愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

福山城 広島県福山市

2014年11月22日 19時24分35秒 | 広島県
 11月14日から16日まで「若越城の会」の研修旅行に参加しました。コースは、14日福山城、広島県立博物館(草戸千軒遺跡)、15日広島城、郡山城址、16日吉川元春館跡、万徳院跡です。

福山城天守閣


 1966年(昭和41年)に再建され、5層6階地下1階別に2層3階の付櫓を持つそうです。中は博物館になっていました。見学時間が間近かになったところで急いで回りましたので、刀やら鎧やらがたくさん展示してありましたが、じっくり見れませんでした。残念。

福山城の築城は水野勝成
 さて、福山城は現地案内板によれば、1620年(元和6年)より水野勝成によって建てられたお城です。水野勝成といえば、愛知県刈谷市の刈谷城(亀城)と関係があるようです。

この写真は、2013年12月に訪れた愛知県刈谷市の亀城公園の看板です。城を復原する計画があって、はやく実現してほしいなあと思った看板です。その看板にかわいいキャラクターが登場しています。「かつなりくん」です。

この「かつなりくん」とは、だれでしょうか。
刈谷市のホームページで自己紹介をしています。

刈谷城築城480年マスコットキャラクターとして生まれたかつなりくんは、刈谷城築城480年記念事業の終了を受けて、刈谷市マスコットキャラクターとして市の魅力をPRします。

生年…天文2年(1533年)
性別…男
性格…元気で負けず嫌い
趣味…城づくり、ヤリ集め
好きなもの…まつり、スイカ、大根
言葉・口癖…たまに語尾が「~カリ」になる。


 1533年生まれということですが、この年1533年は、刈谷城が水野忠政によって造られた年です。水野勝成は、永禄7年(1567年)に生まれているので、30年以上も後のことになります。どうして刈谷城のゆるキャラが「かつなりくん」なのか大変疑問なところです。

伏見櫓
 話が横道にそれてしまいました。

 これは、福山城の「伏見櫓」です。写真は木が邪魔をしてあまりよく判りませんが、この櫓は京都の伏見城から移築された櫓だそうです。伏見城は、豊臣秀吉や徳川家康によって建てられた城です。1619年(元和5年)に徳川家康がこの伏見城を廃城とした際に、福山城にも移築されたそうです。1954年(昭和29年)の修理の際に2階の梁に「松の丸東やぐら」の墨書が見つかり、移築が実証されたそうです。


全然関係ありませんが、伏見櫓の石垣に変な植物が生息していました。いったいなんという植物でしょうか。

筋鉄(すじがね)御門

この形の門は以前訪れた岡崎城の門と同じでした。

岡崎城大手門

江戸時代になると、特に江戸幕府の関係のお城では同じような門の形になるのでしょうか。

すぐ南にはJR福山駅
 福山城の天守閣から南のほうを見た写真です。

すぐ近くに見える櫓は、伏見櫓です。その向こうに電車が見えますがJR福山駅です。福山城はJR駅のすぐ横にある史跡なので、JRで訪れたほうがよいかもしれません。
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武節(ぶせつ)城址 豊田市(稲武地区)

2014年11月11日 18時55分23秒 | 豊田市
旧稲武町とは
 所用で豊田市稲武地区に行きましたので、ついでに大きな道沿いにあった山城を訪れました。稲武地区は、飯田街道(国道23号線)と恵那浜松線(国道257号線)が交差する交通の要衝として発展した町です。1940年(昭和15年)に稲橋村と武節村が合併し両方の名前の頭文字をとって、稲武としたそうです。

武節城

 訪れた山城は武節城といいます。現地案内板によれば、永正年間(1504年~1521年)に田峯城主菅沼菅沼定信によって築かれ、天正18年(1590年)最後の城主奥平信昌が家康に従って関東に転封になり廃城となったそうです。
 信州と美濃の国境にあり、三河の最前線の基地として狼煙によって敵の情勢を味方に伝えるという情報網の中心にいて重要な役割を果たし、武田、徳川にとって重要な城だったようです。

