東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

燕三条

2011年08月20日 20時26分33秒 | Weblog
20日土曜日、

10時半に仕事が終わった、どこかにいかないとストレスがたまるので、出かけることにした、ジパングクラブン切符を見るとことしの5月までが有効である、会費を払ったつもりなのだけど忘れたらしい?しかたない、安くいくためのひとつはトレンタ君である、レンタカーと一緒に切符を買うと2割ひくというもの、これがいいか、

ホテルはコンフォートホテルというのが、朝食がおいしくよいらしい、ここにとまるか、コンフォートホテルで検索すると北海道旭川から出ている、そこまでいくわけにもいかないので、下に見ていくと、新潟、燕三条というのがあった、このへんがいいなと、仮に燕三条にきめて、

レンタカーを予約した、乗車券のことは何も書いてないので、いちおう予約票をコピーした、そこで、さきほどのホテルをみると、今日20日はいっぱい!!近所のホテルもいっぱい、
そんなことはないと思うのだが~~~

きっとキャンセルもあるだろうからとりあえずいってみることにする、いま11時半だ、
田町駅に行くと、ミドリの窓口はすいていて、予約票を見せるとレンタカーの切符を発行してくれた、乗車券はというと、今日は割引なし、明日の切符は2割引きだという、規則を細かく決めているが、乗客のことはなんにも考えていないね、

15分前に東京駅に着き、MAXとき321号の列に並ぶ、この列車は、両端に機械室があり、客室部分は中央に少ししかない、とはいっても自由席は、3列3列!! だから収容力に余裕はある、客車の中央部分は乗り心地がいいから、両端を機械室にしているのはいいことかもしれない、車内をみにいくと、自由席の2階は3列3列、リクライニングなし、席の間の手すりがないという虐待シートなんだけど、下の階は2列3列リクライニングつき手すり付とおなじ値段というのは気に食わないね、しかし、下の階は席が埋まっていた、上はすべて2人で座っているから、なんともいえない、鉄道当局も微妙な配列を作るものだ、

燕三条までは2時間でつき、コンフォートホテルは目の前だった、そして、6300円で部屋が取れるのだった、当日はネットで予約が取れないのだ、これはどうかね、当日旅に出たいぼくのような人もいるのに、

駅にレンタカーを取りにいった、車は三菱のEKワゴン(軽)だ、普通車を借りていたのに、軽で、文句を言いたかったけど、車のところまで来ているのでやめた、

弥彦神社にナビをセットして出かける、弥彦駅に行く、弥彦神社は20キロほどだ、いつかお正月にここの石段で倒れた人がいて、何人かが死んだので、奈良駅や、大社駅がなくなったいま、唯一の神社形駅だろう、そばには手水鉢まであるのだった、ついでに狛犬も置いたらいいと思う、山の上まで石段があるのかとおもったら、そうはなっていないそうで、石段は広くりっぱだった、年間250万人が参拝するそうだから、正月に何万人来るのだろう、

弥彦山の登るケーブルがあり、往復1300円であった、これは冷静に考えたら、弥彦スカイラインという道路にのれば、ケーブルの終点より高い地点までいけるのだった、
いずれにせよ、リサーチが足りないからしょうがない、

カメラの電池が切れそうになった、しかたない、ヤマダ電機にいって、接続ケーブルを買おうとしたが(パソコンから充電できるのだ)、これがメーカーごとに違うのでオトリヨセだって、それではと、充電セットを買おうかと思ったがこれもメーカーごとに違う、それじゃあいっそのこと新しいカメラを買おうか、19000円でハイヴィジョンが写る相当いいものが手に入るのだが、ちょっと迷って、やめた、明日は何枚かしか撮れないであろう。


満州国からの帰国4

2011年08月20日 07時24分17秒 | Weblog
満州国にいた人々はここに誇りを持っていた、
幅広いすべてが舗装された大通り、
全戸に水洗トイレ(いまから見たら笑い話だが、東京には戦後もしばらくは汲み取り式便所が使用されていた)
ほとんどのうちが集中式のスティーム暖房、
標準軌の、大型汽車、
市電もビューゲル式(都電はポール式)

一瞬にしてすべてを失い、
一人リュック一個での帰国である、
われわれは一家全員父母姉がいて、
これは奇跡に近い、

それは戦後1年目の夏、
先日の朝鮮への疎開と違って、無蓋貨車で側壁もない、大人たち材木で囲いを作るしまつだ、汽車は途中何回も停車しその都度便所にいった、引き上げ港のコロ島には、1週間以上かかったのではないか、なにしろ、途中で、伝染病にかかり死亡する小児も出たほどで、大人がスコップで土を掘り埋葬した、

コロ島での収容所、引き上げ船のなかで、死者が出ると船では水葬だ、
それでも引き上げ船、なんと明るいのだろう、
やっと帰れる内地、を夢見て船員の歌うりんごの歌をみんなで覚えた、

博多港に着いた、
ここですぐ上陸させればいいものを、1日待たせるのだ、
例のDDTの噴霧、
博多港近くの、爆撃で何にもなくなった土地が、
向こうまで見渡せる、

ここからは客車といってもよれよれのぼろ汽車にのった、
汽車が好きだった私は食い入るように景色を眺めていた、
戦災で平らになった各都市が次々と現れる、

われわれは富士市芝川の知人の家に厄介になった、
美しい山、きれいな水、川にはいってシアワセに遊んだ、
それから東京にもどったんだけど、現在の生活とは、
まるで違う、

戦後回想録はこのへんにしておこう。