marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(631回) (その3)実存論的神学「民衆の神 キリスト」(野呂芳男:著)を読む

2020-02-25 19:38:16 | 日記

◆実存主義とかは、僕らは1960年代 過去には哲学者キルケゴールが語り、サルトルやカミュなどが盛んに騒がれたころ、僕らの時代は、学生運動の下火のころだったから、といっても授業などもボイコットがあったし、警察が校内に入ったとかで学生が盛りだくさん取り囲み座り込んで大変な騒ぎになったこともあるし、フォークの時代、ヒッピーや、ベ平連などの、そういえば連合赤軍の浅間山荘事件などもあったな。・・・掲題の僕が呼んだ本は 2015年12月18日 第一刷発行(ぷねうま社)で内容はだいぶ、過去に書かれた論文をまとめたものだけれど、2000年以上も前の神の子と呼ばれた人のことを論じた神学論文は、内容は過去からの多くの神学者への考察を述べたものであるから非常に勉強になり面白い。それぞれがその時代時代において彼(イエス)をどう捉えたのか。今も生きているという彼を・・・

◆聖書を自分の言葉で読むということを目指してきているが、もともとの自分の言葉を持つということ事態が、不可能になりつつある時代なのだなぁ。彼(イエス)に会うには、朽ちていくからだを持つその叫びから喚び求めないとなかなか姿も現さない方となられたのか・・・決してそうではないのだが

◆東京への散歩で退任された牧師との会話で、「神の痛みの神学」北森嘉蔵 著について、先のブログに少しく書いたが、なんと野呂は恩師のその論文に1955年ユニオン神学校に「不受苦の神」という博士論文を提出して反論したのだった。よって、東京で会われた退任牧師先生は、この野呂の論文も読んでないといけないということ。いずれ僕は、実存論という言葉に引かれ、そののたうちまわるこの地上の不条理に(僕らは不条理な肉体を持ってうごめくが故に僕はそう考えるのだが)イエスは来られ、神の福音をのべて天に帰られたということ。それが大切だと、この地上に十字架が立ったのだということ。

◆実は「後期野呂問題」というのがあって、さまざまな神学者が格闘してきた論文を読んでも、これだけは誰も反駁するだろうな・・・と。しかし、僕はとても同感なのだった。それを次回書く。おそらくこの国においては、野呂と同じような神学経緯を経なければ民衆に受け入れられることはなかなか困難なのではないかと思われる。今の日本のプロテスタントキリスト教界は、体制的には中世のカトリシズムにのっとっている。その弱体化した組織体のしがらみに即して(逃避して、といってもいい)、自分の言葉で戦おうとしている姿は見られない。神学的深みもなく、それなりに尊いことされ、社会的試練にも揉まれなければ、実存的な言葉など出て来ようもないだろうと思う。まして、建屋に十字架を示すという「存在」としての意義はあろうが、組織体というしがらみに逃避しているので、つまりその範囲以外の考えは排除するから、野呂のような神学も排除することに疑問もいだかないということだ。これではキリスト教は広がる訳がない。・・・・続く 


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