箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

和製英語って・・・

2020年08月06日 07時41分00秒 | 教育・子育てあれこれ
私は、もと英語科の教員でした。
だから、ふだんの生活で英語を使うことに抵抗感はありません。

日本人は日本語の中に、英語や外来語を使うのがとかく好きです。

今回の新型コロナウイルス感染症の流行に関しても、日常会話に英語が飛び交っています。

ロックダウン、クラスター、パンデミックなどよく使われます。

同様に、すっかり私たちの生活に定着してしまった「ソーシャル・ディスタンス」ですが、海外で英語を日常語とする人たちは、この言葉を言わないようです。

感染症予防で、人と人が間隔をあけるのは、social distancing(ソーシャル・ディスタンシング)と言っているようです。

また、物理的に、感染予防のため、人と人が身体的距離をあけるという意味で、ソーシャル・ディスタンシングのかわりに、フィジカル・ディスタンシング(physical distancing)という言葉を公式に使う動きが英語圏ではあります。

そもそも「ソーシャル・ディスタンス」(social distance)は、感染症関連の用語ではなく、社会学でいう人間の心理的な距離(感)という概念を表します。

こうなると、私としては、正しく英語を使ってほしいという気持ちになります。

でも、いまや公共の店や電車内、駅構内には「ソーシャルディスタンス」という言葉が溢れています。

このようにして、和製英語が日本語の中に定着していくのでしょうが、私にはどうも違和感があります。

だって、英語を母国語として使う人が、日本人が公式な場で、social distanceを使うのを聞いたらどう思うでしょうか。

また、そもそもどんな言語でも、言葉は正しく使うべきだからです。


わかりやすく話すには

2020年08月05日 06時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ
大阪府の吉村知事の話がわかりやすいと言われています。

たしかにわかりやすいと、私も思います。

私には、中学生に対してはもちろん、大人に話す機会が多くありました。

そのときの経験を通して、吉村知事の話し方がなぜわかりやすいのかを考えました。


まず、話す文が一つずつ短いのです。

なおかつ、一つの文には、一つの意味、メッセージしか含めていません。

「感染防止は必要です」
「でも、休業で多くの飲食店が困っています」
「だから経済は止めることをできません」



これを、多くの人は一つの文に、複数の意味やメッセージを入れ込んで話そうとします。

「感染防止は必要なので、休業要請を飲食店にしましたが、それで多くのお店が困ることになりましたので、経済を止めることはやはりできないのです」

文が長くなり、聞く方もつらくなります。
結局何を言っているかわからなくなるか、最後まで聞いてなんとかわかるのです。
 
話すときの文と書いたときの文は、少し形式が異なることもあります。
でも、何らかの意味やメッセージを相手にわかりやすく伝えるという点では同じです。

文字にして書いた文書のうち、行政文書は特に長いものが多いです。

たとえば、文部科学省が今年5月15日に発出した「 新型コロナウイルス感染症の影響を踏まえた学校教育活動等の実施における「学びの保障」の方向性等について」という通知文があります。

そもそも標題からして長いですが、その文書のなかに、次の一節があります。

緊急事態措置の対象から外れた地域も含め、学校における感染拡大のリスクがなくなるものではなく、引き続き万全の感染症対策を講じていただく必要がありますが、同時に、社会全体が、長期間にわたり、この新型コロナウイルス感染症とともに生きていかなければならないという認識に立ちつつ、子供たちの健やかな学びを保障することとの両立を図っていくことが重要です。」

これは、実際のA4版の文書では、この一文で5行にわたっています。
よく読んでも伝わりにくいのです。

私は、話すときだけでなく、文書を書くときも、短文+短文で書くように心がけています。

上の文を変換してみます。

緊急事態措置に含まれなかった地域でも、学校での感染拡大のリスク がなくなるものではありません。
そこで、引き続き万全の感染症対策を講じていただく必要があります。
しかし、同時に、社会全体が、長期間にわたり、この新型コロナウイルス感染症とともに生きていかなければなりません。
この認識に立ち、子供たちの健やかな学びを保障することと感染防止の両立を図っていきます。
すなわち、両立こそが重要と捉えています。


