愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

城下町西尾市(1) 西尾市

2016年11月01日 17時22分27秒 | 西尾市
石川浩治さん
西尾市を訪れる前に、西尾城をネットで調べていたところ、西尾市教育委員会石川浩治さんという方の文を発見しました。

歴史探訪 西尾城物語③ 西尾城の遺構を訪ねる

石川浩治さんという名前をどこかで見た覚えがありました。「愛知の山城ベスト50」の執筆者だったのです。一色山城(瀬戸市)、松平城山城(豊田市)、則定椎城(豊田市)、孫根城(豊田市)などたくさんの山城を紹介している人でした。「愛知の山城ベスト50」では「中世城郭研究会」という肩書だけでしたが、西尾市の教育委員会に所属している方だということが分かりました。

その方の紹介では門等の遺構があるので、「西尾城下町歴史小径散策マップ」を手に歩くとわかりやすいということでした。

西尾城下町歴史小径散策マップ

PDFで配信しています

さて、二の丸と本丸をぐるっと一周した後さっそくこの地図を見ながら散策に行きました。

最初の東の丸太鼓跡に行こうとするとさっそく標識がありました。いいですね。

東の丸太鼓門跡
東の丸太鼓門は、今の西尾小学校の入り口付近にあったようです。

太鼓門櫓跡の説明(2013年9月)


太鼓門櫓跡の絵図(2013年9月)

上の絵図を見ると、本丸の丑寅櫓が描かれていて、感覚的に位置関係が分かりませんでした。どう考えても本丸丑寅櫓はこの絵図では手前に位置すると思うのですが…。

ま、それはそれとして、これから門めぐりをしますが、どの門にもこのように説明と絵図があり、遺構としてはほとんど残っていませんが、雰囲気を味わうことができました。

三の丸新門跡
太鼓門跡を東にまっすぐ行きますと、三の丸新門跡があります。

三の丸新門跡説明版

この門は、内枡形の門だそうです。この門の向かいには枡形の名残の土塁の跡がありました。

新門の名残の土塁跡

丁田門跡
新門跡の次は本町通りを北上し、中央通りを東に折れて「丁田門跡」です。

丁田門跡の説明版と絵図

丁田門は、城下の東の出入り口だったようです。

丁田門の絵図

絵図を見ると門の外に広い空間があり、まるで馬出のようになっていました。実際は、ここで出入りのチェックが厳重に行われていたのかもしれません。広場の外は川になっています。「歴史小径マップ」の「みどり川」が昔はここを流れていたのかもしれません。橋は、土橋ではなく板のようなもので作られています。戦になれば、この橋を壊して敵の侵入を防いだのでしょうか。想像が膨らみます。

奥の方には役人の番所みたいな建物もあります。建物の横にさす股など武具が掛けられているので、盗賊や謀反人が通れば、これで捕まえたのでしょうか。想像が膨らみます。

三河の小京都
西尾市は「三河の小京都」と呼ばれていますが、街並みを見ると江戸時代のような家並みがあり、なるほどなと思いました。

肴町通りの古い家並み

つづく
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西尾城(2) 西尾市

2016年10月31日 17時23分53秒 | 西尾市
工事が終わった後に
10月31日、西尾城に出かけました。というのは、前に行ったときは工事中だったのが、どうなったのか、知りたくなったからです。

過去の記事 西尾城 西尾市




2013年9月に訪れた時の公園の様子。看板によると、平成26年(2014)1月23日には、工事が終了しているので、何かできているはずです。

二の丸を復元
行ってみると工事中の柵はなくなっていて、広々とした芝生公園になっていました。そして、そこは二の丸を復元していたのです。


できた二の丸跡公園の案内図

スマホでCGが見れる
左下に「スマホアプリで石垣の上に西尾城がよみがえる」とあります。テレビで姫路城でもスマホでいろんな場面を復元して見ることができるということをやっていました。今どきは、CGの時代なんだと思いました。しかし、私はスマホを持っていないので、残念ながらCGの西尾城を見ることはできませんでした。

