marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(41回目)

2016-06-28 22:04:14 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 
 37回目に戻り少し大切な事を追加します。今朝、薄暗がりの中で会社へ行く前に少しCoffeeなどたしなみ、聖書を読もうとしているとナタナエルさんが来てこう言うのだ。
「37回目は少し簡単過ぎるよ、私の名前がここ(ヨハネ伝第1章の終わり)に書かれていることは実は大切な事なのだよ、もう一度読んで見なさい」と。
 47節にイエスがナタナエル(12弟子のなかのバルトロマイと言われている)のことを「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われている。実は、ヨハネ伝の初め第1章でイエスが、弟子の中ではそれからあまり名前の出てこないナタナエルに対してこのように話されるのを唐突のように僕は感じていたのだ。どうして「まことのイスラエル人だ」などとイエスは言われたのだろうかと。しかし、一番初めにイエスを「神の子である」と認めたのは弟子の中ではナタナエルなのだ(49節)。ここが重要なのだなと僕は教えられた。
 確かに、「イスラエルの王です」というのは、当時の誰でもが、旧来からの云われでは救い主というのは現実の政治を司り自由をもたらす王と考えられていたから考えに限界があっただろう。しかし、弟子の中でイエスに対等に向かい、そのこと「神の子である」と告白したのは、ペテロではなく(だれでもがペテロと考えているのではないかしら<ヨハネ伝第6章69節、マタイ伝第16章16節から>だから天の国の鍵を授けられたのだと)ナタナエルなのだ。これがとても重要なことなのだ。まことのイスラエル人であれば、古来からの聖書の中に救い主としての、神の子が来られることを読み取っているはずである。ナタナエルは、ストレートにイエスに向かい、目の前のイエスにそのことをまともに告白したのだ。だからこそ、「まことのイスラエル人である」と先にイエスは見抜いたのだ。
そのようにナタナエルは、きちんと聖書を自分の言葉で読み、救い主が来られるとの考えの下準備が出来ていたということなのだ。だから、自分の言葉で聖書を読むことが如何に大切かと・・・イエスが聖霊を送り教えてくれると云われているではないか、そして再び迎えに来ると話されたではないか、しびれを切らさず、待っていなさいと・・・そういってナタナエルさんは消えた。・・・・Ω