marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(479回目)自分の死の国へ入る儀式について冷静に考えて見る

2018-02-14 07:43:52 | 日記
 この国の仏教でいうところの喪中にいろいろ考えたことのその二です。なんかいつもながら理屈ぽい。寒い時期に少し寒い話。
◆この国の人々はそのときの場の空気や心情で考えてしまうところがあるから、政治的に実に危ないところがあるけれど、世界にまれな生真面目さもあるようだから(僕はこの国の根の部分というのは、やはり遠い過去にこの国の土台をつくった人々は、かの国から来た人々で・・・ということをやはり思ってしまうのですね。何のことやらと思われたら今までのブログに書かれているので読まれてください)、この地上で起こっている「生き物」とその「霊」について(特に人についての)を考えて、事実(実際)のことなのだと理解されれば、つまり霊の法則に則(ソク)することになるから「実際に人、強い国」になれる筈なのである。そんな高邁なことを考えずともまず、この国の多くの人が準ずるであろう仏教について、皆さんどうして真剣に考えないのだろう。実際に必然的に死がある自分のこととして考えて見ることが必要なのに。唯の儀式としてしか考えない、そんなのでいいのかなぁ。
◆位牌、何回忌とか、喪中とか・・・、そして、お経の内容・・・。これを心情的しがらみから解放されて冷静に考えるのは、つまり実際にの事実はそうなのか、を確認するにはやはり学問的に正確な事柄を見てみなくてはいけない。で、僕が本棚から引っ張り出して再読拾い読みしたのは、『日本の仏教』渡辺照宏 著(岩波新書)(book offで100円)、仏教では泰斗の学者、宗教というのは心情しがらみが殆どを占めると言ってもいいくらいだから、必ず客観的にそれらをそぎ落とした学問的に問題ないものを読むことです。梅原猛さんのは面白いけれど駄目よ。娯楽で読むのはいいけどねぇ。(僕はキリスト者だが仏教は批判はしないけれど何が真実なのかを知りたいのです。いつも)
◆結論から言えば、位牌や何回忌とか、喪中がどうのとかは、儒教やその他、中国仏教からの謂われ・・・で行うようになっただけ、それはそれで尊いのだが、滅び行く人間が謂われやしきたりで出来ていたのはどうかなぁ・・・の類い。でも、事実として死者の『霊』がうろうろするというのは、事実であるのだということは感じているので、(これについては、いままでのブログでも書いたのですが、東日本大震災後の亡くなった方がいろいろなところで現れた話。駅前でタクシーに乗せたとか、避難施設の空室に集まられて芥川作家の和尚さんがお唱えをしたらピタリと止んだとかの話。)そのうろつく『霊』への礼儀、所作として、仏教は諸々、言われてきたしきたりを行い、毎日のお唱えをされている訳だと思う。いずれ、自分もそのされる側の対象になるわけだから。
◆お経の内容はどうなのだろう。僕は真言宗のあの時代のスーパーエリート空海さんが好きなのだが、真言宗と言わず、あの西遊記の三蔵法師はインドから沢山の経典を持ち帰り般若心経を訳した玄奘(ゲンジョウ)さんなのだが、実際には一巻厚さ2cm程で、それが200巻もあり積むと12mにもなるような原典のエッセンスをまとめて「般若心経」としたとのことです。その解説文の書物も売られているので読まれるといいのですが、「実際の事はこうなのです・・・」という説明なのです。「色即是空、空即是色」それから、「仏、法、僧の大切さ」を説いたというのは、日本史で習ったな高校の時。つまり、説明で、え~と、うまく説明出来ないのですが、それを読んでいる「今この時の自分」の有り様は、どこを読んでも書かれていないのです。自分の今の肉体が、疲れてとても唱える気にも考える気にもなれないよ、と殆ど人が思うであろう、そのときの私はお経からみれば、どう考えたらいいのだろうと。いずれ年老いて脳みそも萎縮して、何も考えられられなくなった時、どうなるんだろうと・・・。結論は結局のところ、今生でも考えとして、そして死後では永遠に極楽浄土に住むということが究極の目的になるのでしょう。
人が生まれて極楽浄土へ行くには、何度も生まれ変わって(とてつもなく長い間、繰り替えし)そのときどきの「今生」で精進を重ねていくということが言われているのです。仏教の宗派もその考えは同じようです。その死後の世界にいく、行った後の所作儀式に多生違いがあるのです。僕は、そんなことにとても満足できなかったのです(そんなに生まれ変わって苦労して、時間がかかるのかぁ)。空海さんもきっとそうだ、だから「即身成仏」というところまでいったのだろうなぁと。・・・・続く