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箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

一人で思索する機会

2020年12月03日 18時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ


10月2日のわたしのブログで、関西大学の学生がコロナ禍のもとでつくった川柳を紹介しました。

繋がらぬ ネット回線 人づきあい

忘れてる 提出期限と 通学路

二度寝して また二度寝しても 間に合った

帰省して いない下宿に 金払う


オンライン授業が多く、対面授業が少なく、大学のキャンパスに入れない大学生の思いをうまく、巧みに表現していました。

このような制約の多い大学生活の不満や不安をつづった川柳が多かったですが、一方では次のような川柳もありました。

向き合った コロナの期間 無駄じゃない

自粛中 やりたいことが 見つかった


家にいて、自分自身のことや自分の将来について考えることができたという大学生もいます。

同じように、自粛期間中が無駄でなかったという人は、大学生に限らずアーティストの中にもいたようです。

ライブ会場が閉鎖され、ライブやコンサートができない間、「ひたすらこもって曲を作っていました」、「自分の音楽をずっと考えていた」とアーティストが言っているのを、先日聞きました。

「3密」という言葉が今年になり、急に現れました。それまでは学校でも社会でも、友だちや仲間と気兼ねなく過ごす機会や時間は十分にありました。

でも、いまは時間と空間につねに気を配り、人との距離を考え接することが必要となったのでした。

それは、窮屈でしんどい思いもしますが、その反面で「一人になる時間をもちやすくなった」という側面があります。

一人になると、今に日本人の多くがはまっている「みんなと同じようにする」という同調圧力から解放されます。

必要以上に周りと合わせなくてもよくなりました。自分のやりたいことをする時間も持てます。

やりたいことといっても、それはスマホのゲームやSNSに没頭するという意味ではないです。

自分自身のことを見つめることです。自分の夢とは何か、そのために何を学んだらいいかなど、自分の生き方について考えるという意味です。

アーティストなら、作詞に没頭するとか、自分の曲作りを極めるとか、自分の音楽はどこへ向いていくのか、絵画の作品づくりに集中するとかです。


人は、人といっしょに過ごすことは大切であり、いっしょに働いたり、活動したりすることで社会生活を送ります。

人との関係の中で生きているといっても言い過ぎではないです。

ただ、自分の生き方や人生の主人公は自分自身です。「孤立」するのではなく、時には「孤独」になり、自分の時間を大切にする中で、自分の感じ方(感性)や考え方(思考)、生き方(人生)を考えることができるのです。

わたしは、全校朝礼の時や個別に話す機会で、中学生によく話していました。
「中学生は、孤立するのはよくないが、孤独になることは大切です」と。

思索して、自己を見つめ、メタ認知を働かせ、他者が見るように客観的に自己を見つめることができるのは孤独になったときです。

12月もコロナ禍が続き、国全体が沈滞し、閉塞感が漂いネガティブな気持ちになりがちです。
でも、コロナ禍が与えてくれるプラスの面もあります。

「新型コロナウイルスが自分を見つめる機会を与えてくれた」とポジティブにとらえるのもいいのではないか。こう思います。

魂にはたらきかける授業

2020年12月03日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は教頭・校長を務めているとき、教員に対して「授業の教材には、魂を込める」と、しばしば言っていました。

授業によっては、たんに知識を伝達するのが目的の場合もあります。

しかし、ここぞというときには、授業は「深い授業」であるべきなのです。

教師からの「発問」に対して、生徒が深く考え始めます。それは生徒が持ち合わせていた考えや意見にいったん揺さぶりをかけることになります。

教師との対話、または生徒同士の対話により、深く思考した生徒は、やがては本人のなかにもっていた新しい真実を発揮しだすのです。

魂の入った教材と発問によって、「こうなんだろう」というよそからの借り物の考えが吟味され、生徒は魂の格闘を始め、研ぎ澄まされていき自分を高めていきます。その積み重ねは自己変革につながります。

この学習の過程こそが「学び」の本質に通じるものです。

いま学習指導要領でさかんに言われている「主体的、対話的で深い学びの学習」にも関連します。

たとえば、国と国のつながりを考える次のような教材があります。

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ロシア革命の直後、シベリアに在住していたポーランド人は、飢餓と疫病に襲われ悲惨な状況に置かれていました。
親を亡くした子も多く、孤児がたくさんいました。
日本政府と日本赤十字は、その孤児たちを日本国内に引き取ったのでした。食事や衣服を提供しました。
そして健康状態を回復した700名あまりの子どもたちはポーランドに送り届けられました。
この歴史的な縁から、のちに東日本大震災で被災した生徒の一行がポーランド政府から招待されました。日本とポーランドの交流は今も続いています。
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この教材を使って、「あなたがこの交流から何を学びましたか」を考える授業です。

「人は助け合うことが大切だということ」という意見・考えが「もちあわせた意見」です。

そこから、突っ込んで授業者(=教師)が発問します。

「交流とはどのように生まれるのだろうか」という問いかけが発せられました。

授業の中で、教師と対話したり、生徒同士が意見を言い合い、深く考えぬいたある生徒は、次の真実を見つけました。

ポーランドは日本がしてくれた「恩」を忘れることができないのだ。
そうか、恩を与えることと恩を受けるという関係があるのだ。これが「交流」ということなのだ。

この例のように、「助け合うことが大切」という通俗的な考えの低い次元から脱して、高い次元の考えに至る過程は、生徒が自分を高め、自己を変革していくことにつながるのです。

このような教師の魂と生徒の魂がぶつかりあうような授業が、ときには必要なのです。

生徒のもつ通俗的・一般的なありきたりの意見・考えが吟味されていきます。

どこかから借りてきたような「借り物の意見・考え」が、授業者(=教師)からの魂のこもった教材と発問により浄化(カタルシス)されていくのです。
あらたな高い次元の発見が学習者(=生徒)の喜びへと変わっていく。

その意味で授業の究極の作用とは「浄化(カタルシス)」であるとも言えるでしょう。




「最後のカタルシス」という曲があります。歌詞を引用します。
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「最後のカタルシス」

やさしい瞳で叱ってくれたね
あなたは母親のように…

まわりの大人はあきらめてたのに
どうして名前を呼んだの?

路地裏のネオン 雨に打たれた猫
すさんでた心に 希望の光が射す

もう一度 生きようか ここから抜け出すんだ
ボロボロの過去なんて捨ててしまおう

もう一度 生きようか 未来は外にあるよ
眠ってた魂は最後のカタルス  
 (作詞 秋元康 作曲 伊藤心太郎)
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わたしは、この曲から次のようなストーリーを思い描きます。

人からうとまれ、無視され自暴自棄になり、絶望感につつまれていた青年。誰からも声をかけられることもなかった。

路地裏に座り込み、傍らには雨に打たれた猫だけがいる。

その青年に、ある人が声をかけてくれました。

「自分を大事にしようよ・・・」

その瞬間に、希望の光がさしこんだのです。

そうだ、もう一度生きてみよう。

自分はこの状況から抜け出すんだ。



濁った心に光がさしこみ、眠っていた魂が浄化されて、希望が開けていく瞬間を切りとった名曲だと、私は考えます。


いつもというわけにはいかないけれど、教師であるなら、ときには生徒の心を揺さぶり、魂を浄化(カタルシス)する授業をしたいものです。

みんなが学校で授業を受けた経験があるので、学校の先生の授業というものは、みんなが広く知っています。

しかし、じつは、授業はたいへん奥が深いものなのです。