奥平信昌
 奥平信昌は、先日記事にした長篠城を守っていた武将です。もともと奥平氏は今川氏に帰属していましたが、桶狭間の戦いで今川氏の勢いが後退すると家康につくようになりました。しかし、武田信玄が三河に侵攻してくると武田氏に服しました。
 しかし、家康の調略によって家康に付くようになりました。それを知った武田勝頼は奥平の人質を皆殺しにしたそうです。
 そして、あの長篠城の攻防になるわけです。長篠城を守りきった奥平信昌は家康から武節城をもらい、武節城最後の城主となったわけです。

武節城に登る

武節城縄張り図(現地案内板)

大きな空掘りが
 下を走る153号線の北側、南側両方から登れるようになっていました。私は南側のほうから登りました。途中外曲輪が見え、おおきな空掘りがありました。


三日市場城の空堀と似ている
 外曲輪と本丸の間に大きく横たわる空堀、私は三日市場城を思い出しました。三日市場城も曲輪Ⅰと曲輪Ⅳの間に大きな空堀がありました。そして、曲輪Ⅳに土塁があり、なぜ同じ城なのに、曲輪Ⅰに対して土塁があるのか疑問とされていました。
 今回の武節城は、本丸側に物見櫓がそびえていました。

 この写真の石碑は本丸にあった「武節城址」「武節城の戦没者供養の碑」ですが、その後が物見櫓へ続く土塁になっています。土塁といってもけっこう高くなっています。その後に大きな空掘りがあり、その後に外曲輪という位置関係になっています。

大きな土塁を上りきると「物見櫓」「狼煙台」になります。今は神社になっています。

 推測するに、この空堀は外曲輪への守りではなく、外曲輪が落ちたときのための空堀ではないだろうかと。三日市場城の空堀も曲輪Ⅰが落ちても曲輪Ⅳで守るために間に大きな空堀があったのではないかなと。

本丸跡はきれいな紅葉
 本丸に上がると、きれいな紅葉が待っていました。

 
 本丸からは、稲武(武節町)の町が一望に見渡せました。飯田街道、恵那浜松線にしっかり睨みを利かせることができます。


 北の方に降りていくと、二の丸、三の丸がありました。

二の丸跡


三の丸跡
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鳴尾地区 名古屋市南区

2014年11月08日 18時36分54秒 | 名古屋市南区
鳴尾地区とは
 鳴尾地区は鳴海小作争議において小作人たちが多く居住していたところです。下の地図は大正9年ごろの名古屋市南東部(南区と緑区の隣接する辺り)です。鳴尾地区は赤い四角の場所です。近くを鉄道が走っています。国鉄です。また東側は天白川です。天白川に寄り添うように扇川が流れています。天白川の周囲はほとんどが水田です。

鳴海小作争議関連地図 銅像後援会「鳴海小作争議と雉本博士」より

100年たった
 ところが、現在はというとほとんど田んぼはありません。住宅地、商店、工場などで埋め尽くされています。かろうじて川の流れとJR線が同じで、道も田んぼも山も大正時代の面影はありません。小作争議は大正6年(1917年)に起こりましたので、それからおよそ100年。100年もたつとこれだけ町の様子が変わってしまうのだと驚きです。

現在の航空写真(グーグルから)

当時の子どもの目線で小作争議を見る
 さて、大嶋光義さんという人がこの鳴海小作争議を子どもたちにもわかりやすくということで、物語仕立ての本を作りました。「鳴海小作争議をさぐる―鳴尾少年探偵団ものがたり」という本です。
 大正11年3月、小作人の子達が親たちの様子を見て大変大事なことをしているに違いない、いったいどんなことをしているか、探検をしようということで、探偵団を作り、寺の和尚さんや小作人組合の中心的な人、地主さんなどにインタビューに行ったり、鳴尾から鳴海地区に探検に出かけたりするというストーリーです。当時の子どもの目線で小作争議をとらえてみようという意欲的な試みです。

