marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(482回目)自分の言葉を持たないとイエスを信ずるのは実はそう簡単ではない?

2018-02-17 19:34:32 | 日記
 つらつら考えたこと、その五。その前に、フィギュアスケート男子シングル羽生結弦選手、金メダル、宇野昌磨選手も銀メダルおめでとう!!羽生君は、カトリックのクリスチャンだなきっと、競技に入る前に胸の前で十字を切ってたからね。
◆「キリスト教がこの国ではどうして1%にも満たないのか」という問いに、「自分の言葉を要求されるからでしょう」と僕は返答したと以前、書いた。自分の言葉? 誰でも話しているじゃないか・・・と多くの人は答えるかもしれない。果たしてそうかなぁ、僕が思うに殆どの人は、自分のことをも考えてはいないのかもしれないと僕は想う。年老いて身体が思い通りにならなくなるとようやく自分の肉体と思いとのギャップについて考え始めるのではなかろうか。今はどうなってるか分からないけれど、僕の時には高校倫理でソクラテスさんが「汝自身を知れ!」などという言葉を残したのは、大層感心したことを覚えている。
◆ところで、ここで僕が言う「自分の言葉」とは、殆どの人が聞けばかなり後退した自己分析のような言葉に聞こえる筈だ。従って、殆どの人はそのような後ろ向きの話はしないし、考えないかもしれない。自分を見つめること、といったらいい感じに思えるが、それが誰と会話しているのか、何につながっているのか、つまり、さらにその底辺に何を基盤に(もうここは言葉にできない部分、安心感という基底のようなもの)なっているかなのです。
◆自分の言葉を持たないと・・・と僕が書いたその「自分の言葉」とは、自分の生きてきた、生きている、音(オト)として表すことが出来ないがその言葉の基底が一度、深く「神」という存在の前において省察してみて見ないと(しかも、その「神」とは万物を創造し、人をも創造したという「神」である)現れてこない言葉とも言えるかもしれない。
◆しかし、矛盾したことを話すようだが、実はこれまた殆どの方が「その基底のようなもの」に繋がっていると思い込んでいるのです。それが「仏(ホトケ)」というようなものなのだろう・・・と思う。ところが、僕はここがよくわからない。ホトケとは何? お釈迦さんのこと? それとも何か、三千諸仏やもっと大きな阿弥陀仏様のような方を言うの? 具体的にいくら調べてもモヤモヤしているのです。お経では「仏、法、僧」に帰依する、と三帰礼文(サンキライモン:実際の文字は旧漢字)なのですが、「僧」は、実存するお坊さんのこととしてはっきり理解できそうだが、「法」とは何を指すのか?、「般若心経」か? 「仏」とは、もっと分からない。あるときは仏教の創始者、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)であるし、言われる三千諸仏であるようだし、阿弥陀如来? その他??? つまり、何となく、まさに空気の中、雰囲気の中に漂っている感じになるのですね。ちなみに、般若経とは、一つの経典の名称では無く、般若波羅密多の教え、空の思想を説いた教典群の総称とか。
◆分からないから、ありがたいのだ・・・でいいのか。亡くなった方の「霊」は漂っているのは確かなようだから。あなたもそこに必然的に向かい、なおかつ、それらの「霊」が漂っている中に生活して過ごしているのです。この霊については、仏教もキリスト教も同じ理解なのです。
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 誰も、早朝、お寺さんでお堂の前でお経を唱えるのを気休めと思われる方はいないでしょう。仏教は、毎日のお勤めで死後の旅の遵行の励ましをされていると同時に、自分の修行をされるという意味があるようだ。真言宗の場合は、今も生きていると言われる弘法大師空海さんにご飯をお供えして(住職の話では毎朝の三時とのこと)、その南無大師遍照金剛という号を頂いた空海さんに霊的に繋がって(ここが大切)、長い旅に出ているということになる(四国八十八カ所かどうかわからないけれど、とにかく極楽までの長い長い旅路・・・)。ところで、葬儀の時に、住職が「血脈」と書いた四角い白いカードをお棺の前に掲げるのです。これは、空海さんの血統に霊的に繋がりますよ、という儀礼なのだろうな(真言宗です)。今度、聞いてみようっと。この部分もキリスト教に似ているな、イエスは今も生きておられ(無論、霊的に、それは潔い霊<聖霊> )いつも「私に繋がっていなさい」と述べられているのです。
◆ここで、文字から離れて、今、このとき、存在している「その場」の自分を思って見て。目には何も見えませんが、今まで話されてきたことが事実なのだ、というのです。・・・ イエスの場合、その到達が不明な長い長い旅を信ずる者の罪を一身に十字架に背負って天国への門を開いたということになります。神から使わさた独り子の犠牲ですから確実です。・・・  

