおっしゃっていた。わかるよね?^^;)と蛇口と、どっちがきれいかって話ですよ。オレは自分の○○のほうがキレイだと思うから、手は洗わない」んですって。
・・・・・・・・・
思わず絶句してしまった。
なぜ小学校の講演会でそんな品のない話を聞かなきゃならんのだ…?

トイレの後に手を洗うのは、単に“常識”でいいではないか。
こういう、お互いへの最低限の敬意を表す常識という前提があるから、安心して握手もできるというものではないのだろうか。
そりゃあ理屈を捏ね回せば全ての決まりごとは論破できるだろうが、そんなことをして何の意味があるのか…

関係ないのだけれど、実は服装にも驚いた。
くたびれたパーカーにジーンズ。長髪気味の髪はボサボサ。
一応講演会なんだから、それなりにフォーマルな格好で演台に立つのが礼儀というものではないだろうか。
それだけでも違和感があったが、個人的には「笑顔」がほとんどないというのも気になった。
必要以上に愛想よくしろとは言わないが、普通ある程度社会人生活を送ってきた人は、ある程度の人当たりのよさを身につけるものだと思っていたのだが…


帰宅してから、失礼ながらお名前を検索してみた。どこかで聞いたことがあったような気がしたので…

そしたら…ふうん、なるほど。
私の確信が、おかげでまた少し強いものになったような気がする。

「ふるさと」を国歌に?

2006-10-04 | 堅めの話
ある掲示板で。
国旗国歌反対派で、二言目には平和だの人権だのを持ち出してくる人が、こんな自説を得意げに披露していた。

「君が代の“君”とは?なんて姑息なことはしないで
“ふるさと”を国歌にしてほしい。」

私はこれを読んで苦笑いせざるを得なかった。
彼(or彼女)は、音楽の力というものをちっともわかっていないから。
「ふるさと」を国歌にすることで、平和が近づいてくるとでも思っているのだろうか?

「君が代」は、歌詞にもメロディーにも、
そこに現代人に通じる感覚を見つけるのが難しい曲だ。
深遠さは感じられても、直接的に「感情」に訴えてくるものであるとは言い難い。

対する「ふるさと」は…
本人も言っているように、「美しい日本」を情緒的に、
直接的に訴えかけてくるものだ。

日本に危機が迫ったときに、「君が代」ではなく「ふるさと」のような曲を国歌にいただいていれば、戦争を回避しやすくなるとでも思うのだろうか。
どう考えても逆だと思う。
一種瞑想的な「君が代」と比べ、
「ふるさと」は、より愛国心をかきたて、戦意をかきたてるだろう。

また、彼(彼女)は「ふるさとを歌いながら死んでいった国民のためにも」と結んでいるが、
お得意の理屈でいくなら「ふるさと」は「軍国主義の象徴」として否定されるべき、ではないのだろうか??
戦時下で果たした役割は同じなのに、「ふるさと」は良くて「君が代」「日の丸」はなぜいけない?

真面目に反論してしまったが…
彼らにとっては結局理屈なんてどうでもよくて、要するに「日本の国歌は気に食わない」ということなのだろう。
どんな国歌を制定したところで、結局反対する人は反対するのだ…


オマケ
最近知ったフラッシュ。私はここで音楽の力を思い知らされました。
泣けた~
特攻隊(音が出ます。ご注意!)

ある本

2006-10-02 | 堅めの話
昨日本屋で「払いません。」という本を見かけた。
立ち読みしただけなのだが、
著者陣の顔ぶれを見て、想像していた通りの本だった。

平たく言えば、
高速料金も
NHK受信料も、
国民年金保険料も、
「納得いかないでしょ?払うのやめたら?」
と呼びかける本だ。
ご丁寧に、「支払いのやめ方」まで付いている。


・・・もう、手遅れかもしれない。

私はなぜか、そんな絶望感にとらわれた。

きっと、何人かの人はこういう考え方に同調するだろう。
「そうだそうだ、やりたくないことはやらない権利がある。」と。
国旗国歌に反対する人の主張ともダブりそうな気がする。

「公より個」の主張も、ここに極まれり。
ついに「反社会的超個人主義」の姿をとり始めた。
私にはそう写った。

こういう考え方は
たとえば、自分の考えと違うことを自治体が推し進めようとしているときに、税金を払うことを拒否する根拠にもなるかもしれない。
そんな人間が、そのうち現れないとも限らない。
また、いくら国民年金保険料を支払うことを拒否してきた人でも、困窮すれば他の人の積み立てた保険料で養わないわけにはいかない。

