marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(626回) (その7)作家 大江健三郎の小説のこと<まだ続いている>

2020-02-14 21:01:03 | 日記

 (写真の本については次回)◆批判めいたことを書く訳ではないけれど、僕が大江に惹かれる理由は、故郷の四国の山奥の村、自分の故郷への回帰がよく書かれること、それからで起こる一揆。これは幼少の時からよく聞かされたことからと彼は言う。少し、今から見ればとんでもないような過激な暴動が本当にあるのかというような小さな村で、いくら創作としてもと思ったものだったが、実はあの時代、万延元年(とは「安政の大獄」があった年だったかな?)日本のあちこちで起こったものだったというのは、かなり年をくってから知ったことだったし、全長2kmにも満たない街道沿いの僕の生まれた村の山手のでも似たようなことが起こっていたことだったということだ。それが先のブログ(途中で中断してるけど)『僕の生まれた小さな村の大きな話』につながっていくわけなのである。ただ、無理があるなと思わせられるのはサルトルの影響を受けすぎているなと、彼の小説を大脳皮質の訓練にしようと切り替えるのは、サルトルの影響を受けすぎていた時代があるなと。あまりに恣意的! 今ではあまりに頑張っても読みにくい。

◆僕は世界のベストセラーの確信に至るには、人を考える、それは自分という人を客観的に言語化するという思考経緯を経ることも必要だと思うと書いてきた。それは、どうしても人の欠陥、行き着くところ肉体の死に向かうからなのだ。だから、救済のないそれを示すことのできない僕らの生のプロセスはサルトルの小説「嘔吐」にもなる訳なのである。濁った沼の中からきれいな蓮の花が咲いてその上にお釈迦さんがおられても、沼の泥の中にも生物はいるでしょう、それに思いを致すということなのですね。むしろ、こちらの方が多数なのだから、沼の泥の中にも微生物もいるし、発見すれば有用なミネラルもあるかもしれないよということなのだ。・・・・キリストの神は天地を創造したから統べてを包括している。

◆世界のベストセラー(聖書)を読むにおいて、それを会得するなどということは生涯にわたるものなのであるけれど、一応内容を知識として(文面として)理解することはできるにも相当の時間を要するものであるが、その会得するということの作業においては、どうしても必要な思考経路を経るであろうその自己省察が実存主義というものではないかと思っている。・・・それは「罪」の問題である。これさえも、自分のこととしては語られないで、神の摂理からの「的外れ」であると説明されるが、自己という肉体を省察し、僕らは必然的に消滅するのであるから、その袋小路の中での行き着くところの救済は、イエスの十字架しかないであろうというのが僕の見解なのである。過去、永遠の命を宣教し、命を捧げたのはその確信を得とくしたからなのであった。 ・・・ 続く 


世界のベストセラーを読む(625回) (その6)作家 大江健三郎のこと・・・「罪」の系譜

2020-02-14 08:36:31 | 日記

 ◆遠い昔のことだから、それも時代だったのかと思いにふけるか・・・いや、いや、「人という生き物はいかなる者か」を進化的に考えるには無くてはならないプロセスというものを、人と言う生き物は「言葉」を与えられたときから思考し続ける運命なのだ・・・というのが、使徒パウロがキリストの霊に東にいくことを遮られて西へ向かった理由なのだというのが、今のとことの僕の見解なのだ。哲学の国、ギリシャと世界の道はローマに続くと言われたあのローマ法のくにへ向かったのだから。キリスト以前、あの捕囚に関してエルサレムへ帰還する人々もいたのだが、多くのは離散、イスラエルの12部族の内、10部族は東へ、東へと向かったのだから。そして日本についた部族が多くいた。・・・・僕の魂の心底の流れはずうっと(いや、僕ばからではなく、みんなの住んでいるところにも)つながっていることは、僕らの足下を見ると至る所にその痕跡を見ることができる。

◆さて、作家大江健三郎のことを綴ってきたが、影響を与えた当時、実存主義の旗手と言われブームになったJ・P・サルトル(彼はノーベル賞拒否)のことを少し。前から書いているが、この「水いらず」もベットの中の目覚めから始まっている。主人公は、男ではなくリュリュという女性。事細かに自分が感ずる身体に関して、身体から受ける、不能な連れ合いの身体について、あるいは、自分の内蔵のことまで、を言葉に置き換える。無論、先の大江に影響を与えているように性的なことをも書いている。人と言う生き物が(無論、人ばかりではない命あるものと言っていい)、いかなる生き物かということが知られてきた今となっては、2000年前に出されていた回答に先の実存主義の教祖キルケゴールが答えを抱いていたのにも関わらず、その編面教師として、再度、朽ちゆく身体について、そのことを自らの言葉で考えて見よと恣意的に新ためて人に覚醒を行わしめたのが、この哲学者(彼は無神論だったが)の提示したものだったと思っている。

◆今、読めば、この主人公は知能レベル低いのでは?と思ってしまうが、今では誰もがSNSなどで会話をする時代となった訳だから、そういう会話の内面もオープン化されて自分の普段の内面も昇華されていく時代になったのだと思っている。詰まり、動かされない自分という基軸が何かを今一度確認し持たなくては流されてしう時代になったということである。必然的に命あるものは、死滅するのだから、命あるものにとっての「生殖」について、この地上での生存にはなくてはならないものだから、僕らは、安らぎでもあり、しかし腐敗しやすエロースが、退廃に向かうことがないように天上界へ昇華に向かうべく、対抗しなくてはいけないということだ。「結婚は神の奥義」についての地上での露骨な言葉化は後がなく、その生存を許したもう神への救済しか残されていないことになる。この存在には「霊」が関与するが故に、僕らは決して粗末にしてはならない。だからこそ「神の奥義」と呼ばれているのだ。粗末にすることは、必ずやどこかに肉体的にあるいは時代を超えて霊的に反動としてその因果反省現象がおこるであろうと。「自ら撒いた種は自分で刈り取らねばならない」。この実存主義、自らの肉体の省察はキリスト教での「罪」の認識につながるものなのである。・・・続く