これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

私の貧乏学生時代

2020-07-11 11:19:53 | 勉強
 私は、「学生時代に幸運を使い切ってしまったのではないか?」と思えるほど、ラッキーな出来事が続いて起こりました。 それで、貧しかったですが、楽しい学生生活を送る事が出来ました。

【学資の目途は付いていませんでした】
 1967年~71年に学生でした。 私は小さい頃から「大学で勉強したい」と考えて来たのです。年老いた(当時、既に66才の)父が、「月・12,000円仕送りする」と言ってくれたので、それでは足りないのを承知で入学したのです。4年間は無理でも、やれる所までやって見ようと考えました。 (1967年の大学への進学率は13%ほどでした。2019年は54%ほどです。)

【家庭教師 :最初の幸運】
 奨学金とアルバイトで不足分を補う必要が有りましたが、大学は仙台でしたので、アルバイト口が殆ど無かったのです。 (まだ、コンビニもスーパーも有りませんでした。)

 大学が家庭教師の紹介をしていました。 入学して直ぐに申し込んだのですが、高学年優先の抽選制で、係の方から「一年生は当たりませんよ」と言われたのですが、二、三回申し込んだらラッキーにも当たったのです。 当時の家庭教師代は安かったので、一か所では食べていけません。 何回も紹介の担当者を訪ねて、「もう一か所紹介して欲しい」と頼んだら、「女の子の家庭教師なら紹介します」と言ってくれました。

 女の子の家庭教師には女子大生を紹介していたのですが、私の大学には女子大生が少なく、ほぼ抽選無しの状態でした。 多分、係の方は「私が真面目人間で、女の子にイタズラをしない」と判断してくれたのだと、勝手に思いました。

【下宿代】
 私は、大工の棟梁が自宅を増築して始めた下宿に入りました。 私が入居第1号だったのです。 大学から遠かったので、その近辺には下宿屋は無くて、下宿代を安く設定して始めた様でした。朝夕・二食付き、4.5畳で一万円でした。夏休みまでには六室中に四室が入居していました。

 秋になって、小母さんが「1.1万円に値上げしたい」と言い出したので、私は「卒業するまで値上げしないなら、1.2万円だす」と言うと、了解してくれたのです。当時、毎年・物価は数%上昇していたので、下宿代は毎年1,000円以上高くなりました。 小母さんは約束を守ってくれたのですが、下宿代を渡すたびに、「貴方に騙された」と言い続けました。 (私は、下宿代の値上がりを心配しなくて良くなったのです!)

(余談) フォークソングの『神田川』に「三畳一間の小さな下宿」とありますが、友人の下宿がそうでした。畳は三枚敷いているのですが、半畳の押し入れが天井から釣り下がっていて、下に60センチ程の空間がありました。布団の一部を、その空間に敷いて寝るのです。当時の学生は、そんな環境で頑張って勉強していたのです。

(余談) 小母さんの料理は最高に美味しかったです。4年間に十人以上の出入りが有りましたが、料理に文句を言った下宿人はいませんでした。 毎年・11月になると、多量に白菜を買って、4種類の白菜の漬物を作ってくれました。これは、本当に美味でした。他にも、ニラを多量に入れた”おすまし”とか、カレーとか、金も儲けでは無く真心を込めて作ってくれました。 私は、四年間小母さんのお世話になりました。

【大学の授業料】
 1967年~71年の国立大学の授業料は、なんと『12,000円/年』で、公立高校の授業料より安かったのです。 そして、4年間値上がりしませんでした。 私が卒業した後から急激に高くなりました。 この点でも、私は幸運だったのです!

