言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

日本における反戦論の根源

2010-08-27 | 日記
佐高信・編 『城山三郎と久野収の「平和論」』 ( p.40 )

佐高  城山さん、お住まいの近くではあまり講演とかをやらないのでは。

城山  講演は苦手なものですから、できれば勘弁してもらっています。地元でもそうなんです。佐高さんを尊敬していますし (笑) 、僕の言いたいことは、佐高さんが言ってくださいましたからね。
 私は実際に広島で原爆を見ているんですね。海軍にいまして、広島から七、八キロの所にある山の上の高射砲陣地にいました。その高射砲は、ブーゲンビルかどこかにあったものを持ってきたものでした。大正一〇年式だというんですね。昭和二〇年に大正一〇年式の大砲を持ってきた。弾を詰めようとする人は、年輩で兵隊に取られた人が多いですから、弾が重くてひっくり返っちゃうんです (笑) 。
 高角機関銃で飛行機を撃つんですが、機関銃なのに三発で撃つのを止めろというんです。「イチ、ニ、サン、……止めろ!」というんです。何のために機関銃があるのか知りませんけどね。アメリカ軍のグラマン戦闘機は、翼に機関銃をつけていますから、ババババと撃ってくる。それに対して、こちらは三発です。それが、末期の日本海軍の状況だったんですね。
 原爆が落ちた時に、教えていた教官が飛び上がっちゃったんです。海軍は沈着冷静だとさんざん言われているのにですね (笑) 。それで僕らが外に出てみたら、雷が一〇ぐらい落ちた明るさがあって、すごく怖い状況なんです。上官でも説明がつかないんですが、水力発電所が爆発したらしいと言うんです。火力発電所が爆発したのなら分かるんですが (笑) 。
 軍隊ですから広島へ救援に行くべきなのですが、陸軍と海軍は仲が悪かったんです。広島は陸軍の都で、僕らは海軍でしたから命令が出てこないんですね。次の日も基地の近くで訓練をしていました。そうしたら、どこかの家からおばさんが飛び出てきて、抱きついて、「兵隊さん、息子は広島で酷いめにあって殺されたんです。仇を討ってください」と泣いて言うんですね。
 原爆が落ちたということは後になってから説明されたのですが、僕らは「あれは光線を使う爆弾だ」と教わったんです。だから、「光線が通れないようにしておけば、絶対に怖くない」ということになった。次の日から第一種軍装といいまして、真っ白な服装をしろ、ということになりました。これで光線は通らないからいい、ということなんです。本当にいい加減なものですね。
 僕ら自身、最後は何をやらされるかと思ったら、横須賀の油壷へ送られました。僕らがいるのは呉鎮守府なのに、なぜ横須賀鎮守府に持って行かれるのかと思いましたが、「お前たちの仕事は向こうにあるから行け」ということでした。「行く前に向こうで間に合う訓練をしておくから」と言われて、水中で呼吸ができる道具を付けて、「水中特攻」の訓練をしたんですね。その頃そういう言葉はなかったんですが、最近それに関する本が出てきました。
 それは、人間が爆弾だということです。竿の先にダイナマイトを付けたものを持って、遠浅の海で待つ。敵の船が来るのは遠浅の海ですから、その読みは正しかったんですね。湘南海岸は東京に近くて遠浅ですから、上陸しやすい。それを迎え撃つ仕事をさせられるわけです。
 僕らの受けた訓練は、海の中に縦横五〇メートル間隔に並んでいる。人間機雷というんですが、機雷を持った人間がそこにいるということなんですね。上陸用舟艇に乗って敵が来たら、下からバンと爆破する。そして自分も吹っ飛ぶ。こういうことを、真面目にやらされたんですね。
 その時は何がなにやら分からなかったのですが、とにかく敵は東京を狙ってくる。東京に近くて上陸しやすい所に来る。それが茅ヶ崎海岸だったんです。遠浅で、上陸用舟艇が入りやすいんです。まさか、後にそこに住むとは思わなかったんですが、いまもその跡は残っています。海岸にあるコンクリートの建物が特攻の陣地だった。砂の上に特攻の陣地があるなんて、どうしてだろうと思っていたら、その建物に人間が入っていて、敵が近づいてきたら飛び出していって、海の中で特攻をやるということだったんですね。
 恐ろしいことを考えるというか、そんなところに行くまでにブレーキがかからなかったのか。そんなことをやって、勝てるわけがないんですからね。めちゃくちゃですね。よくあれで戦争をやったと思う。