天守台と櫓台を復元
西尾城は、本丸ではなく二の丸に天守閣があったということで有名ですが、その天守台および二の丸の丑寅櫓台が復元されていました。

丑寅櫓台


天守台全景 天主は二の丸の北西に造られていたようです。

石垣の石は、ほとんどが他から持ってきた石ですが、発掘によって出てきた石もあるそうです。

中央の石は、発掘で出てきた石を石垣に使っているそうです。

ということで、やっぱりスマホが必要だなと考えさせられました。
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室(むろ)城跡 西尾市

2015年09月28日 18時31分23秒 | 西尾市

室城跡全景

室城とは
今日も快晴。もったいないので城めぐりに行きました。今回は室城跡です。室城については、現地の案内板に説明がありましたので、引用します。

室城は永正年中(1504~)に東条城に至る街道の要所を守る城として、東条吉良氏の重臣富永伴五郎(祐玉)によって創建されたと伝えられます。天文5(1536)年には、岡崎城を追われた徳川家康の父松平広忠がわずかの期間ですが在城していました。その後、永禄4(1561)年の藤波畷の戦いで富永氏が戦死したため廃城となりました。

室城跡は、広島城浅野文庫「諸国古城之図」にも掲載されています。


蔵屋敷跡
室城跡の東側は、神明社で駐車場がありましたので、車はそこにとめました。神明社は、すぐ近くの民家より高いところにありました。「諸国古城之図」では「蔵屋敷跡」となっていますが、「地域の年貢米の集約センター」ではないかと「愛知の山城ベスト50」では紹介しています。


虎口付近の空堀
この神明社から西の方に主郭があります。間の曲輪、虎口守備の曲輪は現在は駐車場と倉庫になっていました。そこをさらに、西に行きますと、主郭です。主郭の虎口付近に空堀が確認できると現地案内板にありましたので、よく見てみると、それらしいものがありました。画像は、虎口の外の南側です。

虎口付近の空堀の跡

主郭土塁跡
主郭は墓地でしたが、東西に土塁の跡が見えました。

主郭東側土塁跡


主郭西側土塁跡

井戸跡
墓地の中央付近には、大きな井戸の跡がありました。


切岸
主郭の西端は切岸になっていました。


水堀、屋敷跡
室城の北方面に小川(水堀のあと)がありました。また、家臣の屋敷跡と思われる空き地もありました。

水堀の跡と思われる小川


屋敷跡と思われる空き地

室城主である富永伴五郎は、藤波畷の戦いで討たれましたが、享年25歳でした。彼の勇名は敵味方に知れわたっており、今でも「伴五郎地蔵」として現地に残されているそうです。
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無量寿寺 西尾市

2014年01月02日 16時22分07秒 | 西尾市
みなさん 明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします



無量寿寺山門

西尾平坂の無量寿寺
 さて、今年一番の記事は、無量寿寺です。
 同じ名前のお寺をずいぶん前に紹介した事があります。それは、知立市の無量寿寺です。かきつばたで有名なお寺です。

 今回のお寺は、三河一向一揆ゆかりのお寺です。西尾市の平坂というところにあります。三河三ヶ寺は佐々木上宮寺(岡崎)、針崎勝鬘寺(岡崎)、野寺本證寺(安城)ですが、これにあと4つ加えて、三河七ヶ寺ということがあるそうです。(浄妙寺、願照寺、無量寿寺、慈光寺)
 無量寿寺は、七ヶ寺の中に入っています。

寺内町があった無量寿寺
 無量寿寺に注目するのは、ここに寺内町があったらしいからです。寺内町とは、一向一揆研究者の新行紀一氏によれば、

 「地域領主から、「不入」を認められ、警察、裁判権が行使されない検断権不入のみならず、経済的不入、すなわち寺内に対する諸公事免除、座公事免除、徳政令適用除外、質(債権)強制取立て禁止などの、全体として「大坂並」特権といわれる諸特権を保持してた」(岡崎市史)