 近年の国立大学の授業料は『535,000円/年』ですから、幾ら勉強したくても、私の様な貧乏な家の子供が国立大学に入るのは非常に難しいと思われます。

(余談) 大学の無償化が議論されていますが、勉強が嫌いな子供が入る大学の無償化には反対です。中小企業に出向した時、簡単な仕事以外は担当させられない社員がいたのですが、彼は『大学卒』がばれてしまいました。「学歴詐称で首にすべきだ」と言うのを、私は止めました。 『鉄は熱いうちに打て』と言いますから、「彼が高校を出て直ぐに仕事を始めていたら、もう少し正面(まとも)に仕事が出来たのでは」と思いました。 国も貧しくなってきていますから、有効な金の使い方を考えるべきです。

【全学連の学生運動】
 私の学生時代は、全学連の学生運動が盛んな時期でした。私の大学には活動家は少なかったと思いますが、東京から沢山遠征して来ました。 リーダーは殆ど東京の学生だった様です。 彼等は、屋外ではヤジ演説をしませんでした。

 授業が始まると、三、四人の暴力学生が侵入して来て、教室を乗っ取るのです。リーダー以外はヘルメットをかぶり、顔を手拭いで隠して、鉄パイプを持っていました。大学の授業は100分単位でしたが、その間、馬鹿馬鹿しいリーダーのアジ演説をジット我慢して聞く以外には無かったのです。 寝たり、読書をすると、鉄パイプで思い切り殴られるのです。 (私は、殴られて頭に大きな瘤(こぶ)が出来たのを何回か見ました。)

 私が入学する前に、「出ていけ!」と叫んだ先生がおられたそうですが、鉄パイプでコテンコテンにやられたそうです。 先生達は椅子に座る事も許され無くて、100分間立ち続けました。

 教養部では、10%以上の授業が出来ませんでした。 不思議に、彼等はテスト中はお休みでした。多分、彼等もテストを受けていたのだと思います。 先生達は授業の進捗状況に関わらず、予定通りに授業をしたと言う内容の問題を出しました。

 工学部は幸いにも山の上に有ったので、殆ど暴力学生は来ませんでした。 私のゼミ担当の教授は、前年に全学連の学生の被害に遭った(?)らしくて、全く講義をされず、ゼミは助教授に押し付けていました。 教授は授業をし無かったのに、テストだけはやりました。

(余談 :疑問に思う事) 「学問の自由、言論の自由が最も大切だ!」と言う理由付けで、全学連の横暴を大学側は許容していた様でした。 然し、暴力は犯罪で、刑事罰の対象です。 金額は少なかったですが授業料を払っていたのですから、学生には授業を受ける権利が有ります。 自分の考えを、暴力を使って無理やり相手に聞かせることが、『言論の自由』だと皆さんは思われますか? 「警察の力を借りてでも、全学連を学外に退去させるべきだ」と思いました。

【教科書】
 仙台には古本屋が数軒並んだ通りが有りました。 先生達は毎年同じ教科書を使うので、全ての教科書が格安の値段で入手出来ました。 教科書以外の本も、古本屋で買いました。

(余談 :一万円) 使い込んだ・箱付きの独和辞典を買ったのですが、”なんと”一万円札が挟まれていました。「奥さんが絶対に手を出さない本を選んで、旦那が臍繰りを隠していたのだ」と想像しました。

(余談 :カフカ) 一年生の時に難解で有名なフランツ・カフカの『歌姫ヨゼフィーネ』の文庫本を古本屋で買いました。 和訳してくれてもカフカは難しいですね! (この文庫本は当時は絶版になっていたと思います。) 殆ど読まないで放置していたのですが、二年生のドイツ語のテキストが『歌姫ヨゼフィーネ』だったのです。 私は翻訳本を参考にして予習していたのですが、教授は毎回・一回は私を指名しました。 「君の訳は素晴らしい!」と褒めてくれましたが、凄く”後ろめたかった”です。

【娼婦のお蔭で、卒業までやって行ける目途が付きました】
 1年の夏休みが始まると、早々に東京の姉の家に転がり込んで、途中・畑の畦道を通ると30分弱で行ける豊島園でアルバイトをしました。 (豊島園は今年閉園しました。)

