愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

柿本城跡(3) 新城市

2018年04月10日 14時02分01秒 | 新城市
しばらく登っていきますと柿本城の本丸の虎口につきます。

柿本城縄張り図(道の駅の案内板より)

柿本城本丸

柿本城本丸虎口

柿本城の虎口には柵と冠木門が造ってありました。
以前訪れた川尻城にも同じような冠木門が造ってありました。雰囲気を作るにはいい演出だと思いました。というか、新城市が頑張っているなあと感じました。冠木門から左手にかけて柵がめぐらされ、その下には腰曲輪がありました。腰曲輪にも柵が造られており、この辺りが城の防御ラインとして重要だったんだということがよく分かりました。


本丸の柵と下の腰曲輪

出丸・二の丸・三の丸
登場道を挟んで本丸の向かい側に出丸がありました。出丸の先端に行って周りを見回しますと、木の間から眺望が開けていました。物見としての役割があったことが窺えました。

出丸

本丸に戻り奥のほうに行くと、石碑がありました。
「鈴木長門守重勝之城址」と書いてありました。重勝は、上記重時のお父さんです。

本丸にあった石碑

本丸からすぐ下に三の丸がありました。

三の丸

そして、本丸を虎口まで戻り、奥へ行くと二の丸がありました。

二の丸
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柿本城跡(2) 新城市

2018年04月09日 05時51分12秒 | 新城市
道の駅「鳳来三河三石」
柿本城に登るには道の駅「鳳来三河三石」に車を置きます。

道の駅「鳳来三河三石」

井伊谷三人衆の顔出しパネルもありました。3人一度に撮れていいですね。

顔出しパネル

柿本城へ
柿本城へは道の駅近くの「青龍山 満光寺」から登ります。

青龍山 満光寺
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柿本城跡(1) 新城市

2018年04月08日 11時57分08秒 | 新城市
4月7日、寒かったですね。
冷たい風が吹きすさび、初夏のような陽気が、いっぺんに冬に逆戻りでした。
しかし、せっかくの休みの日だったので、城めぐりを敢行しました。

柿本城に関するお話
柿本城は鈴木重勝が築城したそうです。鈴木重勝とは、足助鈴木氏の流れで、天文年間(1532~1555)に上吉田に白倉城を築き、のちにこの柿本城を築いたそうです。(「日本城郭体系」9)

鈴木重時
有名なのは鈴木重勝の子どもの鈴木重時です。柿本城を拠点とし、もともとは今川氏の味方でした。しかし、今川氏は、桶狭間の戦いで義元が討死した後、力が弱くなりました。そして、永禄11年(1568)、ついに徳川家康が今川氏の領地であった遠江(静岡県の西半分、浜松のあたり)に侵攻しました。このとき、菅沼忠久、近藤康用らと徳川氏について、遠江侵攻の先導役になりました。鈴木重時と、この二人を井伊谷三人衆というそうです。

井伊谷三人衆(左から鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久)NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)

ところが、今川氏勢力もただ侵攻されてばかりではありませんでした。堀江城(今は舘山寺温泉になっているそうです)攻めの時に今川側の武将大沢基胤(もとたね)らの反攻にあい、鈴木重時は、この戦いで討死をしてしまいました。家督は、息子の重好が受け継ぎました。

大沢基胤(NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)

鈴木重好
鈴木重好の時には、武田信玄との戦いがありました。武田信玄は、部下の山県昌景に柿本城を攻めさせました。鈴木重好はやむなく遠江井伊谷の小屋山城に退きました。しかし、ここも山県勢に攻められると、徳川家康の本拠浜松城に退いたそうです。(「ウィキペディア」より)

鈴木重好(NHK大河ドラマ「女城主直虎」より)


さて、柿本城は新城市にあります。新東名で「新城」インターチェンジで降り、しばらく一般道を東の方に進むとあります。新城インターチェンジの次は、浜松いなさジャンクションがあり、すぐに井伊谷に行ける距離にあります。


柿本城の場所(「グーグルマップ」より
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