marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(486回目)女性作家:瀬戸内寂聴さんと曽野綾子さん

2018-02-23 17:40:56 | 日記
 瀬戸内寂聴さんの記事が、地方紙にも掲載されるようになりました。
僕は学生時代、新刊で彼女の本を買ったことがある「ひとりでも生きられる」という本でした。「瀬戸内はるみ」というお名前だったころの本、出版は青春書房とかでした。こういう本はたいてい新書で買わないですが「ひとりでも生きられる」なんて無理だと思ったので、そういう考えや心理はどこから来るのだろうと知りたいと思ったのです。結論は、やはり無理、と思っていたらしばらくしたら仏門に入られました、そして寂聴さんという名前を賜り今のように活躍されているということになります。どうして、このようなことを書くのかと言えば、人は一人では生きられる者ではないからです。そういう人は何らかの宗教性に結びついて、自己の安住の礎を持たなければ不安でどうしようもなくなるからと僕は思っていたからです。やはりなぁと・・・。で、もう一人の女性作家、曽野綾子さんはどうでしょう。この方はカトリックです。最近、「夫の後始末」という本を出されました。年代層は異なるようですがこの方も人気がありますね。
◆仏教とキリスト教を語るに、そのお二人のいずれも女性作家のお考えの比較をされると面白いかもしれない。寂聴さんは、自分の身体のことは自己肯定化、綾子さんは人間の身体を突き放します。どこかの出版社で両者の思考の道筋について、その支える信仰の面からといえばいいか、その同じ女性でも考えが異なるのか比較をされると面白いかもな、と思ったりします。しかし、注意して欲しい。物書きと宗教家は、どこまでも自己肯定化できるものだから。自分の言葉で、自己肯定化でき、それが大衆とつながっていればそれはその考えを認めらたことになるのだから、それは嬉しいに違いない。宗教がバックにあって、何を表明するかについては、実は多いなる責任があるように思う。行き場がなくなって、大衆とつながりがなくなれば、宗教のことを語れば何がしか、誰がしかは必ず耳を傾けるものだから。間違ってはいけない。どこまでもそこに逃避出来るのだ。非難される対象ともならず、あがめられる存在であり、その事において自己を肯定化ができる。実は、知識のみでは現代、得ようと思えば出来るのである。要は宗教家は常に「死」を語るのであることを忘れてはいけない。
◆梅原猛と瀬戸内寂聴の対談を聞いたことがあった。何となくの雰囲気である。~であろう・・・のような良い話のような雰囲気は、聞いている時だけの心の慰めというものであろうか。お叱りを受けるが仏教は、厳密さがない。謂われや、言い伝え、伝統の中からのしきたりに浸っているだけである。それは長い歴史の中からのしきたりであろうけれど、肝心のそのこと、そして、そうしている自分の今、このときの(刻々、死に向かいつつある自分の今)を理解させるものではない。つまり、この今の「場」。それは生きている者の死者への気持ちでそうするだけであって、死者の霊そのものとは何ら関係ない所作諸々である。仏教は、死者、過去への郷愁を死人に求め、将来はどこぞやにあるかもしれない浄土へとうやむやに拡散する。
◆少なくとも、仏門に入るくらいの人生を歩んで来たならば、人生は一度、自分のように自由に生きなさい、などと語ってはいけない。最後に・・・そして仏門に入りなさい、というのだろうか。まさか、それはないだろう。瀬戸内はるみさんの人生を知ってる人は何を語っているかご理解されるはず。人は自分が蒔いた種は、刈り取らねばならないからである。これは、霊的においても法則である。神は生きていると言われる。「死人は死人に葬らせよ」とは聖書が語る言葉である。後者の死人とは、霊的に生きている神とのつながりがなく霊的に死につつある人を指す。肉体が死んでも永遠に生きている神の霊と繋がらなくてはいけないと。そうで無ければその場を何度も求めうろついた霊は再びこの今生での人生を歩もうと赤子に霊が宿る。今生で精進を続け、さらに又・・・その霊が昇華するにはとてつもない長い時間がかかるということになる。
◆曽野綾子さんが夫に対しても素っ気なく対象物体のように「~後始末」というような対象物のような物言いは、人というものはこういうものだということを理解しているからであろう。少なくともキリスト教の神は、神の目線からの人という生き物を相対化させる言葉を持たせられる。自分も含めて。煎じ詰めれば、この肉体に与えられた霊は、この肉体を与えられて「私」という十字架を担ぎ、あるいは担がされ、不自由な体で生き抜いてそのことが精進となり、無論、神の霊(聖霊と言われる、その子の霊)とつながり生きて、生き抜いて、この地上での不自由な(これには親を選べない、遺伝子も過去からのもの)肉体という殻を脱ぎすてて永遠の国へと旅立つことを知っているのである。この方は自由に生きなさいとなどと無責任なことは決して言わない。キリスト者はたいていそうであろうと僕は思う。その人生の試練が信仰の言葉というものに突き抜けたとき、新しい人生が到来する。
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 「誰でも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ伝3章3節) ・・・