
学校は子どもを育てる公式の場ですから、社会でダメと決められているルールや規範は、子どもに守るように指導します。
信号が赤なら、道を渡ってはいけない。校外学習や対外試合の引率をしていると、赤信号では止まって待つように指導します。
私は、信号が赤なら、横断歩道では待ちます。
わが子にも、渡らないように言ってきました。
ところで、学校外の私的な場面で、右を見ても左を見ても、明らかに車が走ってこない。
こんな時は信号に、自分の行動を支配されなくてもいいと思う子がいます。
大人の中にも、こう思う人がいます。
そのような「柔軟性」を持つ人のほうが、言われた通りする子より、何が大切かをを知っていると言えるのかもしれません。
さて、家庭では「わかっているが、できない」ということがあるのではないでしょうか。
酒を飲みすぎてはいけないとわかっていながら、つい飲みすぎてしまう。
夫婦ゲンカはしないほうがいいのに、してしまう。
そのように、人には、わかっていてもできないことがあるのです。
こういうことは、公式な教育である学校教育では教えないことです。
しかし、私的な教育である家庭教育では、こういうことも子どもは学んでいきます。
だから、できないことがある、守れないことがあるという点が自分にもあると知るのは家庭です。
その意味で、親が学校の教師の場合、なかでも両親ともが教師の場合、親はわが子に学校で教えることと同じことをわが子に強いるのです。
子どもにしてみれば、両親が教師だと、学校と同じことを躾けられるので、なかには息がつまることもあります。
教師の子どもが学校で問題を起こすこともあるのですが、それは子どもがおとなからの圧迫感をもつからかもしれません。
柔らかく生きる子は、人から言われた通りにする硬直性よりも、もっと大切なものをもっていると言えるのかもしれません。
そうかといって、ダメなことを、人間にはしてしまうことがあるのだから、してもいいと、私は言っているのではありません。
わかってはいるけれど、そのようにできないという点に悩みがある。
そしてできない人もいるという善悪についての人間が持つ複雑な事情を、親の姿から子どもが知っておくことに意味があるということです。
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