鳴尾地区の見学
 その本の巻末に鳴尾地区の見学コースが紹介されていましたので、さっそく行ってみることにしました。


中汐田
 見学は東から大慶橋を渡り、北のほうから鳴尾地区に入りました。大慶橋を渡る手前、地図にはありませんが天白川・扇川の東側に国道1号線の大きな交差点がありました。「中汐田」(なかしおた)です。鳴尾の小作人久野角左衛門が鳴海町の地主寺嶋彦一郎に対して「永小作権を認めろ」という反訴を起こしたときの対象の田地が「中汐田」です。
 まったく読んで字の如しで、「汐田」。昔は海だったのを干拓して田んぼとしたので、「汐田」と言うのでしょう。今まで何度も通った道・交差点でしたがそういうことだったのかと知りました。

国道1号線「中汐田」交差点

永井太左衛門の常夜灯
 さて、鳴尾地区にはいると北の外れに神社がありました。「若宮八幡宮」といいます。ここに天保の年代の記名された常夜灯がありました。

天保9年(1838年)江戸時代です。そして、その横に「永井太左衛門大江弘治」の銘がありました。
永井というのは調べましたら、あの永井荷風と関係があるそうです。鳴尾地区に昔から居住している名士のようです。

小作人が神社に寄進?
 さらに神社の周りのコンクリートの柵に寄進者の名前がありますが、その苗字には「久野」姓が多かったです。「早川」さんも小作人の中にいました。「早川熊五郎」です。小作人とこの寄進者は関係があるのでしょうか。


雉本朗造が演説した西来寺
 つぎは「西来寺」です。「西来寺」は大正9年4月に京大教授法学博士雉本朗造がこの寺に小作人を集め、「永小作権」を主張した場所です。


旧永井家
 そして、その南には「旧雉本小右衛門宅址」及び「旧永井家屋敷址」があるはずでしたが、大正時代のままではありませんでした。雉本宅は全くわかりませんでした。しかし永井家には、こんな看板がありました。

 
 永井星渚という人が、宝暦11年(1761年)、にこの地で生まれたそうです。有名な儒学者だそうです。そして、永井荷風はこの永井さんの子孫だそうです。さきほど、神社に永井太左衛門の常夜灯がありましたが、やはり名士のようです。
永井さんでもう一つ、調べましたら、小牧長久手の合戦でなくなった池田恒興(池田勝入斎)、長久手古戦場に石碑(勝入塚)がありましたが、その池田を討ち取ったのが永井直勝で、この永井さんの遠い祖先に当たるそうです。世の中広いようで狭い。

 さて、鳴尾地区の真ん中あたり「鳴尾の地主宅址」は、きれいな畑とマンションになっていました。


昔を偲ぶ校舎址
 最後に「旧鳴尾学校」現在の鳴尾公会堂は、昔の面影がありました。もしかしたら昔のまま残っているのかもしれないとおもいました。
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馬防柵 新城市

2014年11月04日 15時08分34秒 | 新城市
温泉にいった帰りにもう一度設楽原歴史資料館に立ち寄りました。

馬防柵は資料館から歩いて5分ぐらいのところにありました。


現代の地図に戦いの様子を記した地図(資料館パンフレット)


