高野町に山城があった 蔀(しとみ)山城
夏休みを利用して広島県に行きました。広島県といっても、北部の山の地域です。庄原市高野町というところです。
旧市町村名の入った地図です。昔は比婆郡高野町でしたが、現在高野町は庄原市に属しています。
その高野町にお城があるというので、登ってみました。蔀山(しとみやま)城です。
蔀山城を西から望む。
入り口は草ぼうぼう
地元の人は、小さいときに遠足で登ったことがあると言っていました。
さて、8月6日(火)そこへ行ってみると、案内の掲示板が立っていました。
やったあと思って、さっそく西側の登山道の入り口大山神社の鳥居に行きました。するとそこでは、おじさんが草を刈っていました。
「蔀山に登りたいのですが、上まで登れますか。」
すると、おじさんは、
「昔は上(大山神社)で祭りをやっていたので、草を刈っていたけど、今は刈っていないなあ。その上(蔀山城までの登山道)も、多分刈っていないだろうなあ。」
と教えてくださいました。
登山道に目をやると、腰の辺りまで伸びた草が山のふもとまで続いていて、どこが登山道か分からない状態でした。
白い円の当たりが登山道の入り口。しかし、草ぼうぼうで踏み入ることが困難と判断しました。
山の南側にも入り口が
そこで、あきらめて他をまわろうと思いました。看板に「堀越城址」「居館跡」などと書かれていたからです。そして、車を蔀山の南のほうまで走らせたときです。
「あっ、あれは何だ。」
先ほど調べた看板とは別の石碑を発見しました。
「ここからも登れる道がある。」
と思いました。さっそく階段を登り、奥へと進んでいきました。100メートルほど進むと、小さな建物(神社の社と思われます)があり、そこから先は、道がなくなっていました。
南側からの登山は大変
さあ、どうするか。せっかく来たので、と南側から登城することを決意しました。しかし、道はありません。急な斜面に低木が繁り、行く手を阻んでいます。そこを掻き分け掻き分け、2時間ばかり経って、ようやく頂上の蔀山城に着きました。途中、二の丸、三の丸らしき曲輪もありました。しかし、小さくて「こんなところに本当に曲輪があったのかしら。」と思えるほど小さかったです。大変でした。
頂上に東屋
頂上には東屋があり、休憩できるようになっていました。しかし、狭かったです。木や草が繁っていたので、余計にそう思えたのかもしれませんが、かなり狭かったです。
帰り道は指定の登山道で
帰り道は、西側に当初登ろうと思っていた登山道があったので、それを利用することにしました。登山道は、草もあまりなくこれが道だろうと分かる様子でした。(さすが広島県、平成4年に蔀城址は広島県の指定になっています)
「らくちん、らくちん」
と、どんどん下っていきました。途中で草ぼうぼうになることが予想されましたので、いつ草ぼうぼうになるのか、少し心配しながら下っていきました。
山も八分目ぐらい下りた頃に、昔ここでお祭りをしたという大山神社の社がありました。社の後ろに庄原市の天然記念物に指定されているおおきなモミの木がありました。
草ぼうぼうは入り口だけだった
ここを過ぎるといよいよ大山神社の鳥居の登山道入り口です。しかしここまで草はほとんど生えていなくて十分に歩ける道でした。そして、登山道入り口まで降りて分かったことは、なんと草ぼうぼうだったのは、入り口近くのほんの数メートルだけだったのです。そこさえクリアすれば、あとはすいすいと登れたのです。騙されたというか、なんと言うか、笑うしかありませんでした。
夏休みを利用して広島県に行きました。広島県といっても、北部の山の地域です。庄原市高野町というところです。
旧市町村名の入った地図です。昔は比婆郡高野町でしたが、現在高野町は庄原市に属しています。
その高野町にお城があるというので、登ってみました。蔀山(しとみやま)城です。
蔀山城を西から望む。
入り口は草ぼうぼう
地元の人は、小さいときに遠足で登ったことがあると言っていました。
さて、8月6日(火)そこへ行ってみると、案内の掲示板が立っていました。
やったあと思って、さっそく西側の登山道の入り口大山神社の鳥居に行きました。するとそこでは、おじさんが草を刈っていました。
「蔀山に登りたいのですが、上まで登れますか。」
すると、おじさんは、
「昔は上(大山神社)で祭りをやっていたので、草を刈っていたけど、今は刈っていないなあ。その上(蔀山城までの登山道)も、多分刈っていないだろうなあ。」
と教えてくださいました。
登山道に目をやると、腰の辺りまで伸びた草が山のふもとまで続いていて、どこが登山道か分からない状態でした。
白い円の当たりが登山道の入り口。しかし、草ぼうぼうで踏み入ることが困難と判断しました。
山の南側にも入り口が
そこで、あきらめて他をまわろうと思いました。看板に「堀越城址」「居館跡」などと書かれていたからです。そして、車を蔀山の南のほうまで走らせたときです。
「あっ、あれは何だ。」
先ほど調べた看板とは別の石碑を発見しました。
「ここからも登れる道がある。」
と思いました。さっそく階段を登り、奥へと進んでいきました。100メートルほど進むと、小さな建物(神社の社と思われます)があり、そこから先は、道がなくなっていました。
南側からの登山は大変
さあ、どうするか。せっかく来たので、と南側から登城することを決意しました。しかし、道はありません。急な斜面に低木が繁り、行く手を阻んでいます。そこを掻き分け掻き分け、2時間ばかり経って、ようやく頂上の蔀山城に着きました。途中、二の丸、三の丸らしき曲輪もありました。しかし、小さくて「こんなところに本当に曲輪があったのかしら。」と思えるほど小さかったです。大変でした。
頂上に東屋
頂上には東屋があり、休憩できるようになっていました。しかし、狭かったです。木や草が繁っていたので、余計にそう思えたのかもしれませんが、かなり狭かったです。
帰り道は指定の登山道で
帰り道は、西側に当初登ろうと思っていた登山道があったので、それを利用することにしました。登山道は、草もあまりなくこれが道だろうと分かる様子でした。(さすが広島県、平成4年に蔀城址は広島県の指定になっています)
「らくちん、らくちん」
と、どんどん下っていきました。途中で草ぼうぼうになることが予想されましたので、いつ草ぼうぼうになるのか、少し心配しながら下っていきました。
山も八分目ぐらい下りた頃に、昔ここでお祭りをしたという大山神社の社がありました。社の後ろに庄原市の天然記念物に指定されているおおきなモミの木がありました。
草ぼうぼうは入り口だけだった
ここを過ぎるといよいよ大山神社の鳥居の登山道入り口です。しかしここまで草はほとんど生えていなくて十分に歩ける道でした。そして、登山道入り口まで降りて分かったことは、なんと草ぼうぼうだったのは、入り口近くのほんの数メートルだけだったのです。そこさえクリアすれば、あとはすいすいと登れたのです。騙されたというか、なんと言うか、笑うしかありませんでした。
よくぞ、城へ登ろうと気が付いたものです。もう立派な城歩きマンではありませんか!
田舎の山城は得てして管理が行き届かず、よそから見学に来ても、まったく取り付くしまもない、と言ったことがよくあります。
よくぞ、我慢して登り切りました。今度、詳しい話を聞かせてください
さっそくのコメントありがとうございます。
「よくぞ、城へ登ろうと気が付いたものです。もう立派な城歩きマンではありませんか!」
ありがとうございます。そう言っていただけると、と光栄です。
せっかく出かけるので、何か史跡でもとあらかじめ調べたところ、山城がちゃんとあったのです。しかも、広島県の指定なのです。ぜひ登ってみたいと思いました。