marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(624回) (その5)作家 大江健三郎の小説「万延元年のフットボール」 彼の救済!

2020-02-06 08:16:10 | 日記

僕らは本人の気質傾向は変わらないとしても、その時々の時代、環境、そして肉体の成長によっても発露する言葉は異なるものなのである。方向性としてまったく違ったことを言い始めたとすればそれは、それなりの理由があるはずである。この作品は彼が32歳の時に出版されたものである。彼は、あとがきに次のような言葉を残していて、僕がそうだよ!と言いたくなるドンぴしゃの言葉なので、お前自身もそう思っていたの?という感じで読み終えたものだった。

◆「・・・ずいぶん時をおいて新しい読者のようにこの小説を読みかえそうとして、僕は自分自身、この第一章の前でためらったのです。読み手を拒むような性格がそこにあるのではないか?それは、いわゆる難解ということとは違うように僕は思います。しばしば、きわめて難解な文章の奥に、こちらへの伝達を切望する、赤裸の心が透けて見えるのを僕らは感じるのではないでしょうか?つまり書き手が、ただから自身のためにのみ書いているような性格、つまり他者を拒んでいる性格を見出すのではないかと惧れる気持ちがあったのです。」 (あとがき 「著者から読者へ 『乗超え点として』 から <アンダーラインは僕>)

◆先の文章は彼(大江健三郎)自身の言葉であるのだけれど、彼の小説、ほとんどに彼自身の為に書いていると、そのために、大脳皮質を働かせるような恣意的な言葉が並べられているのを感じて、これが、サルトルの影響をかなり受けた実存主義かなと思わされたものだった。僕は、ただ肉体に関するいいまわし、性的なことまでをイメージして頭を強いて自己探索することの点についてだけは、いただけないなと思っている。実存主義の元祖、キィエルケゴール(K)は真逆で違うんだけれどなと。小説12章掲載のサルトルの言葉は、このデンマークの哲学者(K)への反駁であることは確かな言葉であることが分かる。Kは答えを出していたのだから。しかし、・・・12章のこの言葉は肉体を形作る外面、フィジカルな面のみという限界を自分で示してしまっている(「絶望の死」と)。確かに実態を前に進ませるのは、誰が、いつ、どのように、「する」ということで目に見えるフィジカルに示さねばならないのであるが。

◆その思考は作家として実に乱暴であると思ったものだから。今は肉体のことはかなり詳細に知られているのだから、この小説も歴史譚からの創作となるだろう。不明な事柄が多々あるこの肉体についても、物質的にまさにあのフットボールの時にテレビでも流れたフィジカルという意味合いでのみとらえるならば、メンタルな面では多くの言葉が残されているであろうにそれをカットして、目に見える肉体で表現しようとしてしまうには暴力的にならざるを得ないだろうが、この肉体にはまだ、知られていない書き尽くすことが多くあるのだ、あぁ、これもあの時代だからなのだろうなぁ。しかし、性的な意味合いは、僕は到達できない神の領域のように思っているが、その領域を強いて超えようとするとこの世の現実に何らかの変動を引き起こしてしまうということなのだ。

◆世界を知らない蛙が、自分の領域、思考の満足する領域、あるいは彼の小説では、常に故郷の閉鎖的な村に回帰する話は、事実、日本のあちこちの村で起こっていた一揆なのだが、自己閉塞的になる思考を脳みそでいっきに拡張しようと思えば、今では自分が主人公たる実に危ないドン・キホーテにならざるをえないのだろうと・・というのが僕の感想だ。しかし、当時は学生運動で、自己表現を確かに肉体で実行した若者が多くいたわけだから、そのような行動、当時は斬新だったのだ。作家三島由紀夫のような人まで出た時代だったのだから・・・それも今でいえば後退的な行動、つまり最終メリットはひとつもないだろうよと。多くの「人」に関する知識があふれてきている時代になったのだから。僕らは、神を知るために神の似姿に創造されたと言われる「人」をもっと知るために前進しなければならない。・・・続く