 沢山・学生アルバイトがいましたが、徒歩通勤は私だけでした。 私は電車の最終時間以降も働けたので、チケット売りだけでなく、閉園後に残ったお客さんに帰って頂く仕事もさせて頂きました。 アフリカやエスキモーの住居を真似た小さな小屋が点在していたのですが、担当の方と手分けして内部を確認して回る仕事でした。殆どの小屋にアベックが残っていて、ラブホテルと勘違い?していました。時々、真っ裸のカップルさえいました。 一、二回注意しても帰らないカップルもいて、2時間以上残業?する日も有りました。

 担当の方と親しくなって、3日ほど後に、「明日から素晴らしい売り場に廻してあげる」と言ってくれました。 人気のお化け屋敷のチッケット売り場で、売り子が一人しか入れない小さな建物でした。 毎日朝11時頃になると、厚化粧で/ど派手な服を着た二十歳前後の女性達が集まってきて、その頃から米兵と思われる青年達も集まって来ました。

 彼女達は結構流暢な英語で商談を始め、成立すると青年がチケットを千円札で2枚買いました。 大抵、釣銭を取らずに行ってしまうのです。 中には、五千円札や一万円札を出して、釣り銭を取らない青年もいました。 売り子は私一人ですから、追っ掛ける分けには行きません。 持って行かなかった釣銭は別に取っておいて、閉園後に担当の方に相談すると、「その金を会社に入れると経理処理が難しいので、君が貰っておいて下さい」と言ってくれました。 担当者が『素晴らしい売り場』と言った意味が分かりました!

 田舎で待っている両親に会うための往復の旅費を稼ぐためにアルバイトしたのですが、20日強働いて予定を遥かに超えるお金を得る事が出来ました。なんと!十万円以上・貯金が貯まり、ほぼ四年間やって行ける目途が立ちました。

【蔵王でスキー】
 豊島園のアルバイトで得た金で、スキー用具を一式買いました。 大学主催の格安のスキー教室が、毎年二、三回蔵王温泉で有ったので、1年生と2年生の時は毎回参加しました。安い!安い!旅館に二泊した様に記憶しています。 (この費用も、豊島園で得た金を当てました。)

 パラレル・クリスチャニアが出来る様になってからは、安い宿を探して、自分一人か友人と二人で出掛けました。 皆さん!蔵王地蔵尊に行って、樹氷を見て下さい! 素晴らしいです! 学生時代の最も楽しかった思い出です。

【おかき屋さんのアルバイト】
 1年生の冬休みに”おかき屋”さんのアルバイトを見付けました。 御主人に気に入ってもらえたので、休みの前になると、御主人が下宿までこられて「何時から来てくれるか?」と言って頂きました。 当時の仙台にはアルバイト口が少なかったので有難かったです。

(余談 :松の葉) この店では、一年に一回だけ見事な”おかき”を作りました。 最高の糯米を弐升ほど、入念に餅にして→硬くなったのをマッチ棒程に切り→乾燥させて→醤油に砂糖を加えて煮た液体を餅に絡め→二本をクロスさせ→青海苔の粉を塗し(まぶし)て出来上がりです。 (想像して見て下さい!)色も形も松の葉の様に仕上がりました。 膨大な手間が掛かるだけでなく、歩留まりが非常に悪く(作業中に餅が壊れてしまう等)、とんでもない金額で売らないと利益が出ない逸品でした。 仙台で有名な茶道の先生方に、日頃のお礼として配っていた様でした。

【工場実習】
 3年生の夏休みに大手鉄鋼会社(S社)の尼崎工場で、2週間ほどの工場実習の応募が有りました。宿/食事付き、日当有り、その上・仙台から大阪までの往復旅費付きでした。毎年・夏休みに、紀州に帰省していたので、私にとっては願っても無いアルバイトだったのです。

(余談 :国鉄のキップ) 仙台から紀州の実家に帰省する時は、乗車券を「東北線→東海道線→大阪→紀勢線→名古屋」にすると安かったです。当時、新宮から東京までの夜行列車が有り、安かったので何時も利用しました。 『青春18キップ』はまだ発売されていなかったと思います。

