marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(478回目)イエスの語った事は宗教内容ではなく実際の霊的事実である

2018-02-12 20:50:06 | 日記
 親の召天、仏教で言えば忌明けというのが今日で終わり、それでブログを再開。まったく世代の交代が行われたということになる。いろいろ考えた。今回はそのことの一つ、で、あまりくどくど書いてもであるが、思うところを綴る。 
◆表題のような書き方は、つまりアーメンということなのだが、どうしても何かうさん臭さを感じてしまうのは、誰でも思うことだろう。で、次の新約聖書の言葉はどうでしょう。「十字架のキリスト以外に福音はない」これは使徒パウロのガラテヤ人への手紙に出てくる文言である。これなど読むとオイオイずいぶんな物言いではないのか一般人の思うことだろうが・・・実のところ、僕はいつも思わされているのだが、キリスト教は「教」という文字が付いているからどうしても仕方がないことなのだが、イエスの行動と話された事は、「教え」などという人が聞いて文字で書いて覚えるような教訓じみたものでは、まったくなくて、つまり宗教のジャンルに入るようなものではなくて(入っていても飛び抜けて別次元の話であって)「事実(真実)」を語っているのだということになるのですね。何の事実か、つまり、アーメンとキリスト者が何らかの時に最後につける「確かにその通りです」という意味の文言は何を最も意味しているのかといえば、思いや信条などもあるがそれ以上に、人が生きている肉体とその霊についての事実、そして、その救済としての方法、実は法則があって、そのようになっているということは事実なのです、ということを確認している言葉になるということなのです。何の事やらを簡単に書きます。
◆イエスの言葉についてこのブログでは、宗教的しがらみなど、最後には自分の肉体の弱点(つまり、僕自身で言えば頭の悪さ<これも僕は親を選べない遺伝的な肉体に引きずられた言葉ということになるのだが>)などのしがらみからもすべて脱出して・・・など、何度も書いてきたのですが、事実、キリスト者の死は自分の不完全な肉体からの解放、脱出を意味していることから、むしろ喜んで死んでいったのだ(無論、苦しいだろから簡単に肯定できる話でもないけれど)。
◆それは、生来からの遺伝的(ここで言うのは本人が気がつかない気質、性癖のようなものを含め)罪。これは、代々が引きずって来ているのだから自分ではそうしようもない、従って、自己を見つめる言葉というのはかなり後退した内容になるから普段の人はしないし、できないことが多い。
◆「キリスト教が何故、この国では1パーセントにも満たないのか?」の問いに「自分の言葉が要求されるからでしょう」と以前書いた。実際にこの言葉は、自分とは何か、さらにはこの自分の朽ちゆく肉体はどうなるのか、さらには一段上がり、人とは何なのか、というようなこと、つまりこれは、この地上に生まれて、「楽しく生きようぜ」、から、途端にその「楽しく生きようぜ、思う自分は何なのか」という、自己アイデンテティーの根の部分を探る言葉が要求されてくるからなのです。あぁ、これは実に後退した話だ、そして他人が代われない言葉の要求でもあるのですね。肉体を変わって死んであげるということは、できない、つまり死ぬのは、その個人だからです。
◆根の部分を探る言葉を多くは、他の人の言葉を借りているというのが多くの人なのだ、がことこの自分の「肉体」と与えられた「霊」についての言葉は、結論から言えば、どうひっくり帰っても死を他人が代われないように、他人の言葉を借りる訳にはいかないのです。
◆では、呪文を唱えたらどうだろう、実際に人の「肉(聖書的な表現)」と「霊」について、唱える人が死んだ場合に、その呪文は誰かが唱えなければ実際その意味が分からないから(お経を読んで理解しても分かる部分は、人が生きる舞台設定、人が苦悶することの意味環境の解説・・・だから忘却し、悩むことなどないのだ・・・という解説されていると言うことだけが分かる)が他は意味の分からない(だから、霊力が有りありがたいと思うのかだが、それで本当にいいのか)。キリスト教では「人は神の似姿に創造された」とされているから、このような無責任と思える呪文を唱えることは断じて禁じられている(というか、意味がないとされている)のです。・・・ 続く