marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(485回目)主体的な言葉は肉体に引きずられる言葉ではないのか

2018-02-21 20:00:00 | 日記
 教育の手段と言えば、中学時代特別ば部屋でソノ・シートという薄いレコード板のようなものにイアーホンをつけて数学を解こうとさせる授業を受けたことがある。頭の良くない僕などは、覚えることの媒体に機械を使うのに心理的に何か気持ちが悪くなってきた思い出がある。機械操作を覚えるのも抵抗があれば、機器だから答えはその中にすでにある訳で、その機械に結果を出させることのこちら側の内なる、思考する言葉がついて行けなかった、というのが気持ち悪さの原因のようだった。
◆僕などは、先のパウロの言葉ではないが、自分の思いと自分のからだとが分裂している思いをいつも持っていたものだ、それから人という生き物はどういうものか、無論自分という生き物も含めてなのだが、そのことを考えることは今でも続いている訳だ。それから大学にようやくさ入学したのはいいが、工学系だったが、自分のその存在の居座りごごちの悪さは如何ともしがたく、暗い青春時代を過ごしたのだったけれど、E・H・エリクソンの「アイデンテティー(自我同一)」などの言葉が出てきた時などは感激したことを覚えている。で、それから自分とはなんぞやという問題が頭を占めるようになったと言う訳で、やはり、永遠不変の真理ごときものを得たいという経緯で、あれやこれやで、行き着いたところが十字架に掛かって死んだイエスという男の話だった。
◆それ以来、神が自分の似姿に人を創造された、などと天地創造の神様なる言葉を聞くと、自分の身体、無論肉体ばかりでなく、意識や、やる気やその他、もろもろ人に係わるいっさいがどういう関係なのかと知りたくなってきたのであった。そうすると、主体的な言葉などを育成しようとすることより、もっと手前の人というものはいかなるものか、というようなことを教えるのが先決であるように思われるのである。ぐっと、話の内容を絞って・・・
◆手短な例をいうと、数年前、教会の関係で東京のキリスト教関係の幼稚園から小学高校、大学までを見学する機会に恵まれた。一つは小学校でIpadを使って、学級の新聞をつくろうとさせているようだったけれど、便利な機器もいいけれど、それを使いこなせる基準が良いとか、悪いとかを思う生徒が必ずいるのではないだろうか。お金のない家ではスマホも買えないだろうし、第一に手っ取り早く画像や言葉の意味の検索を捜すのに目から入ってくる回路情報は、一番鍛錬しなくてはいけない(つまり、主体的な言葉、自分の言葉を持つところの)前頭葉を通らないのである。目から入る画像は第一(間脳)~小脳に瞬時に伝達されるのではなかったか。前頭葉ではないのである。その印象は人により異なるから、前頭葉での意識化がその後に行われ、言語化が行われる。といっても、見ても意識化まで到達しない人もいるけれど。
◆それを、聖書的観点から言えば、イエスが言われた「目は心の明かりである」とか「良く見なさい」とか「何を見ているのか」という叱責もあった。つまり、まったく人が人であるところの前頭葉での言語化とその発露をイエスは求めておられるような勧めなのである。それでも個々人の正確もあり、会話の不得手な人たちもいる。その事の評価をどこにその土台を持つのか、そして子供達に自分の言葉をどう持たせるように対応するかは、やはり一人ひとりが異なっていて、神の言葉、真理の言葉、信仰の言葉を持てるように願うべきであろうと思われてきて、それが最優先だろうなと思うのである。
◆その考える言葉であるが人は結局、その人の考えは、物理的音として発するか、文字として表す以外に周囲の人は分からないものだろうと。人は信じて言葉にして、救われるとある。それは、この地上に再びこの肉体をもって(あるいは、誕生に生まれかわるその人として、他人ではなくその当人と同じ人として)再生するために必要なことなのだろう。しかし、パウロはさらにこう語るのです。その人の内なる霊以外に誰がその人を知り得ようかと。これは、つまり、神と語る、具体的には霊的イエスと語る言葉である・・・というよな(これまたなんとも、というようなことにはなるのであるが)、しかし、考えてもみたまえ、実に多くの言葉を発せられない人々がいるではないか。これは、不幸にも医学的に欠陥がある(そのような誕生をした)ということばかりではなく、身体として機能的に欠陥がなくても言葉を発せられない多くの人がいるのを察することが出来るのではないだろうか。多くは性格という言葉でまとめられているけれど。ここに悪霊は飲むべきものを尋ね歩いていることを知らなくてはいけない、その闘う言葉が続く・・・