(余談 :工場の昼食) 工場の食堂で昼食を頂いたのですが、病院食より酷い味でした。S社は求人の一環として工場実習をやったのだと思いますが、「一生不味い昼食を食べるのか?」と考えたら、S社に就職する気にはなれませんでした。 一般に・どの会社も業者に社員食堂を利用させませんが、私は設備診断、自動化のアドバイスなどで全国の会社を訪問したので、特別に社員食堂の利用を許してくれました。 2000年代になってもS社の時と同様に、「二度と食べたく無い」と思う会社が多々有りました。

【就職が決まった会社からの奨学金】
 私が4年生になった年は、多分、戦後最も求人難だったのではと思います。当時は、4年生になって就職活動しました。 私は工学部でした。 各科に就職担当の教授がおられ、その方から推薦状を頂かないと、企業に応募出来ませんでした。 理由は今でも分かりませんが、「(ゴーン氏が務めていた)N自動車会社以外には推薦状を出さない」と言われました。

 私は自動車関係の仕事はしたく無かったので、何回も、何回も、教授室に行って「他の会社への推薦状を書いて下さい」とお願いしましたが、「N社以外は絶対だめだ」の一点張りでした。ゼミの教官に相談すると、「N社にはペーパーテストが有るから落第点をとれ、探偵社が身辺調査をするから、下宿の小母さんに適当に言ってもらえ」とアドバイスして頂きました。

 N社は東京往復の旅費を支給して、旅館も手配してくれました。 試験の問題は非常に簡単で、白紙で出してはいけないとアドバイスして貰っていたので、(無い知恵を絞って)試験官が思わず笑ってしまう回答を書きました。 貴方は、落第点を取るための試験を受けた事が有りますか?! 結構、楽しかったです!

 毎年・雪掻きを一緒にやった隣の若い奥さんと、下宿の小母さんに、「探偵社が来たら、女好きで、酒飲み・・・」と言って欲しいとお願いして置きました。 本当に探偵社が来ました。

 N社から(嬉しい)不合格の連絡があって、教授から希望企業(K社)への推薦状を頂いたのが7月の始めでした。 友達は皆、既に就職先が決まっていました。 K社の学生向けパンフレットを見ると、以前には無かった「一年間、月一万円の返却不要の奨学金を支給する」と言う紙が入っていました。 (すんなりと、推薦状を貰っていたら、奨学金は貰えなかったのです!) 応募すると数日で内示を頂き、その月から奨学金が振り込まれました。

 この奨学金は非常に有難かったです。4年生になると、卒業実験とゼミの担当教官から渡された沢山の論文を纏めた報告書の作成等々で、家庭教師をする時間を取るのが難しい状態だったのです。

(余談) K社からの、ある月の振り込みが『100万円』と通帳に記載されました。天の恵みか! 一万円だけ出して、残りはそのままにして置きました。 仙台を去る前に全額引出しに行ったら、長いこと待たされて、支店長が出てきて、「この100万円はミスでした」と言われて、結局数百円引き出しました。

【勉強と遊び】
 私の学生時代のモットーは「よく遊び、そこそこ勉強する」でした。 2年生の2学期から機械工学の勉強が始まり、授業の他に設計/製図やレポートの作成やらで、要領よく勉強しないと遊ぶ時間が出来ない状態になりました

 私は、「大学は学問の基礎を学ぶ所だ」と今でも思っています。 日本は幸いにも大学の成績が、アメリカや韓国の様に入社の合否判定にも、昇格にも関係しません。 仕事に必要な知識は、大学で勉強した学問の範囲に収まりません。 そして、もっと広く/深い知識が必要になります。 会社で一流と言われる技術者達は、入社後に本格的に勉強した人達です。

 スキー、マージャン、囲碁、クラシック音楽等に結構・時間を割きました。クラスで何かする時は必ず参加しました。勿論、飲み会にも! 入社して仕事に必要な工学的な勉強に取り組みましたが、大学で勉強した時よりも、格段に身に付きました。 次回は、社会人になってからの勉強について書きます。