世界のベストセラーを読む(481回目)再び 『十字架のキリスト以外に福音はない』(ガラテヤの信徒への手紙から)

2018-02-16 19:38:18 | 日記
 ここで掲題の新約聖書、使徒パウロが書いたガラテヤ人への手紙の中の一節をあげた。ローマ人への手紙も是非、読んで欲しいのです。昨年は、宗教改革から500年、この国のキリスト教会でマルチン・ルターのことがどれだけ学ばれたか知らないけれど。彼の書いた「キリスト者の自由」という小冊子の中には、「新約聖書への序言」で、聖書を読むのであれば、ヨハネ福音書、そして、ローマ人への手紙、それにガラテヤ人への手紙をまず読みなさいと勧められている。そこには、肉としての人間、霊を吹き込まれて生きている人間、罪のこと、その解消としてイエスが来られ十字架に掛かられたことが書かれている。イエスが来られ、人が霊を持ち生きる、そして死後、霊ともに永遠の世界に入れる法則が開示されたことを、神学的に「(人類の)終わりの始まり」と言われる・・・。
◆イエスが来られたのは、天地を創造し、最も愛され創造された人の条件無く総ての人の天国への帰還、そしてともに永遠に生きることの出来る条件が書かれている。パウロはそれを信仰の法則と言っている。イエス御自信、父が使わした自分を信じなさいと、それが父の願いであり、信じることが義と見なされる信仰の法則であると話されていることになるのです。「生きて私を信ずる者は死ぬことがない」と。ただ、これだけなのです。それは、長い長い精進の旅をし、生まれ変わり、あるいは転落し、畜生や餓鬼の世界にいくか・・・いろいろな今生の魂の旅について仏教の教えに対し、今やイエスが、その「霊と肉」の事実を示され、その解消の為に地上に現れたということになるのです。何か難しいことを覚えなければならないのだろうか? 全くそうではないのです※ルカ伝第23章41節、42節を読んで欲しい。地上で最も初めにイエスとともにパラダイスに登った男の言葉が載っている

◆再度、書きます。仏教におけるとてつもなく長い旅は、人の持つ(その個人の生、その個人以前の誕生までも引きずっている)「罪」があるためにその精進として繰り返し、今生に何度も何度も生まれ変わり精進していくことに他ならない。これが、その罪をイエスが十字架上で総て身に受け、信ずる者のその罪の解消として犠牲として肩代わりしてくださったということなのです。ですから、イエスを信じた者はこの世への生まれ変わりはありません。目覚めた時は、イエスを身にまとって永遠に生きる天国にいる、ということになります。ベストの状態でです。

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 (22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(23)すなわち、総ての人は罪を犯したため(原罪を持っている)ため、神の栄光を受けられなくなっており、(24)彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(25)神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見逃しておられたが (26)それは今の時に、神の義を示す為であった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。(27)すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 (新約聖書『ローマ人への手紙』 第3章22節~27節)
  *************************************************・・・続く    

世界のベストセラーを読む(480回目)仏教のお経の学び。死後への儀式に関心を持たれよ!

