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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

聖書と地震について

2011-03-20 13:17:54 | 社会について
テレビの地震、津波の災害を見て、神(エロヒーム)はいないと思った方は多くいたのではないのでしょうか?
※新共同訳から引用です。

いくつかの聖書の言葉を確認したいと思います。


神は愛です。
(ヨハネの手紙 一 4章16節)
この「愛」とは、どういう意味でしょうか?


モーセの十戒(律法)には、次のように書かれています。

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。
あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。
あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。
わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい
それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
(申命記 30章 15-20節)

重要なことは、「その道に従って歩み」です。
これは、神(エロヒーム)の愛(無償の愛)に対して、それに応えることが、神(エロヒーム)が人に求めておられることです。
つまり、神(エロヒーム)は、人が神(エロヒーム)に従うことを求めておられます。


わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。
この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。
なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。
これが、神から受けた掟です。
(ヨハネの手紙 一 4章 16-21節)

私たちは、愛することに対して無知であることを、認識をしないといけません。
神が私たちを愛して下さったことを知らなければなりません。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」と書かれてあります。

愛はつぎのようになります。
神の愛 ⇒ 私の愛 ⇒ 隣人への愛 (これが正しき愛です。)
神の愛 ⇒ 私の愛 ⇒ (神の愛 ⇔ 私の愛)

よく誤解されること。
私の愛 ⇒ 神の愛 ⇒ 私の愛 ⇒ 隣人の愛 (これは誤りです。)
私の愛 ⇒ 神の愛 ⇒ (私の愛 ⇔ 神の愛)
私が神を愛するから、神が愛して下さるとは、大きな誤りです。

申命記では、神が十戒(律法)を与えることが、人を愛していることです。
その神の愛に、人が答えるのは十戒(律法)に従うことです。(旧約聖書の考え方)


また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。
父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。
しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
(ヨハネによる福音書 5章 38-42節)

聖書はイエスを証する書物であることが分かります。


そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
イエスは言われた。
わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。...」
(ヨハネによる福音書 6章 34-35節)

神を愛しているならば、イエスを愛する。
イエスを信じることは、神を愛することと同じことです。

旧約では、「神の愛に、人が答えるのは十戒(律法)に従うこと」
新約では、「イエス・キリストを信じること」


地震について
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。
「おっしゃってください。
そのことはいつ起こるのですか。
また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスはお答えになった。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。
そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。
また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る。」
(マタイによる福音書 24章 3-14節)

聖書では、地震が起こることは書かれています。
だが、聖書のどこを読んでも、地震は神が起こしているとは書かれていません。

神は地震が起こることは知っているが、神が起こしているとは書かれていないことに注意しないといけません。
そこを勘違いすると、つまづくことになります。


<まとめ>
神の愛とは、神の愛に対して、人がその道に従うこと。 つまりは、イエスを愛することです。
神は地震が起きることはご存じですが、地震は神が起こしている訳ではないです。

神は、良い時(状況)でも、悪い時(状況)でも、人がその道に従うこと(イエスを救い主として信じること)を、神が人に求めておられます。