これこそ、日本崩壊の序章でなくて何だろう。


…もちろん、大多数の国民はそうではないことはわかっている。
普通に良識があり、不平不満はありつつも税金を出し渋ったりすることは良しとしないだろう。

私のもう一つの懸念は、
そんな良識(というか常識?)ある人々と、行過ぎた個人主義に走る人々との間に生まれる「亀裂」だ。
相手の主張があまりにも受け入れがたいものに映ると、往々にして嫌悪感から自らも極端に走りがちだ。

国民の分断は、深まるばかりだろう…


いつの日か、もしも「極右」が台頭しだしてしまったら。
それを生み出したのは、他ならぬ正反対の「極左」
の言動のせいだと思う。(同じことは「右」にも言えるけれど。)

目的のための手段を、間違えていないだろうか。
それとも、身勝手な主張ができれば、それでよいのだろうか。

闘う政治家

2006-09-28 | 堅めの話
「できることがあったら言ってくださいね。お手伝いしますから。」

普通に考えたら、こんな言葉をかけられて嬉しくない人はいない、と誰しも思うのではないか。
しかし、困難な局面で責任を一身に負う人にとっては、これほどむなしく響く言葉はない。
なぜなら、これは
「私は“当事者”じゃないよ」宣言
でもあるからだ。

私自身、困難な状況のときに何気なくかけられるこの言葉に、何ともいえない苛立ちを感じたことがある。
そして、自分自身が(わかっていながら)この言葉で「逃げた」ことも…

そんな私には、安倍新総理が著書「美しい国へ」の中で、「闘う政治家」の言葉に託して言わんとしていることが、痛いほどわかる。


拉致問題

安倍氏が拉致問題について声を上げ始めたとき、その運動に参加したのは、ほんの僅かな議員たちだけだった。右翼反動のレッテルを貼られるのを恐れたためだ。
事実その後マスコミの中傷の渦の中に身を置かざるをえなかった安倍氏らに、「応援しているよ」と言う議員は多かったが、一緒に「行動する」議員は少なかった。

「美しい国へ」の中では比較的さらりと述べられているいきさつだが、拉致問題解決のために陰で安倍氏らがどんなに頭を絞り、汗を流したかは想像に難くない。
この“闘い”なくしては、拉致問題は動くことはなかっただろう。


誰からも叩かれないためには

…答えは簡単だ。もっともなことだけを抽象的に主張していればいい。
具体的に言えば言うほど(やればやるほど)、見解の相違が明確になり、「どの方面にもいい顔をする」ことはできなくなり、敵も生まれる。
(上記の拉致問題の例、またその上の例で言えば、
「お手伝いします」も「応援します」も「人助け」だから、それだけで批判を受けることはまずないだろう。)


たとえば、「戦争反対」という、万人が賛成しそうな命題を考えてみる。
一番反論がないのは、「戦争はいけない」とだけ言うことだろう。「武器所持反対」もそれに近い。
耳ざわりもいいし、至極もっともである。データに基づいているわけではないから、検証も反論もしようがない。
だから、誰とも戦う必要はない。

一方、戦争回避のための具体的な道筋を考えようとする人々がいる。
「護憲」「改憲」、方法論の中身はいろいろあるだろうが、具体案である以上、状況の変化とともに常に修正を迫られるし、批判の矢面にも立たなくてはならない。


安倍氏の言う「闘う政治家」というのがどちらのタイプの政治家のことなのかは、明らかだろう。
「闘う政治家」とは、
「批判を恐れず“行動する”政治家」のことなのだ。

“闘う”という言葉を取り上げて、一部のブロガーたちが「好戦的」であるかのような言い方をするのには、あきれるばかりだ。
本当の意味で「闘った(行動した)」ことのない、お気楽な人たちなのだとしか、私には思えない。

「格差社会」とは?

