まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

2010年08月12日 21時59分11秒 | Weblog
出産に立会い、子供と嫁さんを助産所に預けっぱなしで祖母のお通夜、告別式に。

自宅に帰ったら帰ったらで忙しい・・・。


沢山の祝福のメールありがとう。
そして返信できずごめんなさい。。


ここ数日、多くの出来事の中で思うことがあったのだけど綴ることもできずなんだか消化不良。

思うことを書いてみよう。


人それぞれ聞ける音と聞けない音がある。
鳥山敏子さんの本にそのようなことが書かれている。

私も農業を始めて聞けなかった音を聞けるようになったと実感することがある。サラリーマンの時は世界の不幸に目を向けることが出来なかった。それよりも自分のストレスを日々消化することに追われていたように思う。
でも子育てに目をしっかりと向け生活を整える、日々生活の仕事をするようになってから段々世の中に関心を持つようになる。
サラリーマンのように新聞やテレビで情報だけを取り入れ知識として配備する。一般常識としてその範囲だけの単純な思考回路ではない。

心の奥底で捕らえ日々の生活から得られる感性で物事を真摯に受け止め考える。

例えばDAYS JAPANが雑音では無くなったという事。


最近、嬉しい出来事。
引越しして1年の私達なのに隣のおばあちゃんは子供が産まれたことを報告すると涙を浮かべて喜んで下さる。

どうすればこんな素晴らしい音感が育まれるのだろう。


そんなことを数日考える。


やはり
それは日々の生活が身体を作るということに尽きるのでは。

どういう仕事をするか。
どういうくらしをするか。
どういう環境か。
どういう食べ物か。
どういう子育てをするか・・・・

という事ではないか。

そして

私達は貧乏であって良い。
食べていけるのはまだ先でも良い。

それよりも日々の生活の暮らしを整えたいと思う。

親が金持ちだからと言われてもそうできる環境ならそうしたい。

そう思う。






出産前、畑のようちえんに久々に参加する。
夏の活動場所は涼しい金剛山。

そこで気づかされるのは力を抜くということ。
何かしがらみがあるのは大人のほうで子供達は自由そのもの。大人たちがその子供の世界と一体となれるように力を抜くことの必要性。

まずは意識をするところから始まるけれど日々の繰り返しでそれは無意識になる。
身体の動きであってもまずは意識をして外面的な動作を行うが次第に無意識に動かせるようになる。次に力を抜くということをする。すると動きは内面から発せられるようになる。

子供は常に内面からの動きをする。それは感性おもむくままに。

これから必要とするものを沢山吸収しようとする動き。
その時にテレビの画面に映る森ではなく、電子音の小鳥のさえずりではなく、その場所でその空気を感じ、風を感じ、匂いを感じ、音、視覚、霊気みたいなものも感じることが大切になる。
人との関わりもその感情が子供達に受け止められなければいけない。

親が睨みをきかせると子供はすぐに固まってしまう。内面の動きが抑制され段々外面的な動きに。そういう子供を子供らしくない子供と言うのか・・。
親と子は連鎖する。

ここは親の訓練の場のようにも思う。
力を抜いて感性おもむくままに、内面からの動きに集中する。
子供が裸足になると私も裸足になってみる。痛い・・。
子供がリュックを置いて遊びに離れても気にすることをしない。
すっかり忘れてさらに離れようとしたとき「あれ?太陽のリュックは?」と一声掛ける。
すると子供達の中で変化が起こる。
意図的な声かけも決して意識的ではなく無意識に心から「あれ?」っと。「あれ?」の心が通じるように。

でも大人だから命の危険に気を使わなければいけないし、ある程度の誘導も。

いやぁ難しいね。
畑のようちえんの母親というのはすごいわ。。




聞ける音聞けない音と言うのは決して情報量の多さで聞ける量が増えるわけではない。

日々の生活から生まれるものだから、そこにストレスがあると聞くべき音が聞こえなくなってしまうように思う。

特に子供という時期にはストレスは全く必要が無い。

出来るだけ“ない”という生活は溢れる生活では聞こえなかった身の周りの音を聞く事が出来るようになるのではと思う。
それは子供達にとってもっとも大切な事。。




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