このように、短文と短文の間に、必要に応じて接続詞をはさみます。

誰が読んでも、理解しやすいと考えます。

私は、ブログも、できるだけ短文で書くようにしています。


くわえて、吉村知事の話し方にはもう一つ特徴があります。

印象的なキャッチフレーズを最初に言い、あとで説明する。

または、説明したことを印象的なキャッチフレーズでまとめるという手法です。

たとえば「ウイルスとの共存」という言葉です。

前者は、聞き手の関心を引きつけて、「どういうことだろう」と話に注目させる効果があります。

後者は、聞いたことを最後に一つの言葉でまとめてくれるので、聞いたことを忘れないという効果があります。

私も朝礼の話で、これを使いました。



「中学生は、時には、一人になって自分を見つめることが必要です。

他人が自分を見るように、自分自身を見つめることができたら、自分の変化や成長がわかるからです。

ただし、友だちとの関係を切って、一人になってしまうのは、よくないです。

人は一人では生きられません。人とつながり、助け合って生きるからです。

このことを短い言葉で言います。しっかり聴いてください。

『孤独になっても、孤立はするな』
(繰り返すときもあります)

この言葉を覚えていてください。

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人にわかりやすく話すことは大切だと、あらためて思います。




夏は海より山へ行く

2020年08月04日 07時22分00秒 | エッセイ
夏と言えば、人は海へ行くか、山へ行きます。

山へ行くのもいいものです。

私が育ったふるさとは、山の中の田舎でした。

だから、若い頃は海に憧れたものでした。

とくに、サーフィンが国内で流行り出した頃で、海は魅力的でした。

でも、歳を重ねるに連れて、心は「先祖返り」していくのかもしれません、

山へ行くのもいいものです。

「難波鉄砲隊」というユニットが「山へ行こう」という曲を出しています。紹介します。

「山へ行こう」 作詞 秋元康

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どうして誰もが
混んでる砂浜を目指すの?
水着になりたいのなら
水着で山を登ろう
(蚊に刺されるけど…)     ♪♬

緑の木々と蝉の大合唱の中
汗をかきながら
雲ひとつない大空のその下で思った
私 今 生きている
地に足をつけて…     ♪ ♬

・・・・・・・・・・・・・・・

このような歌詞です。

海に入っていると実感が持てないですが、山に登ると、地に足がついていることを確かに感じることができます。

森林浴を楽しむこともできます。

その意味では、山の方が生きている実感を伴いやすいのかもしれません。

夏山が、私を呼んでいる。

Go to トラベルでなく、
Let’s go to the mountain.です。






ステイホームの実際

2020年08月03日 07時30分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今回の新型コロナウイルス感染防止策の一つである「ステイホーム」は、家庭への負担がたいへん大きいものでした。

これにより、家事や育児の負担感が高まり、家族関係が悪化するという影響が出た家庭もあったようです。

そして、その負担感は父親よりも、とくに母親に大きかったと聞きます。

まず、テレワークと言っても、父親は自分の部屋(あれば)で仕事に集中します。
でも母親は、子どもが休校中で家にいて、手間がかかる、または家事があるので、夜間にしか仕事ができにくい(ことが多い)。

その点で、今回の「ステイホーム」は、母親にしわよせが集中したのです。

でもこれは、従来から子育てや家事を男性が女性に押しつけるという対等でない男女の関係が存続する土壌があることに目を向けるべきです。

OECDの2019年統計結果では、日本の男女間賃金格差は依然として大きく、約23%であり、これは世界の国々の中でワースト2位です。

女は家庭で家事に勤しめという日本古来の習慣意識が今も影響しているからです。

世界経済フォーラムが示した男女間格差を表すジェンダーギャップ指数は、153の国のうちで、日本は121位です。

そのような土壌がある中に、テレワークや休校が命じられ、家での過ごし方は、各家庭に「お任せします」と、丸投げされた結果です。

それなのに、社会で解雇や雇い止めになる真っ先の対象者は、非正規雇用の中でも、女性であるという皮肉。

今後ステイホームの2回目がきたとき、家族に過度の負担を背負わせない、困難を抱えた家庭をサポートする対策が強く求められます。

痩せたいのです

2020年08月02日 14時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ
いま、学校の保健室には、貧血や手足のしびれ、低体温などで倒れ、運びこまれる女子児童・生徒が少なくありません。

痩せたい、太っていることを気にするダイエット願望は、小学生にまで広がってきています。

脚が太い・細い、腕が太い・細い、目が小さい・大きい、鼻が低い・高い、眉毛の形が太い・細い・・・などを気にします。

ダイエットを始めたきっかけは、「好きな男の子や友だちから太っていると言われた」、「ファッションブランドの服をかわいく着こなしたい」、「オーディションを受けたいから」などさまざまです。

メディアや美容産業、医療業界は、「より美しく」と青少年をあおります。

さらに、つくられた理想のボディイメージに執着するダイエットには、さまざまな商品が加わり、からだはダメージを受けます。

そして、自分のからだを痛みつけ、場合によってはいのちにもかかわる深刻な例も出ています。

そもそも、人が自分のからだを意識して、いとおしく思う気持ちは幼児期から育まれるものだと思います。

たとえば、無意識のうちにかゆいところを搔くとか、刃物や熱湯を触ろうとして、親があわてて制止します。

こういうことの繰り返しで、子どもは自分のからだに対する愛着や愛情が深まっていきます。
こういった経験の少ない子が、過度なダイエット願望により、自分のからだを痛みつけるようになるように思います。

