田母神俊雄 『自らの身は顧みず』 ( p.184 )
次に「非核三原則」であるが、これも議論が必要である。核兵器を持たない国家は最終的には、核兵器保有国の意志に従属せざるを得ない。国際政治ではそのことが理解されているから核保有国は、現在核を保有していない国には核を保有させたくないのだ。日本が核を持ちたいと言えば、アメリカは核の傘を提供するから持たないでくれと言うであろう。そのとき日本はそれではどのように核の傘が提供されるのかアメリカに説明を求めることができる。そうすれば日本が最初から核を持たないと宣言するよりは核抑止効果が向上するのだ。我が国が自ら核を持たない意思表示をすれば、核抑止効果はそれだけ減ずることになる。
北朝鮮が核兵器を持ったから日本も核兵器を持つとか言ったら人類は滅亡すると言った政治家がいたが、事実は逆で、核兵器が、核戦争はもちろん通常兵器による戦争をも抑止しているのである。「日本が核攻撃を受けたのは核兵器を持っていなかったからだ。私は核のない社会よりは平和な社会を選ぶ」と言ったのはイギリスのサッチャー首相だ。
核兵器は兵力の均衡を必要としない兵器である。通常兵器であれば十対一の戦力比であれば、戦えば必ず十のほうが勝つ。しかし核戦争には勝者はいないのだ。それは一発でも命中すれば耐えられないほどの被害を受けるからだ。北朝鮮がどうにかして核兵器保有国になろうとしているのはそのことが分かっているからである。
北朝鮮が核を持った場合、米国は軍事攻撃で北朝鮮をつぶせなくなる。核による反撃が怖いからである。たとえ一発でも核兵器で反撃されれば、その被害は甚大で民主主義国家アメリカは耐えられないからである。私は北朝鮮が核を保有しているかどうかは分からない。
しかしもし保有していれば、アメリカはイラクやアフガンはつぶせても北朝鮮をつぶすことは難しくなる。
さて我が国の核兵器の保有は米国との関係、核拡散防止条約(NPT)などの関係で難しいが、現行憲法の下でも不可能ではない。安倍内閣は平成十八年に、質問趣意書に対して「核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」と答えている。
例え核兵器の保有はしなくてもいつでも保有する姿勢を示すことで大きな抑止力となる。日本のように核開発技術が高ければ決断すればすぐにでも核兵器を開発できるからである。
戦争を防ぐために、日本も核保有を議論すべきである、と書かれています。
ここには議論すべきである、と書かれているのみですが、田母神さんが核武装論者であることは 「
本当の 「愛国者」 とは」 に引用した報道記事でわかります。
私も、「議論すべきである」 ことは、疑いないと思います。
しかし、核武装によって国を守れるか、というのは、私にはわかりません。核武装論の根拠は、核には抑止力がある、というものですが、
本当に、核には抑止力があるのか
を、私は疑っています。
なぜなら、核の破壊力にも、かぎりがあるからです。核兵器は都市を破壊し尽くすことは可能だと思いますが、国を破壊し尽くすことは不可能だと思います。たとえば広島に核が撃ち込まれても、( 広島近郊の ) 呉は無事だと思います。すくなくとも、岡山や神戸あたりは無事でしょう。とすれば、国家がそれなりの覚悟を決めれば、核の使用もありうるのではないか、と思います。とくに、アメリカや中国、ロシアのように、広大な国土を持つ国であれば、たとえ数十発の核を撃ち込まれても、耐えきれるのではないかと思います。
どうも、核の威力が誇張されすぎているのではないかと思います。たしかに、第二次大戦は、核の使用によって終結しました。しかし、それは (1) 日本が核を持っていなかったことに加えて、(2) 日本に余力がほとんど残っていなかったからであり、日本に余力が残っていれば、広島・長崎に核が落とされたあとも、日本は ( 核を持たないまま ) 戦い続けたのではないでしょうか。
あのとき日本が核を持っていれば、日本も核を使ったと思います。アメリカが使わなくとも、日本は核を使ったのではないか。特攻を試みたくらいですから、( 日米双方が核を持っていたとしても ) 日本は核を使ったのではないか。そう考えられるのです。
もちろん、戦争が始まった後で互いに核を開発した場合と、核を持っている国同士が開戦する場合とでは、話が異なります。また、核の威力が世界に知られていなかった当時と、広く知られている今とでは、状況も異なります。しかし、なんらかの対立がエスカレートして、核保有国同士が開戦し、核戦争に至らない、という保障は、どこにもないのです。
なお、私は日本の核保有に反対しているのではありません。核保有すべきかどうか、わからない、したがって論議が必要、という立場です。