marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(632回) (その4)第8章「万有救済論」 輪廻転生について

2020-02-28 13:00:42 | 日記

◆僕は2010年亡くなられた野呂というキリスト教神学者がこの国にいたことにとても感銘している。「民衆の神である キリスト」が、欧米の神学によってあまりに知識偏重のエリート意識になり、民衆から離れてしまっているので、この国においては逆効果だろうと思わされる現状を思い、確かに尊いことなのだが、献身などをすると組織体に自分の進退をゆだねて自分の言葉で戦おうとしない人々がいることに対して、それはまさに自己逃避だけだろうと。個人としては組織というしがらみから抜け出さないといけないという意識を常に持たなくてはいけない。なぜなら、ネット社会で今は世界のあらゆる生きているキリストのメッセージを聴くことができるからなのである。旧約預言で今という時のメッセージを聴くこともできる。まさに、語る神は心する者には語り掛けたもう世界なのである。社会的経験も不足し、ただ、文字としての聖書を語り、しかも地位が保護的に守られるのが当然だと試練もはねのけ、それ「喜べ!」などと言っているのは、肝心のことから最も遠い存在になりさがていることに気が付かないといけない

◆「後期野呂問題」ということについて、先紹介した彼の神学集大成の本の後半第8章と第9章に書かれていること。といっても小難しいことではなく、神学者でなくともあぁ、それではやはり僕らのこの国の思う人が、同じように考えられている人が多くいるのではないかなぁと思わせられる内容だ。それは第8章「万有救済論」で、アジアの民衆宗教にながれる<輪廻転生>のへ共感である。(ここで、従来の?キリスト教界では反駁がくる)、これはインドのカースト制などのものとは無論ことなり、あらゆる存在が長い時を経る中で少しづつ神と深くかかわり合う存在に変えられていく過程としての輪廻転生という考えである。それはこの地球の上の時間に限る必要はないく、大宇宙の中の他の時間と空間であると考えても一向に差し支えないという。

◆僕は、宇宙大のことは分からないが、個人的体験として輪廻転生はあるだろうと思っている。聖書にはその片鱗がみられるし、僕にむしろこれが事実だからこそイエスの十字架はこの輪廻転生を遮断するものであったと信じているのである。イエスを今生で信じたものは、次の転生は天国のみであり、永遠の命なのだ。生まれ変わってこの壊れゆく地球の上を乗り移る肉体を求めうろうろすることはないのだ。輪廻転生が事実だからこそ、イエスは「生きていて私を信ずる者は死ぬことがない」と言われたのである。ここにイエスを信ずるすべてが掛かっていると言っても過言ではないと思う。・・・続く 

 



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