資料館と復原馬防柵のあたりを拡大した地図


南のほうから馬防柵を見た写真

 馬防柵はここだけではなく延々2キロメートルに及び作られたようです。織田と徳川で作り方が少し違っているそうです。


この馬防柵は「設楽原を守る会」によって復原されたようです。どこにも史跡を保存するグループがあるようです。

馬防柵は3段構え

柵の復原の一番奥にあった馬防柵が一番感心しました。おそらく当時もこのようであったのではないかと推測されています。

現地の説明版

 写真の右側が武田軍、左側が織田・徳川連合軍(鉄砲隊)です。武田軍は右のほうから攻めて来る訳ですが、この写真に出ていませんが連吾川という川があります。そして田んぼは夏なので水を入れています。それを越えても写真のように馬防柵の手前(武田軍から見て)に空掘りがあります。その空掘りを越えても柵があります。柵を越えても土塁があります。
 織田・徳川の鉄砲隊は写真の左の土塁の左側に隠れながら鉄砲を撃っていたようです。こうした馬防柵を2キロメートルにわたり作りあげたので、さすがの武田軍もかなわなかったというわけです。


武田軍の中には柵までたどり着いた豪傑もいたようですが、あえなく鉄砲に撃たれて討死してしまったようです。

連吾川


 おそらく何千という武田の兵士がこの戦いで亡くなられたのだと思います。連吾川は小さな川ですが、この小さな川が真っ赤になったこととおもわれます。「信玄塚」というのが近くに立てられており、毎年供養されているようです。
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長篠・設楽原古戦場 新城市

2014年11月03日 18時24分42秒 | 新城市
 11月3日、東三河に行きました。
 家族でどこかに行こうということで、娘が新城にいい温泉があるという情報を聞きつけ、さっそくそこへ行くことになりました。
 どうせ東三河に行くなら、ぜひとも長篠の古戦場に行きたいとおもい、途中立ち寄ることにしました。

設楽原歴史資料館

設楽原歴史資料館

「長篠の戦い」は「設楽原の戦い」
 長篠の戦いは、小学校の教科書にも出てくる有名な戦いです。織田信長が鉄砲隊を編成し、武田の騎馬隊をやっつけるというもので、織田信長の先見性をアピールし、戦いのあり方の変容を物語る戦いとして紹介されています。


長篠合戦図屏風(Wikipedia)教科書に出てくる有名な上の屏風図は、実は「設楽原の決戦」の様子を表した絵のようです。

 私たちは「長篠の戦い」と習っていますが、鉄砲隊が出てくる戦いは、「設楽原の戦い」というそうです。資料館でいただいたパンフレットには、以下のように書かれています。
 
 ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正3年(1575年)5月の戦いを指します。そして、この戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の2つに大きく分けることができます。

鳥居強右衛門の話
 長篠城の攻防で、おもしろい話を見つけました。
 鳥居強右衛門(すねえもん)の話です。天正3年5月、武田勝頼は長篠城を奪おうと1万5000の兵で城を取り囲みました。城を守っていた奥平貞昌は、兵糧も尽きてきたので援軍が来るかどうかを確かめるために、徳川家康のいる岡崎に使者を送りました。それが鳥居強右衛門です。鳥居強右衛門が岡崎に行くと、家康は織田信長とともに援軍を送ることを約束しました。鳥居強右衛門はそのことを伝えようと長篠城に向かいましが、武田軍に捕らえられてしまいます。武田勢は、鳥居に対して「援軍は来ないから城を明け渡すように伝えれば、命を助け武田の家臣とする」と命令しました。鳥居は命令に従うふりをして、城が見えるところに引き出されると、「2,3日中に援軍が来る。それまでの辛抱だ」と反対のことを伝えました。これをきいた武田軍は、怒り鳥居強右衛門を磔の刑にしたということです。長篠城は、この鳥居強右衛門のおかげで持ちこたえ、武田は長篠城と設楽原に軍勢を分けた状態で、織田・徳川の連合軍と戦うことになったのです。

鳥居強右衛門の磔の図(資料館パンフレットから)

馬防柵
 さて資料館の屋上から戦いの中で織田・徳川連合軍が作った馬防柵(ばぼうさく)が見えます。

屋上からみた馬防柵


拡大した写真

 馬防柵は、帰りにもう一度立ち寄ることにして、温泉に急ぎました。温泉は、「湯の風HAZU」というところです。

「湯の風」HAZU
 出てきた食事を2,3紹介します。




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