私の大学合格までと勉強

2020-07-04 09:55:26 | 勉強
 今回は、私の高校時代の話しと、大学受験の失敗から合格するまでの話しを書きます。

【高校入学】
 私の村には日高高校の分校が有ったのですが、田辺高校に入学して、一人暮らしを始めました。 貧しかったですが、楽しかったです。軍人恩給を送って貰ったので、送金は二か月に一度ですから、計画的にお金を使わないと大変な事になってしまいます。それで、計画的に金を使う習慣が身に着きました。東京の姉が、内職で稼いだ金を時々送ってくれました。

【間借り生活】
 高校に寮が有りました。母が女学生の時に住んだ寮です。見に行くと、男子用には畳敷きの18畳程の3部屋が有り、一部屋に数人が同居する様になっていました。 部屋の中央が朽ちて床が抜けて・大きな穴が開いていました。襖を撤去した押し入れに寝る様になっていたのです。 雨漏りの跡は酷いし、紀州でもこんな部屋では寒くて冬・勉強出来そうに有りませんでした。

 急遽、下宿を探して入りましたが、下宿代が高かったので長く住む事は出来ませんでした。担任の先生に相談すると、①先生が独身の時に間借りしていた家に話をしてくれ、②昔・芸者だったと言う気風の良いお婆さんが経営する食堂で昼食を半額で食べさせて頂く事になりました。③夕食を寮で食べて良い(特別な)許可を得てくれました。 先生のお蔭で仕送りで何とか生活出来る様になりました。

 台所が無かったので、電気湯沸かし器とトースターを買って何とか生活しました。ゴミを出すのが難しかったので、お茶では無くインスタント・コーヒーを飲みました。洗濯は洗面所で手洗いしました。(入社して寮に入るまで、手洗いしました。)

(余談) 
間借りしたS氏の家は、偶然ですが我が家とは深い繋がりが有ったのです。 二所帯が住める二階建てで、台所付きの”離れ”が有ったのですが、戦前に父の弟が結核でその一室で亡くなっていました。S氏は製材所と木材商を相続したのですが、仕事よりも釣りが大事という方で、戦後・会社を倒産させてしまいました。その時、父が管財人(?)になって会社、家屋敷と離れ、不動産の一部が残る様にして処理したのだそうです。S氏は父の恩義を忘れていませんでした。

 私が間借りを始めた頃も、釣り船を1艘所有し、船頭を常雇いして、毎日3時前には帰宅して釣りの準備をしていました。早く下校した日は、私に釣り餌作りを頼むのです。S氏には娘2人と息子がいましたが、奥さんも子供達も絶対に手伝いませんでした。何時も雑談しながら、30分間程手伝いました。

 2年生の終わりの頃(2月頃)、下校すると餌作りを頼まれたのですが、その時は奥さんも珍しく横に座っていました。S氏が「将来、娘(次女)を貰ってくれ」と言い出したのです。 彼女は私より1学年上で、眉目秀麗/容姿端麗でミス田辺高校の様な存在でしたから、彼女の方から断ってくると思いました。何と答えたか?良くは覚えていませんが、一応了解しました。(身分相応と言いますが、彼女は私には不似合いな美人だったのです。) それから3カ月ほどして、S氏は脳溢血で急死されました。 死んだ方との約束でしたので、気になっていました。入社した年に挨拶に行くと、結婚された長女と奥さんがおられ、小一時間雑談しましたが、結婚の約束の話しは出ませんでした。(内心、ほっとしました。) 後に、田辺市の裕福な旧家に嫁がれたと聞きました。

(余談) 
S氏宅から20m程の所に新聞社(A社)の事務所が有り、若手の独身の記者が一人派遣されていました。 独身の歴代の記者は全てS氏宅で間借りしていました。1年生の終わり頃に赴任して来た記者は、私の都合を考えないで、「酒を飲もう」と誘いに来るのです。 大抵は日本酒でしたが、時々・ワインとシャンパンを飲みました。「何と旨い酒だ!」と思いました。私は、酒は少ししか飲めませんが、辛口ならドンな酒でも好きです。(彼は、試験中でも誘いに来ました。)