佐高  勝てるという気持ちはどこからかなくなっていたんですか。

城山  神風が吹くということを、一五歳の頃からたたき込まれていますからね。そう思って、戦況は逆転するんじゃないかという期待を持っていました。

佐高  三発しか撃っちゃいけないと思っていても、それは崩れないわけですね。

城山  崩れないわけではなくて、これで勝てるかとは思っていました。ここまで来るまでに、何とかできなかったのか、こういうことをやって勝てるか、と思いました。呉の近くにいて油壷送りというのは、もう少し早く送り込まれていたら、何十年か早くここで死んでいるわけですね。


 城山三郎の戦争体験が語られています。



 この本、『城山三郎と久野収の「平和論」』は、二部構成になっています。それぞれ、見出しは、

   第一部  城山三郎の「反戦論」
   第二部  久野収の「非戦論」

となっており、第一部は城山三郎と佐高信、第二部は久野収と佐高信の担当です。上記引用部分は、第一部のうち、城山三郎と佐高信の対談部分です。



 見出しが示すように、この本は、「反戦・非戦」を主張しています。私は憲法九条の改正 (論) を支持していますが、軍事力によらずに国家を防衛できれば、それに越したことはないと思います。そこで、「反戦・非戦」論者がどのような発想に基づいて「護憲」を主張しているのか、それを知るべく、この本を引用したいと思います。



 今回の引用部分で、城山さんが語っておられるのは、日本がいかに勝ち目のない戦いをしたか、ということです。そしてまた、その勝ち目のない戦いのなかで、日本がいかに戦おうとしていたか、ということです。

 ここで、語られている内容について、簡単に私見を述べます。



 (1) 高角機関銃で敵機を迎え撃つ際、機関銃なのに三発で撃つのを止めろと言われた。これに対して、アメリカ軍の戦闘機はババババと撃ってくる。

   ここからは、当時、日本軍の物資がいかに欠乏していたかがわかります。戦闘機相手に、三発しか撃ってはいけないというのですから、防衛はほぼ絶望的だった、とみてよいと思います。



 (2) 原爆が落ちた際に、水力発電所が爆発したらしいと説明を受けた。しばらくして、光線を使う爆弾だと教わった。そして、真っ白な服装をしろ、これで光線が通らないから大丈夫だ、ということになった。これを「第一種軍装」という。

   水力発電所が爆発したらしい、という話には、日本軍にとって、原爆がいかに予想外だったかが示されています。したがって、日本には原爆に関する知識がなかった、圧倒的な技術力・情報力の差があった、と考えられます。もっとも、「上官」といってもどのクラスの上官なのかが判然としないので、この記述をもって圧倒的な技術力・情報力の差があったと断定してよいものか、すこし迷う部分はあります。

   しかし、「真っ白な服装をしろ」「これで光線は通らないからいい」ということになった、とあります。こちらは上官の個人的判断ではなく、「海軍の(それなりに正式な)判断」とみてよいでしょう。とすれば、圧倒的な技術力・情報力の差があった、とみてよいのではないか、と思われます。



 (3) 「人間機雷」の訓練を受けた。これは「水中特攻」である。

   この部分は、日本がいかに追い詰められていたか、あきらかな負け戦であると判明しつつある状況のなか、日本はどのように戦おうとしていたのか、を示しています。



 (4) これで勝てるか、と思いつつも、神風に期待していた。

   上記 (3) は日本という「国家」、海軍という「組織」がどのような決断をしたか (どのように考えたか) を示していますが、この (4) は城山三郎という「個人」はどのように考えていたのか、を示しています。

   おそらくこれは、多くの兵隊さんに共通した考えかた、受け取りかただったのではないかと思います。



 このように、城山さんが語られた内容からは、日本は「どうあがいても勝ち目のない、あきらかな負け戦のなか、最後まで戦おうとしていた」ことがわかります。これは人によっては、「死力を尽くして戦った」美談ということにもなるのでしょうが、その逆に、「勝ち目がないならさっさと降伏すべきである。勝ち目がないことがあきらかになった後の戦いは、くだらない」という受け取りかたもあります。

 おそらく、城山さんは「くだらない」という受け取りかたをされたのではないか。上記引用のなかに、「(笑)」と書かれている部分が散見されることから、このように考えられます。

 とすると、城山さんの「反戦論」というのは、

   「どんな戦いであれ、戦争そのものに反対である」というものではなく、
   「勝ち目のない戦争には反対である」という趣旨である

とも考えられます。

   「たとえ勝てることが確実であろうと、戦争には反対である」という考えかたと、
   「勝てる見込みがある戦争であれば反対しない」という考えかた

とでは、その内容がまったく異なります。後者であれば、(二度と負け戦はしなくてすむように) 日本は防衛力 (軍事力) を高めるべきである、という考えかたも成り立ちます。



 したがって、日本における「反戦論」が、「本当の意味での反戦論」なのか、「負け戦否定論」なのか、そのあたりを吟味しなければならないのではないかと思います。