marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(25回目)

2016-06-15 19:13:08 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 聖書などを読み始めて、自己肯定的な思考になるとなにぶんにも背後に神さまが控えているものだからなのかどうかは分からないが、いつの間にか誰でもが上から目線になってしまうのよネ!それは鳥瞰的な目線で自分の位置というか、それはもうパラダイスのあった永遠の世界から失楽園に落ち込んでからの、又再びその基に帰れるとい言う希望からなのか自分の2次元的な水平面からの世界で霹靂していた者が、そのとき鳥のように舞い上がって、今一度、自分の位置をゆっくり眺めるような気分を持つものだからなのだろう。ああ、なんと俺は憐れな者よ、何をあくせく、何をくよくよ、何を気にして・・・etc それらもろもろの地上の営みも自分をもう一つの目線で相対的に自分を見つめてみることは、まったく土台のない位置から見るか、または目には見えないが永遠に流れる命の水脈のように流れるその土台で見るかは、大きな開きとなってあの世に近くなってきたときに分かるものなのだと僕は確信する。         さて、昨日の続き
◆ヨハネ伝第1章14節から18節まで。言(ロゴズ)<神=イエス>は人の形(肉)をして、地上を歩まれたとある。テキストの中で「私を見た者は父を見たのである」と言われた。それで、後半の部分は、イエスから恵みを受けたとあるが、この辺の16節~17節の観念用語と観念用語の結びつきは良く分からない。何となくではあるが、要は我々人間が恵みとしてあるものはすべてこの方によってなっているのであると読める。しかも溢れるばかりに増し加わり・・・となるようだ。どうかわたしにその溢れる恵みが分かるようにしてくださいと祈ることにしよう。17節、このモーセの律法は当時の人々には言わずもがな、これが、選民の選民たる所以、永遠の命をたまいたもう神の選びし、そして神にあしらわれつつ人類の歴史を見せ物になるべく存在あらしめた栄誉あるユダヤの民なのでありました。これが、またとても頑固なのです。この民族の先理解である確証のやりとりが、次回19節からも続きます。・・・Ω ※今日の写真は、先ジュンク堂に行きました折、入り口で唯で配布の「春秋」、僕はお金ないからこういう面白そうなのは遠慮なくもらうことにしている。あれ!あの評論家若松英輔。それに、深井智明先生のトレルチの記事もあるではないか、めっけもんであった 7月も行こう。