愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松山城(2) 愛媛県松山市

2015年08月07日 09時54分41秒 | 愛媛県
本丸
太鼓門をくぐり、本丸に入ると細長い広場になっていました。パンフレット「松山城」によれば、当時は二つに分かれていた勝山の山頂を削って本丸としたそうです。それであんなに細長いわけです。


本丸から天主付近を望む。右から馬具庫、天主(半分しか見えない)、小天守、南隅櫓。石垣は屏風状に折れ曲がっています。石垣を登ってくる敵に対して横から攻撃できるためだそうです。


パンフレット「松山城」より

本壇入り口付近
本丸の北のほうに天守閣を囲む一群の建物があります。本壇というそうです。松山城の中枢なのでしょう。

本壇入り口付近。右側のスロープが上り口です。左側の門は、紫竹門。その上に見えるのが小天守。その左が天守閣。

搦め手付近

乾門。本壇にすぐに入らず、搦め手付近を見学しました。

南隅櫓(左)、小天守(右)。乾門から見えました。トタン塀で覆われているところは、なにやら工事中でした。何かの発掘でしょうか。

いよいよ、天守閣のある本壇に入ります。

正面が天主、右奥が一ノ門、右手前が一ノ門南櫓、左が三ノ門南櫓。

一ノ門。


二ノ門


三ノ門


筋鉄門

やっと天主の入り口にたどり着きました。

松山城(1) 愛媛県松山市

2015年08月04日 09時27分02秒 | 愛媛県

松山城天守閣 手前のゆるキャラは「よしあきくん」

愛媛県に用事がありましたので、松山城を見学しました。

松山城とは
松山城は加藤嘉明(かとうよしあき)という武将が築城しました。慶長7年(1602年)に工事が着工されました。そして寛永4年(1627年)に一応の完了を見ました。25年かかっているそうです。(案内所で販売していたパンフレット「松山城」より)

加藤嘉明とは
 加藤嘉明は三河の生まれでした。秀吉の小姓として仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、賤ヶ岳七本槍の一人として活躍したそうです。七本槍には福島正則や加藤清正らが名前を連ねています。その後、秀吉、家康に仕え、伊予(今の愛媛県)で20万石の大名となったそうです。

ロープウエイ入り口に建っていた加藤嘉明の像

松山城へ
 松山城は、門と櫓がたくさんあり、どれがどの門か、櫓か、後で画像を振り返っても分かりませんでした。そこで、分かるものを紹介したいと思います。違っていたら教えてください。

 
ロープウェイにマドンナ
 松山城に登るには、ロープウエイがあります。上の図の⑧から⑦にむかってロープウエイ(リフト)で登るのが楽です。もちろん登山道もあるようです。
料金は、ロープウエイ往復と天守閣見学で1,020円でした。

 ロープウエイに乗ると、夏目漱石「ぼっちゃん」で登場するマドンナ姿のガイドさんが案内をしてくれました。(切符売り場もマドンナ姿の方でした)

ロープウエイを降りると本丸の方に行けます。


待合番所跡
 本丸への入り口を入るとすぐに見事な石垣が見えました。

 「これはすごい。忍者もびっくりだ。」と思いました。勾配が急で登るのが大変と実感することができました。

 この辺りは「待合番所跡」というそうです。城に入るのに、ここで身辺調査などをして客を待機させたのでしょうか。この「待合番所跡」を過ぎると、大手門跡がありました。

大手門跡 石垣だけが残っていました。おそらくこの上には櫓があったのでしょう。

 大手門を過ぎると正面に立派な櫓が見えました。「太鼓櫓」です。名前からすると、非常時に「敵だ、敵だ」と太鼓を打ち鳴らすための櫓なのでしょうか。

太鼓櫓 左下に小さく見えるのは天守閣

本丸の防御施設
 ぐるっと回って「戸無(となし)門」「筒井門」「隠(かくれ)門」がありました。

戸無門 その名の通り戸がありませんでした。


筒井門 この右奥に隠門があります。筒井門と隠門とで挟み撃ちにしたそうです。


隠門

これら一連の門をくぐると本丸への最後の門、太鼓門が見えます。

太鼓門 右側をたどると太鼓櫓になります。手前は広場になっています。ここに敵を集めて一網打尽にするつもりだったのでしょうか。