 S氏宅には誰でも出入りして良い応接室が有り、そこに全ての全国紙と紀州の地方紙を置いていました。多分、A社が記者の為に取っていたのだと思います。私は毎日30分ほど読みました。記者が時々、原稿を書いていました。A5かB5ほどのサイズの原稿用紙に、凄いスピードで書くのを見て、「私には無理な職業だ」と思いました。

(余談 :チキンラーメン) 寮には一学年上の、バスケットボール部の大男の生徒が二人いました。寮の夕食は棚に名札が付いていて、そこに各自の分が置かれていました。 二人は他人の夕食を毎晩・一、二人分勝手に食べるので、二人か四人は夕食をべられなくなりました。 寮には男性と女性の先生が住んでいましたが、『事なかれ主義』で見て見ぬふりをしていました。 私も、週に一度か二度・被害に遭いました。 町の飯屋に行く金が無かったので、そんな日の夕食は日清食品のチキンラーメンになってしまいました。 結構よく食べたので、今でも時々チキンラーメンが食べたくなります。

【村長さん】
 高校一年の夏休みだったと記憶するのですが、村長さんに呼ばれました。「医学部に入れたら、村から学費を出す」と言われました。 私は、大学に入って勉強はしたかったのですが、将来の仕事までは全く考えていませんでした。何学部でも良かったのです。 それで、「医者になって、田舎で暮らすのも悪く無い」と考えました。

 当時、医学部はそんなに難しく無かったです。後述の様に二浪する様な形で、国立大学の工学部に入ったのですが、入学して直ぐに「医学部に数名の空きが出来たので、転部を許可する。但し、入試の得点が医学部合格者の最低点より高い事」と言う掲示が出ました。 駄目元で、私が条件をクリアするか調べてもらいました。「OKです」との回答だったので、「村長さんに相談して見ようか」と悩みました。「あと7年間貧乏生活を続けるのは耐えられ無い」と思ったので、転部はしませんでした。

【高校時代の勉強】
 剣道部に入りました。講堂兼体育館を剣道部、体操部、バスケット部でシェアしていたので、練習は週2回でしたが、週に一回は町の道場を借りたり、砂浜を走ったりしたので週に3日はクタクタになってしまいました。1年生の終わり頃に、成績が落ちて来たので担任の先生からストップが掛かって退部しました。

 私は「予習する事を」大切にしていました。 明日の授業で進むと思われる分を予習するのには、1時間も掛かりません。 当時・大学受験では高校での成績は考慮され無かったと思います。 中間試験や期末試験の時は、クラスメートは「徹夜した」とか言っていましたが、英語以外は勉強しませんでした。 試験の頃、不思議と面白い洋画がきたので、東京の姉が送ってくれた金で見にいきました。 (クレオパトラ、ヒッチコックの”鳥”、シャレード・・・、この頃、マカロニ・ウエスタンの製作が始まりました。)

 2年生になって、問題集を買って来て本格的に受験勉強を始めました。 近くに住んでいた叔父が月に一度は祖母の家に連れて行ったり、自転車で30分は掛かる姉の家に食事に行ったり、もう一人の叔父の所で叔母とビールを飲んだり、勉強に割いた時間は決して長く無かったです。

【教頭先生の英語塾】
 私の通った高校は”市”にありましたが、当時・塾は有りませんでした。英語と数学の先生が数人、日曜日の昼間に塾を開いていました。 私は2年間ほど、教頭先生の英語の塾に通いました。 素晴らしい教育者で、私が教えて頂いた多くの先生の中で最高の方だったと今でも思っています。 先生の教えは、「分からなかったら、(誤魔化さないで)分かりませんと言いましょう!」です。

 受験勉強では無くて、「短編小説を原文で楽しむ」のが趣旨の塾でした。使用したテキストは下記の①~④だったと記憶しています。 塾生は同じ高校の生徒で、六、七人でした。予習が絶対に必要でした。少し原文を朗読して、口頭で翻訳して次の塾生に渡すのです。私以外は英語が得意の生徒で、一日に読む量は結構多かったです。その為に、私の予習は大変でした。 (今の塾とは違って、夏休み、冬休み、春休みは、塾もお休みでした。)