2018-02-15 22:18:31 | 日記
 寒い時期につらつら思った、死後の事、その儀式その三です。
 再度書きますが、当たり前のこと、それは今、生きている僕らは必然的に肉体の死を迎えること。古代から、この解消は大問題であった。死んだらどうなるだろうかということ。今も本当はそうなのだが、流布された多々のそれなりの正確でもない教えが充満されているので、それでひとまず満足するということになっている。実はこのことは死後の世界のことばかりではないのです。今も、僕らは霊をもって、あるいは霊によって影響を受けて今生を生きているということになっているのです。ほとんどの人はそんなこといちいち考えてもいないのだが。で、先のブログの続きです。
◆仏教のいずれの宗派もほとんどが、涅槃に行くにはとてもとても長い時間がかかるというのです。真言宗では、今も生きているいう弘法大師(空海)さんと共に長い旅に出るようなので(精進のため、これは死者と共に、それから現に生きている我々も弟子となって今生を生きなくてはいけないということになっているようでした)親父の場合、お棺の中へは旅支度をして入れて挙げた(お袋の場合はキリストも信じていたので、あっちに行ってから必要だったら身に着けてくださいとお棺に入れて身には着けなかった)。
◆仏教の宗派の中には阿弥陀様が迎えに来るからと掛け軸の阿弥陀様の手に紐をつけて死ぬ間際の人に持たせたということも過去にあったそうな。決して笑えない、第一僕らはわからないのだから・・・。けれど、いずれ何らかを信じている人は、誰かが迎えにくるような、それで仏教では三途の川を渡る? キリスト教では天使が? お花畑のとてもきれいなところに行くらしい。それはさておき、煎じ詰めると問題は、今の僕らは(というか人間は)罪があるのでそう簡単に天国には行けないということなのです。問題はここにあるのだ。仏教の場合は生まれ変わって精進して、でない場合は畜生になったり、餓鬼になったり転落と・・・。
◆真言宗智山派 総本山智積院 からのお弟子になる場合の、あるいはなってからの(死者も今生に生きる人も共にお弟子となってお勤めし精進し続ける・・・)儀式として、式文を見てみます。法要の時、お寺からいただいたのが弘法大師さんの筆により題字『智山勤行式』なる式文。初めに懺悔の文(ザンゲノモン)、これはキリスト教で言えば、罪の懺悔。次に三帰礼文(サンキライモン)、「仏、法、僧」それぞれに帰依すること。次は、お弟子が守り努力する10の戒め、十善戒。このあと発菩提心眞言、三昧耶戒眞言、開教文、般若心経、光明眞言、御寶号、普廻向。ここで眞言と書いたのがサンスクリット語の例の呪文です。(それなりの霊力が起こるようだからと一応敬意を払いとやかく書ない。意味はネットで検索されたしです)。
◆どの宗派でも大切にされ出てくるのが『般若心経』。解説書の書店で手に入りますが、「色即是空、空即是色」は同じ解説でも他のところは多少ニュアンスが異なる解説の模様です。いずれ、実際はこうなのだよ・・・という解説、つまりすべての思いのしがらみを捨て去って般若波羅蜜多の眞言を唱えることがすべての苦しみから救われ、悟りを得ることなのですという。それが、最後の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆賀」という箇所、これが肝心の眞言ということ。(音を拾うためか、ものの解説により書かれている漢字が違うぞ! そわかなど・・・「ギャーテイ、ギャーテイ ハラギャーテイー ハラソーギャテイー ボジソワカハンニャシンギョウ」)。話は飛んで、小泉八雲(ラフカデオ・ハーン)の書いた怪談「耳なし芳一」の耳に書き忘れた呪文はこの「般若心経」。それと・・・この最後の猫ちゃんを踏みつけたような響きの眞言はシュメール語とのこと(世界史を学んだ人は知っている。シュメール・アッカド時代と言えば、これまたとてつもなく古いメソポタミア文明の昔、宇宙人と繋がっていたのではないかという程の不思議な文明まで遡る)。で、敬意を払って呪文は呪文、ありがたいのだろうけれどよく分かりません。分からないからありがたいのだ・・・とも言えますが、旧約、新約とも聖書的には、責任を負わねばならないのは神の似姿に創造された人であって、残念ながら呪術のようなモヤモヤは許されません。仏教の限界でもあります。(他の宗教は言わずもがなでありますが・・・。)
◆キリスト・イエスが来られたのは、事実の開示。僕らが生きているこの世界とそして人の肉体と霊と、死後の行く末の事実です。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(479回目)自分の死の国へ入る儀式について冷静に考えて見る