エリアのことです。そして、
 「現在三河国内で本願寺派の寺内が検出できるのは本宗寺、上宮寺、勝鬘寺、本證寺、無量寿寺である。」
と述べています。


寺内町の大まかな範囲

 無量寿寺を中心として、南北に2.5町、東西に1.5町ぐらいのエリアだったらしいです。(1町は大体100メートルぐらいです)なので、南北250メートル、東西150メートルぐらいでしょうか。
 地図で見える水色の部分が環濠または自然の川(を利用した濠)です。歴史地理学者の金井年氏によれば、地図の左側の自然の川と平行して南北に走っている道路の脇に水路があり、それも元は外堀だったのではないかと指摘しています。(金井年「三河の寺内町プラン」)
 確かに無量寿寺の周りの集落は、道が細く昔からのものであることが感じられました。

鼓楼発見
 境内の中には、鼓楼がありました。これを見ると、本證寺のように三河一向一揆を戦ったお寺なんだなあと実感します。


 鼓楼の前に車が止まっていますが、訪れたのが12月30日で、お寺の裏の墓地にお花をお供えして見える方が何人か見えたので、その方のものだと思います。お寺もお正月の準備をしていました。
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西尾城 西尾市

2013年09月15日 08時40分43秒 | 西尾市
家康側の武将たち
 「松平記」では、酒井将監忠尚までで、一揆に与した武将(反家康側の武将)の列挙を終わり、つぎに家康側の武将を記述しています。

「岡崎の勢力は、竹谷(たけのや・宝飯郡)の城の松平玄蕃頭清善(げんばのかみ きよよし)<5>、形の原(宝飯郡)に松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)<6>、深溝の松平主殿助伊忠(とのものすけ これただ)<7>が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、東三河(?)両三人衆の敵に挟まれて昼夜相戦っている。西尾城には酒井雅楽助(うたのすけ)が在城して、野寺荒川(甲斐守義広)と戦っている。」

 竹谷、形原は、いずれも現在は蒲郡市です。まだ訪れていないので、ぜひ行ってみたいと思っています。深溝は、現在の幸田町です。以前紹介したところです。この家康勢3家が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺と戦っていたようです。

西尾には酒井雅楽助
 また、西尾には、上宮寺に検断を仕掛けて一揆のきっかけとなった酒井雅楽助がいて、野寺荒川と戦っていたようです。野寺荒川とまとめて記述してあるので、野寺本證寺と八ツ面の荒川義広が連絡を取り合って、または荒川義広が野寺本證寺にたてこもっていたと思われます。

西尾市歴史公園
 西尾城は、歴史公園として整備されていました。


歴史公園整備中
 図の現在地(右下)の右側は工事中で、歴史公園としてのものが建設されるようです。



 重機が見えます。平成26年1月23日にはこの工事が終わり、なにかここにできると思われます。何ができるのか楽しみです。

鍮石(ちゅうじゃく)門
 公園に入ると、門がありました。鍮石(ちゅうじゃく)門というそうです。



 案内板によれば、「大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石(ちゅうじゃく)門の名に因みこの文字を充てた」そうです。なかなか頑丈そうな立派な門でした。

丑寅櫓

 丑寅櫓です。案内板によれば、本丸隅櫓の一つで、他の櫓より高いところにあったので、物見櫓として使われていたそうです。

姫丸址



 姫丸辰巳櫓址。案内板によれば、「姫丸は、南・東・北は堀により、西は内堀により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門前の馬出しの役割を担っていた。そして、西尾資料館の北方東側に姫丸門があり、鍮石門前の広場と通じていた。木立の茂る部分は庭園風に改造されているが、南東隅の平坦な場所に辰巳櫓があった。隅櫓は、東西7.3メートル、南北5.5メートル、高さ8.2メートルの二重の建物である。」


姫丸門址

お堀、井戸跡

本丸のお堀


井戸の址

東之丸太鼓門址



 歴史公園の東隣は西尾小学校になっています。ここも西尾城の一部だったようです。ちょうど校門のところに案内板があり、ここが太鼓門であったことが分かりました。

酒井雅楽助正親、重忠が居城
 さて肝心の酒井雅楽助ですが、パンフレットに「西尾城主一覧」があり、酒井雅楽助は永禄4年(1561年)から城主であることが記載されていました。次の酒井与四郎重忠(正親の子ども)が天正4年(1576年)から城主であると記載されているので、15年間城主だったことになります。その頃のお城は、こんなお城ではなくて、もっと質素なお城だったと思われます。なお、子どもの重忠は、途中で関東の知行地をもらって引っ越したようです。
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