まつなが畑のはたけ日記

農ある生活をするため奈良御所市金剛山の麓に農地を借りスタート
素人農業の何気もない日々の日記

情報と人

2011年07月18日 20時25分42秒 | Weblog

情報化の怖い部分って何か?

情報社会に付いての議論は今まで随分なされてきたのだろう。

3.11以降、多くの人は放射能について良く知ることになる。以前ではキチガイとも思われかねないその事柄に今では多くの人が知識として持っている。
それは恐らく新聞、テレビの情報だと思う。

今ではタイムラグ無しに何百キロと離れた場所の情報がリアルタイムに入ってくる。
それはどういう事だろう?

3.11以前は探し出すように求めていた情報が今では寝転んで画面を見るだけで頭に入ってくる。
以前と以後の情報は同じであったとしても果たして同じなのだろうか?と私は思う。




私はここ田舎に来て人と話すときの感覚が都会にいるときと明らかに違うことに気づく。
都会では溢れる情報の中で、その情報、知識で話をしている感覚(その場にいれば気づかないけれども)がある。話の内容というのは受け取った情報の横流しのように、知っていることで話が進む。
ここ田舎では私よりも何周りも上の方と良く話しをするのだけど、その経験の中で得た確かなものを感じる。それは人付き合いからあらゆる知識、人として話している感覚を持つ。

と、書いても何が違うのかよく分からない。でも明らかに都会と田舎では違った。

それを私はローカルとグローバルの違いだと思う。


ローカルな地域では情報量に乏しい為一つの情報にたどり着くまで時間が掛かる。追い求めたり、考えたり、想像したりという過程を経る。

包括的な社会は多くの人が速い速度で情報を共有する。
情報が均一、単一化されやすい。それは情報への依存度が高く、時には電気はエコだと思い込んでオール電化を求めていた人が、ある時突然そのエコなハズの電気が制限され大きな環境破壊に気づく。

一つの情報に自分の心の部分の関わりがどれだけあるか?でその情報は違うものとなるように思う。
経験上から考えたり、想像したりして導き出した答えは心の部分に深く結びつく、しかしテレビで与えられた答えは軽い。すぐに忘れる。
そこから発せられる言葉はまた軽い。だから人と話すというよりはその軽い情報や知識で話していると感じるのかもしれない。

勉学も心と結びつけて学ぶ人(社会的責任)と詰め込む人(自己責任、自己満足)では違うのだろう。

私はこれが田舎の人と都会の人の違いのように思う。
(誤解があってはいけないので全ての田舎の人、都会の人に対してではなく、私の経験上の話で何か根拠があるわけでもない。今私の周りにおられる方は都会に住んでおられても心と心でお話する尊敬する方ばかりです。)



今では多くの人が原発、放射能の知識を持つようになったが果たしてどれだけの人が心と繋がっているのだろう?と疑問を持つ。
3.11以降溢れる情報の中で短期間に得た知識とそれ以前に探し出すように獲た知識では違う。そこに気づかず議論されてしまうと思わぬ方向へと進む可能性があるのでは?と私は危惧する。

どんな問題も心の部分で感じ、想像力を働かせて人として考え、選択していかなければいけない。
そうでなければ「自分だけは」「我が子だけは」になりかねない。