2018-02-14 07:43:52 | 日記
 この国の仏教でいうところの喪中にいろいろ考えたことのその二です。なんかいつもながら理屈ぽい。寒い時期に少し寒い話。
◆この国の人々はそのときの場の空気や心情で考えてしまうところがあるから、政治的に実に危ないところがあるけれど、世界にまれな生真面目さもあるようだから(僕はこの国の根の部分というのは、やはり遠い過去にこの国の土台をつくった人々は、かの国から来た人々で・・・ということをやはり思ってしまうのですね。何のことやらと思われたら今までのブログに書かれているので読まれてください)、この地上で起こっている「生き物」とその「霊」について(特に人についての)を考えて、事実(実際)のことなのだと理解されれば、つまり霊の法則に則(ソク)することになるから「実際に人、強い国」になれる筈なのである。そんな高邁なことを考えずともまず、この国の多くの人が準ずるであろう仏教について、皆さんどうして真剣に考えないのだろう。実際に必然的に死がある自分のこととして考えて見ることが必要なのに。唯の儀式としてしか考えない、そんなのでいいのかなぁ。
◆位牌、何回忌とか、喪中とか・・・、そして、お経の内容・・・。これを心情的しがらみから解放されて冷静に考えるのは、つまり実際にの事実はそうなのか、を確認するにはやはり学問的に正確な事柄を見てみなくてはいけない。で、僕が本棚から引っ張り出して再読拾い読みしたのは、『日本の仏教』渡辺照宏 著(岩波新書)(book offで100円)、仏教では泰斗の学者、宗教というのは心情しがらみが殆どを占めると言ってもいいくらいだから、必ず客観的にそれらをそぎ落とした学問的に問題ないものを読むことです。梅原猛さんのは面白いけれど駄目よ。娯楽で読むのはいいけどねぇ。(僕はキリスト者だが仏教は批判はしないけれど何が真実なのかを知りたいのです。いつも)
◆結論から言えば、位牌や何回忌とか、喪中がどうのとかは、儒教やその他、中国仏教からの謂われ・・・で行うようになっただけ、それはそれで尊いのだが、滅び行く人間が謂われやしきたりで出来ていたのはどうかなぁ・・・の類い。でも、事実として死者の『霊』がうろうろするというのは、事実であるのだということは感じているので、(これについては、いままでのブログでも書いたのですが、東日本大震災後の亡くなった方がいろいろなところで現れた話。駅前でタクシーに乗せたとか、避難施設の空室に集まられて芥川作家の和尚さんがお唱えをしたらピタリと止んだとかの話。)そのうろつく『霊』への礼儀、所作として、仏教は諸々、言われてきたしきたりを行い、毎日のお唱えをされている訳だと思う。いずれ、自分もそのされる側の対象になるわけだから。
◆お経の内容はどうなのだろう。僕は真言宗のあの時代のスーパーエリート空海さんが好きなのだが、真言宗と言わず、あの西遊記の三蔵法師はインドから沢山の経典を持ち帰り般若心経を訳した玄奘(ゲンジョウ)さんなのだが、実際には一巻厚さ2cm程で、それが200巻もあり積むと12mにもなるような原典のエッセンスをまとめて「般若心経」としたとのことです。その解説文の書物も売られているので読まれるといいのですが、「実際の事はこうなのです・・・」という説明なのです。「色即是空、空即是色」それから、「仏、法、僧の大切さ」を説いたというのは、日本史で習ったな高校の時。つまり、説明で、え~と、うまく説明出来ないのですが、それを読んでいる「今この時の自分」の有り様は、どこを読んでも書かれていないのです。自分の今の肉体が、疲れてとても唱える気にも考える気にもなれないよ、と殆ど人が思うであろう、そのときの私はお経からみれば、どう考えたらいいのだろうと。いずれ年老いて脳みそも萎縮して、何も考えられられなくなった時、どうなるんだろうと・・・。結論は結局のところ、今生でも考えとして、そして死後では永遠に極楽浄土に住むということが究極の目的になるのでしょう。
人が生まれて極楽浄土へ行くには、何度も生まれ変わって(とてつもなく長い間、繰り替えし)そのときどきの「今生」で精進を重ねていくということが言われているのです。仏教の宗派もその考えは同じようです。その死後の世界にいく、行った後の所作儀式に多生違いがあるのです。僕は、そんなことにとても満足できなかったのです(そんなに生まれ変わって苦労して、時間がかかるのかぁ)。空海さんもきっとそうだ、だから「即身成仏」というところまでいったのだろうなぁと。・・・・続く  
 

