これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

父と母と南高梅

2018-05-20 12:26:00 | 果樹
 十年ほど前に、コーナンで南高梅の苗木を見付け、我が家の庭に一本植えました。大事に!大事に!育ててきたので、三年程前から食べきれない程、沢山実を付けます。
 添付の写真は10日ほど前に撮った我が家の南高梅です。毎年、6月の20日頃にほとんど青梅で収穫しています。

 南高梅の本場は和歌山県の南部町ですが、本格的に植え始めたのは(私の故郷)龍神村だったのではないかと、私は思います。

 戦後、帰還兵や都会に移住していた人達が村(当時は合併前で下山路村)に帰ってきて、人口が急増しました。村の旦那衆が数人で、開墾の検討や現金収入の方策などを話あっていました。

 最初は、山の裾野を開墾して畑を造り薩摩芋やじゃが芋などの食糧を作り、現金を得るために杉や檜の苗を育てました。次の手段は確実なものが無く、それぞれ旦那衆が自分のアイディアを試して見る事になりました。『花き』の苗や球根、『林檎』の栽培など。

 私の父は、『村の梅は、南部町が不作の年にも多数実を付ける』と昔から言われていることを思い出し、南部高校の竹中勝太郎教諭に相談に行きました。「花が咲いた後に霜が来ると不作になる、あなたの村の開花は遅いから霜の被害が少ないのかも?」と言われたそうです。「これから始めるのなら、『高田梅』を推奨する」と言われ、苗木を手配してくれました。

 当時はまだ『高田梅』で、『南高梅』とは呼ばれていませんでした!

 最初は我が家の小さな畑、数面に十本ほど南高梅を植えました。姉達が巣立って行くと必要な食糧が減って、残りの畑にも植えていきました。1958年頃には殆どの畑と、栗畑が梅畑になっていました。

 1960年代の初め頃には沢山収穫出来る様になりましたが、梅のお金の話は母が亡くなる年まで私には一切言いませんでした。母は病床で、「近所の人達とトラック一台分の収穫が得られる様になった時、大阪の市場に出荷したけど、一粒も売れないでトラックが帰ってきた。次の年も全く売れなかった。3年目になってやっと、(完売した)トラックが空で帰って来た時は、涙が出た」と話しました。

 父は、村の人達に『南高梅』を推奨していましたので、売れなかった2年間は辛かったと思います!

 その後、龍神村でも沢山『南高梅』が植えられましたが、高齢化が進んで、近年は殆ど手入れのされていない梅畑が増えて来ています。残念です!