 塾用に離れを建てて、そこに国内で発行された・ほぼ全ての辞書(英英辞典、英和辞典、和英辞典)と英国で出版された分厚い辞書を置いていました。 誰かが可笑しな翻訳をすると、「僕にも分からない」と言われて、10分ほど籍を外されました。その間に、皆で協力して辞書を調べるのです。

① フィフティ・フェイマス・ストーリーズ (Fifty famous stories )
② オーヘンリーの短編集 :『最後の一葉』を含む
③ ジョージ・エリオットの短編 :『サイラス・マーナー』を含む
④ サマーセットモームの短編集

(余談 :先生のテニス) 教頭先生は小柄な方でしたが、テニスが大変上手でした。友人が、「教頭先生のテニスは素晴らしい」と言うので、見学した事があります。テニス部の生徒を相手にして、テニスを楽しまれていたのです。 下手な生徒が相手の時は、打ち返せる所に、上手な生徒には少し難しい所に打ち返すのです。 ラリーを続けて、生徒がテニスが楽しいスポーツだと思う様に、でも教頭先生もテニスを楽しんでおられました。 先生の英語塾と同じスタンスでした。

【日本史の先生】
 私は高校の社会科で日本史を選択しました。先生は”とんでもない”方で、教科書は無視して「ジンギス・カンは源義経である」との自説を延々と続けました。 私は馬鹿馬鹿しいので、図書室から読売新聞社が刊行していた『日本の歴史』を借りて、授業中に読みました。

 時々、先生の声が聞こえなくななりましたが、先生が私の傍に立って、私が『日本の歴史』を読んでいるのを見ていました。 私と目が合うと、また・ジンギス・カンの話を続けるのです。当時、『日本の歴史』は十巻ほど刊行されていましたが、全て読みました。(私が日本史を好きになったのは、この先生のお蔭です!)

 皆さんは、「日本史の授業が無くても、大したことでは無い」と思われるかも知れませんが、当時・国立大学では理科系でも入試で社会科の一科目を受ける必要が有ったのです。

【大学合格の内示】
 高校3年生の9月か10月頃に、教員室に呼ばれると、担任の先生から「県立医科大学から合格の内示がきた」と言われました。 「多分、村長さんが働き掛けてくれたのだ」と思いました。 両親に報告すると、母が大反対でした。 母は「国立大学の医学部以外は認めない」と言うのです。 県立医科大学の授業料は国立大学より高かったので、貧しい村に大きな負担を掛けたく無かったのだと思いました。

 二、三週間後に、某私立大学の医学部からも「合格の内示」が来ました。 大学の総長は政治家(衆議員)でも有って、昔から父がボランティアで選挙運動を手伝っていました。 我が家に一年に一度、総長が挨拶に来られていました。私は小さい頃から挨拶して、何時も少し話をしていました。 もしかしたら、私を覚えていて「合格の内示」を出してくれたのかも? (この方は、私が高校を卒業した年に亡くなられました。)

 入学試験を受けて無いのに、”合格”では『不正入学』です。 私の模擬試験の成績は、両校の偏差値より可成り高かったのですが、それでも、『不正入学』には変わりません。 

【大学受験に失敗しました】
 模擬試験の成績から、ほぼ間違いなく合格出来ると判断した金沢大学の医学部を受験する事に決めていました。 金沢大学の過去問だけやりました。 馬鹿な話しですが、不合格になるとは、全く思っていなかったのです。

 一期校の試験は3月の初めに有りましたが、第一日目の朝起きると、見た事が無いほど多量に雪が積もっていました。 旅館の女将さんに相談すると、「貴方以外は、皆さん昨夜の内にタクシーを予約されました。今日はバスは運行されませんよ」と言うのです。「誰かの車に同乗を頼めないか?」とか話してみましたが、駄目でした。