2006-09-12 | 堅めの話

非正社員増加が背景…日本の貧困世帯率ワースト2

経済協力開発機構(OECD)が20日発表した「対日経済審査報告書」は、日本の所得格差の拡大が経済成長に与える悪影響に懸念を示した。特に、所得が低い「相対的貧困層」の割合(2000年)は、OECD加盟国の中で日本が米国に次いで2番目に高いと分析しており、バブル崩壊後の景気低迷で、コスト削減を進める企業がパートやアルバイトなど賃金の安い非正社員を増やしたことが、所得の二極分化を助長させたことを裏付ける形となっている。  

報告書では、OECD加盟国のうち判明した17か国について2000年の相対的貧困率を列記した。最も高い米国が13・7%で、日本の13・5%が続き、次いでアイルランドが11・9%だった。一方、最も低いチェコは3・8%と大きな差が付いた。



あるブログの主張に違和感を覚えたことから、いろいろ調べているうちに、この記事に行き当たった。
この記事にも、何か実感とはかけ離れた違和感を感じたので、その理由を自分なりに考えてみる。
(…とはいえ、当方政治も経済も統計学も素人ですので、その点ご了承下さい^^;)

「相対的貧困率」の意味するものとは

ここで用いられている「相対的貧困率」とは、
「中位者の等価可処分所得の50%以下しかない者」の率だそうである。
「中位者」とは、いわゆる「メジアン」のことではないかと思うので、以下それを前提に話を進めたい。(誤りが見つかれば訂正します。)
簡単な例で考えてみようと思う。

人口が「7人」という国を二つ考えてみる。(わかりやすくするために極端にしています^^;)

《A国国民の所得内訳》
100万円…1名
200万円…1名
400万円…1名
800万円…2名
1600万円…1名
3200万円…1名。

《B国国民の所得内訳》
200万円…1名
400万円…5名
1600万円…1名。


A国のメジアン値は「800万円」、一方B国のメジアン値は「400万円」である。
従って、「相対的貧困率」の基準となるのは、その半分の「400万円」と「200万円」。
所得がそれ以下の人は、A国では3人だから、その割合は実に約43%となる。(対するB国は14%だ。)

日本は、どちらかというとA国に近い分布を示すのではないかと思うが、この「貧困率」という数値、文字通り「貧困」の指標として適切なのだろうか。
確かに「格差」はある程度表していると思うのだが…
なんだか統計にだまされているような気がしてしかたがない。私のとらえ方が間違っているのだろうか?


「貧困層」の姿

日本で「貧困層」とされる人々は、普通想像するステレオタイプな「貧しい人々」とはちょっと違う気がする。

たとえば、「パラサイトシングル」の若者。

フリーター、ニートなど、若者を低所得と結びつけるキーワードは多い。
しかし、その実態は「親の裕福なスネをかじってそこそこ生活をエンジョイできる」若者である場合も多い。
つまり、「低所得でもなんとかなってしまう」人々である。
これを、従来の概念の「救済されるべき貧困層」と一緒にして論じてよいものだろうか。

(話はそれるが、アメリカをハリケーン「カトリーナ」が襲ったときのことだが…
私は、TVに映し出される「貧困地区の被災者たち」が、みな一様に太っていることに驚いた覚えがある。
貧困と言えば「食うや食わず」のイメージがあったのだが、先進国ではそのイメージは必ずしも当てはまるとは限らないようだ。)

ところで、パラサイトシングルは、親(世代)と子(世代)の格差が生んでいるものだとも言える。(=親が貧しければ、子どもは自活するために必死で働かざるを得ないから。)
ということは、親のすねかじりは「所得再分配」にもなっているのかもしれない。
この「個人レベルの格差の是正」は、当然ながら統計に表れることはないが…


「上」への広がり。

「格差社会」を問題視するときには、当然ながら「“下”への広がり」つまり貧困層の増加のほうに焦点が当てられていると思う。
しかし、忘れてはならないと思うのは、
“上”への広がりが大きくなったときも、見かけ上は「格差が大きくなった」ように見える、ということだ。
アメリカの「相対的貧困率」が一位なのは、こちらが主な要因のような気がする。

なんといっても「アメリカンドリーム」の国である。“上”は天井知らずと言ってよい。
この“上”への格差の大きさが、「こんなに稼いでいる人もいるのに、自分は…」とやる気をなくさせることもあるかもしれない。
しかしその反面、アメリカンドリームを夢見る人々が社会に活気を与えている側面も、見過ごすことはできない。


一口に「格差」と言っても、時代によって、国によって、様相はだいぶ異なる。
小泉さんは、「格差は一概に悪いとは言えない」というようなことを言ったが、メディアにはこの発言への「批判」以外の切り口を期待したい(したかった)ものだ…