世界のベストセラーを読む(478回目)イエスの語った事は宗教内容ではなく実際の霊的事実である

2018-02-12 20:50:06 | 日記
 親の召天、仏教で言えば忌明けというのが今日で終わり、それでブログを再開。まったく世代の交代が行われたということになる。いろいろ考えた。今回はそのことの一つ、で、あまりくどくど書いてもであるが、思うところを綴る。 
◆表題のような書き方は、つまりアーメンということなのだが、どうしても何かうさん臭さを感じてしまうのは、誰でも思うことだろう。で、次の新約聖書の言葉はどうでしょう。「十字架のキリスト以外に福音はない」これは使徒パウロのガラテヤ人への手紙に出てくる文言である。これなど読むとオイオイずいぶんな物言いではないのか一般人の思うことだろうが・・・実のところ、僕はいつも思わされているのだが、キリスト教は「教」という文字が付いているからどうしても仕方がないことなのだが、イエスの行動と話された事は、「教え」などという人が聞いて文字で書いて覚えるような教訓じみたものでは、まったくなくて、つまり宗教のジャンルに入るようなものではなくて(入っていても飛び抜けて別次元の話であって)「事実(真実)」を語っているのだということになるのですね。何の事実か、つまり、アーメンとキリスト者が何らかの時に最後につける「確かにその通りです」という意味の文言は何を最も意味しているのかといえば、思いや信条などもあるがそれ以上に、人が生きている肉体とその霊についての事実、そして、その救済としての方法、実は法則があって、そのようになっているということは事実なのです、ということを確認している言葉になるということなのです。何の事やらを簡単に書きます。
◆イエスの言葉についてこのブログでは、宗教的しがらみなど、最後には自分の肉体の弱点(つまり、僕自身で言えば頭の悪さ<これも僕は親を選べない遺伝的な肉体に引きずられた言葉ということになるのだが>)などのしがらみからもすべて脱出して・・・など、何度も書いてきたのですが、事実、キリスト者の死は自分の不完全な肉体からの解放、脱出を意味していることから、むしろ喜んで死んでいったのだ(無論、苦しいだろから簡単に肯定できる話でもないけれど)。
◆それは、生来からの遺伝的(ここで言うのは本人が気がつかない気質、性癖のようなものを含め)罪。これは、代々が引きずって来ているのだから自分ではそうしようもない、従って、自己を見つめる言葉というのはかなり後退した内容になるから普段の人はしないし、できないことが多い。
◆「キリスト教が何故、この国では1パーセントにも満たないのか?」の問いに「自分の言葉が要求されるからでしょう」と以前書いた。実際にこの言葉は、自分とは何か、さらにはこの自分の朽ちゆく肉体はどうなるのか、さらには一段上がり、人とは何なのか、というようなこと、つまりこれは、この地上に生まれて、「楽しく生きようぜ」、から、途端にその「楽しく生きようぜ、思う自分は何なのか」という、自己アイデンテティーの根の部分を探る言葉が要求されてくるからなのです。あぁ、これは実に後退した話だ、そして他人が代われない言葉の要求でもあるのですね。肉体を変わって死んであげるということは、できない、つまり死ぬのは、その個人だからです。
◆根の部分を探る言葉を多くは、他の人の言葉を借りているというのが多くの人なのだ、がことこの自分の「肉体」と与えられた「霊」についての言葉は、結論から言えば、どうひっくり帰っても死を他人が代われないように、他人の言葉を借りる訳にはいかないのです。
◆では、呪文を唱えたらどうだろう、実際に人の「肉(聖書的な表現)」と「霊」について、唱える人が死んだ場合に、その呪文は誰かが唱えなければ実際その意味が分からないから(お経を読んで理解しても分かる部分は、人が生きる舞台設定、人が苦悶することの意味環境の解説・・・だから忘却し、悩むことなどないのだ・・・という解説されていると言うことだけが分かる)が他は意味の分からない(だから、霊力が有りありがたいと思うのかだが、それで本当にいいのか)。キリスト教では「人は神の似姿に創造された」とされているから、このような無責任と思える呪文を唱えることは断じて禁じられている(というか、意味がないとされている)のです。・・・ 続く