自分のからだのメカニズムの精巧さや生命体としての存在感を体感させる保健の指導や保健の教育が必要かと思います。

母校の意味

2020年08月02日 08時00分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルス感染防止のために、国と国の渡航を遮断するのは当然としても、その前から移民の受け入れに反対したり、自国の利益を最優先に考える「ブロック主義」が、世界で横行していました。

罪の中でも、もっともよくないのは、人を分断する罪でないでしょうか。

分断に含まれるのが、人が人を排除することです。

今回アメリカで起きている黒人差別反対の運動は、人種差別が人と人のつながりを分断することに反対しているのです。

分断は、恐怖や非難、敵対心、怒り、嫉妬などの形で現れます。
つまり、人への悪意です。

学校は、人が人とつながることを学び、体得する場所です。

また集団のなかで生きることを学ぶ場所です。

そこで身につけた力は、児童生徒が社会へ出ていかされるのです。

授業がオンラインでできるからといって、学校の役割を代用できるものではありません。

多くの人が、学校や学級の同窓会に集うのは、そこでつながることを学んだ大切な、思い出の詰まった場所だからです。

社会で失敗したり、うまくいかなくて落ち込んだりしても、自分の無力感を味わったとき、一度歩んできた道を引き返し戻る場所は学校(母校)なのです。

そして、「もう一度やり直そう」と、気持ちを新たにできるのです。


関連ブログも読んでみてください。1年ほど前のものです。→






電車に夏が訪れた

2020年08月01日 18時26分00秒 | エッセイ
関西には、大阪と兵庫県を結ぶ私鉄に、能勢(のせ)電鉄があります。

いま、能勢電鉄の車内天井は、すっかり夏景色になっています。

天井にはひまわりの花やアサガオが咲いています。

その天井からは、夏らしく風鈴が吊り下がっています。

風鈴からは短冊が出ていて、今年らしく「疫病退散」の願いごとなどが書かれています。

そして、電車が動くたびに涼しげな風鈴の音色を楽しむことができます。

大阪では梅雨明けとともに、今日8月1日は紫外線が体を刺すような猛暑でした。

せめて動画で風鈴の音をお聞きください。






学問の要(かなめ)

2020年08月01日 06時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ



「学問の要(かなめ)は活用にあるのみ。

活用なき学問は無学に等し」

福沢諭吉は、『学問のすすめ』の中で、こう言いました。

この人が生きたのは、1835年から1901年でしたので、日露戦争前には亡くなったのです。

江戸時代、明治時代を生きて、明治時代になってから『学問のすすめ』を著しました。



今の時代の学力観では、身につけた知識・技能を活用して思考し、判断し、表現する学力が求められています。

学校の授業も、その学力観で組み立てられ、全国で実践されています。

いわゆる「主体的で対話的で深い学びの授業」です。

(関連した内容として、昨日のブログをみてください。→


もちろん児童生徒がたくさんの知識・技能を身につけていることも大切にはしますが、それを活用できる必要があるのです。


今の時代に、正解のない課題や問題に対して自分なりの答を導き出すために知識・技能を活用することが求められます。

日本がこの学力観に至るまでには、知識詰め込み暗記型の学習が、高校入試、大学入試の学力として幅をきかせていたのが、50年前ほどからでした。

熾烈な偏差値受験競争の時代がありました。


たとえば、一昔前の社会(歴史)のテストには年号を問う問題がありました。

「鎌倉幕府は何年に開かれましたか」→「1192年です」

今もこのような暗記(知識)を問う問題は皆無ではないですが、ほとんど出題されません。

かわりに、「源頼朝が鎌倉の地に幕府を開き、朝廷と幕府の関係はどう変わっていったのか」という出題になります。

この問いに対する答を、資料や史料を解釈して、根拠を明確にして自分の考えを書き表します。その際に基礎となるのは、身につけた知識です。

知識は活用してこそ、生きた学習になります。

なお、学力論をいうとき、「応用」と「活用」は違うものとしてとらえています。

だから、「応用問題」と「活用問題」もちがいます。

すでに得ている知識や技能を他の分野にあてはめて利用する問題が応用問題です。

習得した知識や技能、考え方を効果的に利用することをみる問題が活用問題です。

ともあれ、学問のこの本質を150年も前から見抜いていたのが、福沢諭吉です。

私は、その先見性と洞察力の深さに感心します。