お前らもしっかり勉強しろよ、なんて色々と偉そうな事を書いたりしちゃってますが。。
常識では考えられないほどの努力、集中力を発揮してしまう人というのは、裏を返せば、それまでの人生の中で猛烈な後悔とか、コンプレックスとか、悔しさなんかを味わってしまっているケースも多いのではないかと想像しています。前述のイングリッシュ・モンスターさんがどうなのかは知る由もありませんが。
まあ私なんかは、想う大学に入れなかったというコンプレックスと(浪人もできなかった)、たまたま一流大学卒ばかり居るような職場に入ってしまって、「これはヤバイ」と思ったのと、上記のコンプレックスもあって、「絶対こいつらには負けたくない、二度と負け犬はごめんだ」という歪んだ対抗意識が猛烈にあって、猛勉強に突っ走ってしまったというクチです。周りは全部敵だと思っていました。大学時代も悔しくて悔しくて仕方なかったので、勉強ばかりしていました。今でも悔しいです(笑)。
歪んでいますねぇ。決して人として褒められたメンタリティーではないと思います(笑)。本来、学問というようなものは、人への対抗意識とかコンプレックスの裏返しとか、そういう”悲壮感”の下でやるようなもんじゃないはずです。もっと明るく素直で楽しい、健全な精神状態で、伸び伸びとやれるのが一番望ましい。私もそうありたかった。でも、子供の頃からそういう事が自然に身に付いてしまうような育ちの良いタイプでは、残念ながらありません。
逆に言えば、「そこまでしなくても」と言えてしまう人は、健全な精神状態を維持できている、まともな人間と言えるのかも知れません。
人を突き動かす猛烈なエネルギーというのは、良くも悪くも、ある種の”異常体験”、”異常な精神状態”から生まれてくるものだと思います。満たされている人が、何かに対して極端に一生懸命になれるはずなどありません。だから逆に、一生懸命やっている人が、本当にまともな精神状態にあるのかどうかも、怪しい。そういう意味で、「努力ばっかりの人生なんてつまんねー」という考えも、ある意味正しいのかもしれません。
”諦める”ことによって和やかな、余裕に満ちた人生を手に入れることもできるでしょう。私はまだ諦めたくはないですけど。自分がもし望みどおりの大学に入れて、青春を楽しく謳歌できていたとしたら、、、今頃は腑抜けになってしまってるかな?いや、もっと高いレベルに到達できたかも知れないし、、、こればっかりは分からん。
常識では考えられないほどの努力、集中力を発揮してしまう人というのは、裏を返せば、それまでの人生の中で猛烈な後悔とか、コンプレックスとか、悔しさなんかを味わってしまっているケースも多いのではないかと想像しています。前述のイングリッシュ・モンスターさんがどうなのかは知る由もありませんが。
まあ私なんかは、想う大学に入れなかったというコンプレックスと(浪人もできなかった)、たまたま一流大学卒ばかり居るような職場に入ってしまって、「これはヤバイ」と思ったのと、上記のコンプレックスもあって、「絶対こいつらには負けたくない、二度と負け犬はごめんだ」という歪んだ対抗意識が猛烈にあって、猛勉強に突っ走ってしまったというクチです。周りは全部敵だと思っていました。大学時代も悔しくて悔しくて仕方なかったので、勉強ばかりしていました。今でも悔しいです(笑)。
歪んでいますねぇ。決して人として褒められたメンタリティーではないと思います(笑)。本来、学問というようなものは、人への対抗意識とかコンプレックスの裏返しとか、そういう”悲壮感”の下でやるようなもんじゃないはずです。もっと明るく素直で楽しい、健全な精神状態で、伸び伸びとやれるのが一番望ましい。私もそうありたかった。でも、子供の頃からそういう事が自然に身に付いてしまうような育ちの良いタイプでは、残念ながらありません。
逆に言えば、「そこまでしなくても」と言えてしまう人は、健全な精神状態を維持できている、まともな人間と言えるのかも知れません。
人を突き動かす猛烈なエネルギーというのは、良くも悪くも、ある種の”異常体験”、”異常な精神状態”から生まれてくるものだと思います。満たされている人が、何かに対して極端に一生懸命になれるはずなどありません。だから逆に、一生懸命やっている人が、本当にまともな精神状態にあるのかどうかも、怪しい。そういう意味で、「努力ばっかりの人生なんてつまんねー」という考えも、ある意味正しいのかもしれません。
”諦める”ことによって和やかな、余裕に満ちた人生を手に入れることもできるでしょう。私はまだ諦めたくはないですけど。自分がもし望みどおりの大学に入れて、青春を楽しく謳歌できていたとしたら、、、今頃は腑抜けになってしまってるかな?いや、もっと高いレベルに到達できたかも知れないし、、、こればっかりは分からん。