marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(630回) (その2)実存論的神学「民衆の神 キリスト」神学者:野呂芳男を読む

2020-02-25 11:32:06 | 日記

◆「生きることはキリスト、死もまた、益なり」と使徒パウロは手紙に書いた。<苦しみ、悩みも、またみ恵~♪ >などという讃美歌(これはパウロの手紙にある)もあるが、実に逆説的な内容で彼の手紙の内容は満ちている。僕ら一人ひとりの生き様は、確かに「我と汝」の関係になる「汝」キリストを、その時代、時代の神学者たちがその生き様の中でいかに捕えようとしたかの格闘の跡をその著作に読むことができる。それらの中に僕らは多くの「今生の存在意義」を知らされる。しかしなぜ、キリストなのか。その数は、古代から膨大なものである。キリスト教を知ろうとするときに、あまりに膨大な書店での本があるが、それはピンキリであるから、これも素人目には、逆に障害になっていることも考えられる。その中には悪魔の声も聞こえてくるものもあるから・・・。それで、人々はキリスト教会へと向かう気持ちがあったとしても、そのような膨大な著作と何がそれなのかが、結局のところ分からない。またとうのそれは第一分厚く一目読んでもチンプンカンプンなので、門をたたく以前でこれも行動に移すまでは実に心もとなく様々な抵抗に会うのである。

◆いざ、飛び込んで、たてられた方にそれはどのように理解したらよいのか、と質問しても自分の言葉として返答されんかった場合、つまり、「すべて神にお任せを」(これは神を理解した人には可能な言葉であるが)なんていうものだから、てんで心からの納得などできんわ、というのがほとんどのところだろうと思われる。実に心もとないとなる。世において試練にあって経験的にイエスの言葉を理解した人とは雲泥の差が生じてくる。それは、自分の身体で思考する(考える)ということが求められ、そういう経験がなければ(つまり人生を通して、人は試練に会わずに生きとおせるという人はいないのだから)、究極、「神よ、何故なんだ!」という叫びに行かなければ=本当の自分の言葉から彼にぶつからなければ、彼の十字架は理解されないであろうと。そうでなくても人は、必然的にこの地上から肉体において飛び去るのに、どうして人は、しっかりとした次の世界を考えないのだろうか。

◆実は答えは簡単なのである。彼は問うている「あなたは私を誰というか?」この答えを見つけることである。そこに答えがある。つまり、答えはあなたの中にあるのだ、と彼は言っているのある。ただ、それだけなのである。・・・しかし、多くはそれが見つけられない。(自分であるのに自分を知らない)。

◆福音記者ヨハネが、イエスのなした業(わざ)を書き留めるとすれば、この世では収めきれないであろうとまで、書いている。実のところ現在まで、それ(書き留めること)が続いているわけで、イエスが再臨されるというまで続けられることだろうということになる。中世的カトリシズムと言えば、僕は前に、シモーヌ・ヴェーユという女性哲学者もカトリックでなければ(プロテスタントであれば)、あのような考察はしなかったであろうと以前ブログに書いた。「神を待ち望む」、時代といえばそれまでなのだろうが、プロテスタントでは、待ち望むどころかもうすでに来られているのだという確信がある。(だから、悪魔も逃げ場がなくなりつつあると)。ただ、我らは目が曇っているいるためにその存在が認識しにくい。あの時代においても目で見ていてもひとりも理解した弟子はいなかった。むしろ、この地上で見るという限界があったゆえに。・・・いわく、こころの目で見なければ見えないものだ、ということになろうか。だから神学者は彼が来るまで思索し問う言葉をやめない。

◆パウロは、アジア州に伝道しようとしたときに、キリストの霊がそれを許さなかったという記事がある。それで彼は西に向かったのだが、それはなぜか? 地球の人の歴史の実から見れば、現代のあの膨大なユーラシア大陸での人の動きの方がものすごく古いのにも関わらずである。確かに、人の発生はアフリカだったとしても人という生き物の動きとしては、の話。その結果は、現代を見ればおおよそ理解されるのではないだろうか。優先的に言葉を発して世界を動かしているように発言するのは、欧米である。キリスト教化のされた欧米なのだ。言葉、ひとに与えられた言葉なのである。それは神の(人にとって善としてばかりでなく悪魔の粉飾かもしれないが)言葉なのである。

◆今や、古代から全世界に真の神の言葉の布石があったことが知らされ始めて来ているように思わされる。(僕の追及は東へ向かった部族たちである)。それは、僕らは今生を自分の肉体を通して思考していることの再認識である。その土台である肉体はいかなるものかも、解明されてきつつある。この現存する自分の肉体をとおして自分への言葉として思索する。それが実存である。僕ら「人」という生き物は誰ひとりこれから除外される者はいないのだ。・・・続く 



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