marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(484回目)『高校学習指導要領改定案』主体性云々というより「自分の言葉」を持つことが先決です

2018-02-19 19:00:00 | 日記
 実は、僕ら人間の死後の行く末を整えるところからの言葉の土台を持たないと、不安でしょうがない、という生徒が実は多くいるのではないだろうか。そうで無ければ、親はもっと自分の子供達のお仕着せでない、まさに一人ひとりの内からの考える言葉の引き出しを促すよう、日々の生活で言葉をかけてあげる事がとても大切になってくると思います。言葉が多過ぎ子供の思考を代行してしまうから考えることをやめてしまう子供も多くいると思う。先に生きる親である大人としての考えの土台も当然、それは重要な事であるのは言うまでも無い。さらに、親にあらずとも歳をとっていれば、安心なのかといえば、決してそうではないのは、周囲を見渡せば理解できること。何を生きがいとしているか、何が最後の礎になっているのか。「神の元に帰らなければ人というのは決して安らぎを得られない」と言ったのは、あの教父アウグスティヌスだったが、彼はまさに、その自分の言葉で自分を見つめ神と対話した人で、あの「告白」を書いたのだった。これなどは、先のブログ言えば、かなり自分を見つめる後ろ向きの後退している内容なのだ。つまり、自分の言葉が要求されるところのその自分の言葉なのです。教会用語では「証し」などと呼ばれるものなのかもしれない。
◆結論から言わせていただければ、教育と言えども手段までのノウ・ハウまであって、もともとその人(生徒)の根の部分に自分で触れる(つまり、自分の命に触れる)言葉の育成には決してなっていないことですね。人の一生は、いろりろ紆余曲折あっても結局は、この言葉の獲得に向かって生きているものではないでしょうか。神の言葉の獲得、命の言葉、信仰の言葉と言うものです。今の子供達側に対しては宗教の言葉を、与えてあげるのが第一と思うのです。さて、そこで総てのしがらみを越えて、子供も大人もその言葉は、どこから来るのかといえば、我田引水のようですがやはり、聖書からと言わざるを得ません(しがらみそぎ取って)。
◆なぜなら、僕らが生きる世界の総てを包括している言葉であるから。宗教教育はねぇ・・・と考える人は「哲学」はどうでしょうか。しかしですねぇ。この国ではあまり盛り上げないのですねこのジャンル。個人が自分の意見を持つということに。それですから、教育において主体性どうのこうのは手段を振り回すだけで、何ら根に基づいていない周囲の雰囲気(空気)に同調して、よしとしてしまう傾向にあるということです。不安な子供は、言葉にならない不安を抱えて人生を過ごすのです。表にでないからこれも分からない。で、教育現場では、積極的に言葉を発する人間が評価が高くなるという具合です。イエスがパンを五つのパンと二匹の魚からパンを生じさせ、5000人以上の群衆を満腹させなお余った。それのみを求めてぞろぞろイエスに追いかけたという事実も忘れてはなりません。イエスを十字架に掛けろ、十字架に掛けろと叫んだのもこの大衆だったのです。真の自分の言葉、命に繋がる言葉を持たなければ、いくら主体性を持った言葉がどうのこうのと叫んでも、結局、何れかの大衆の一人になるかもしれないことを心すべきでしょう。
◆僕らは、社会の成り立ちは住む、国や社会によって異なりますが、この自然、宇宙、被造物の仕組みなどは、人という種に於いて総てが共通なこと。例えば、人の躰の成りたち、自然の成り立ち・・・結局、天地創造の神の被造物の一部として、人という生き物は地球に存在しているということなのであるから、このこと、この関係、では、その物理的音声などの言葉に為し得ないいその言葉までに於いて、その満足をここに得ようとすれば、それは創造主のもとにやはり尋ねる以外にないと思われるのです。もしかすれば、僕らが勉強するとは、大前提の基底にこの目的があるのであると。
◆結論は、この言葉にいつも繋がっていなさい、です。欧米の著名歴史のある大学の定礎には”神を畏るるは知識の初めなり”とある。使徒パウロは、ローマ人への手紙第1章20節にこう述べる。
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 神の見えない声質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
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僕らの学校での勉強の大前提の目的と言えば、学問というものを通して神に近づこうとしている、神を知ろうとしていることに他ならない。
◆先の不安について言えば、使徒パウロは、ローマ人への手紙第7章23節~24節にこう述べる。自分の肉と、霊の思い一致の解消には、この不安のギャップを埋める言葉を誰もが持たなければならないと思うのですね。
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(23)わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中にわたしをとりこにしているのを見る。(24)わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
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 誰しもが思うであろう、このギャップを埋める言葉をもつことは、実のところ自分の人生の宿題に答えを見つけようとすることに他ならないだろう。おそらく、自分の言葉で、この解消をしようとすれば、それは「聖書のことば」以外にやはりないだろうと僕は思っているのです。・・・ 続く 

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