 来ないバスを長いこと待っていると、女将さんが気を利かせて呼んでくれたタクシーが来ました。試験場に着いた時は、私の得意な数学の試験が終わる寸前でした。結局、数学は0点だったのです。それでも奇蹟を信じて次の日も受験しました。 勿論、不合格でした。

 東京のH義兄のお世話になって、予備校に通い出したのですが、急に血圧が上がり始め、絶不調になってしまいました。6月頃には血圧が190以上になり、薬を飲み始めました。予備校に行けなくなって、勉強が手に付かなくなってしまいました。

【アルバイト】
 高血圧の薬を飲んで、体調が良くなって来たのが高校を卒業した年の11月頃でした。 両親は貧しい生活をしており、H義兄の所は二回目の出産で双子の赤ちゃんが出来ていましたので、「大学進学を諦めて自力で生きて行こう」と考える様になりました。

 東販か?日販?がアルバイトの募集をしていたので、応募して働き始めました。 働き口が出来たので、姉の家の近くの安いアパートに移って自炊を始めました。 四畳半、共用の台所/トイレの古い小さなアパートでした。 職場で沖縄出身の三、四歳年上の青年と親しくなりました。彼は、「4年間大学に通える金を貯める」夢を持って働いていました。 彼には両親がいなくて、祖母に高校を卒業するまで面倒を見て貰ったそうです。 彼と話していると、私も頑張って大学に行きたいと考える様になりました。 私は、両親は少しは仕送りしてくれるし、実の兄弟以上に面倒を見てくれるH義兄がいましたから、彼より、ずっと恵まれていると思ったのです。

 高校卒業後・2年目の9月に両親に大学進学について相談するために田舎に帰りました。1か月ほど、川釣りをしたり、水彩画を描いたり、熊野古道の途中に有る近露(ちかつゆ)に住んでいた一番上の姉に会いに行きました。父から借りた地図を頼りに、半分・獣道の様な山道を数時間・歩いたと思います。東京に帰って、アパートを引き払ってH義兄の家に引っ越して、勉強を始めました。

【大学に合格しました】
 H義兄が、「慶応大学に入ったら家庭教師先を紹介できる。食費の面倒は見るから、この家から通学しなさい」と言ってくれました。 それで慶大の理工学部と、滑り止めに東京理科大の応用数学を受験する事にしました。 国立大学の受験勉強をしていたので、行く気は無かったのですが、東北大学の工学部・機械系も受けて見る事にしました。

 慶大には6名程の集団面接が有って、「合格したら幾ら寄付してくれますか?」と聞くのです。「○十万円」、「百万円」と答えていましたが、私は予想外の質問で寄付は考えていませんでした。「貧しいので寄付できません」と言う様な答えをしたと思います。H義兄が、「嘘でいいから百万円と言うべきだった!合格は難しいよ!」と怒りました。 H義兄が慶大の合格発表を見に行ってくれて、自分の事の様に喜んで、「合格」の電話を掛けてくれました。 入学金を払いました。

 半分骨休みのつもりで、塩釜の昔・遊郭だった旅館に泊まりました。 他の受験生達は緊張した雰囲気でしたが、私は旅館の二十歳代の主人と昵懇(じっこん)になって四方山話をしました。 東北大も合格しました。 迂闊(うかつ)にも、両親に東北大の合格を言ってしまったのです。 母が「東北大に行け!」と何回も電話を掛けてきて、叔父達からも、電話が掛かってきました。

 親身になって私の事を考えてくれていたH義兄を悪者には出来ませんから、生活の目途が全く付いていなかった東北大に進学する事にしました。 次回は、私の貧乏学生時代について書きます。

(余談 :恵みの雪) 入社して数年後に、金沢の雪は私にとって『恵みの雪』だったと気付きました。 機械工学では私の得意な数学、特に幾何学が役立ちましたが、開業医では生かせません。 私は技術屋として楽しい、悔いの全くない人生を送る事が出来ました。 決して負け惜しみでは有りません。