◇(9:1)わたしは、キリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。(9:2)すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。
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◆第9章に入り、日本人である僕らは、急に話の内容がユダヤ人向け、しかも伝統ある先祖伝来、真剣に自負してきた神の選民であるその内容にパウロが終始することに少し読んでいて正直、閉口するところがある。しかし、神の言葉である聖書を読むこと自体、旧約聖書は、ユダヤ人の歴史が書いてあるし(ユダヤ人という言葉も創世記当初からではないが)、その中からイエスが出てきたとすれば、この地上において、その選民の歴史がありその辛酸をなめてき、それは神の導かれた歴史が事実あり、我々が生きてきたのだということに対してそれは観念的な事柄ではないことをしっかり示している訳です。したがって、8章までの回が人間一般に向けての論説であってもここにきて、パウロが内向きに論説を述べていることに対して、イエスが異邦人であるサマリアの女に語ったごとくに(ヨハネによる福音書第4章22節「~救いはユダヤ人から来るからである。」と述べられたからには)異邦人の僕らにとってもどうでもよい話ではなく、天地創造来の神の選民としてのこの地上における使命があると当然のごとくにパウロはさらなる議論に入っていくのです。
事実、世界の歴史を見よ!
◆それは遠い国の話で昔話ではない。今も現にその国はある。パウロが、その正当性をもって本来の幹から生え出てきたその枝を、体に染みつき刻まれて来たといってもよい神の民に対して、律法からそれさえも総括した神の導きの由来を切々と語り、その考えを変えるには、非常なる困難があったことが理解されます。何しろ、長い天地創造来からの先祖伝来の言い伝え、律法、そしてその研究が深く行われてきていたのだから。
◆パウロをそうさせている原動力は何なのだろう。それは死から生を示したまさにその事実、パウロはその肉体が「復活したイエスに会ったその事実があったからだ」と言っても間違いないだろうと確信する。・・・
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◆第9章に入り、日本人である僕らは、急に話の内容がユダヤ人向け、しかも伝統ある先祖伝来、真剣に自負してきた神の選民であるその内容にパウロが終始することに少し読んでいて正直、閉口するところがある。しかし、神の言葉である聖書を読むこと自体、旧約聖書は、ユダヤ人の歴史が書いてあるし(ユダヤ人という言葉も創世記当初からではないが)、その中からイエスが出てきたとすれば、この地上において、その選民の歴史がありその辛酸をなめてき、それは神の導かれた歴史が事実あり、我々が生きてきたのだということに対してそれは観念的な事柄ではないことをしっかり示している訳です。したがって、8章までの回が人間一般に向けての論説であってもここにきて、パウロが内向きに論説を述べていることに対して、イエスが異邦人であるサマリアの女に語ったごとくに(ヨハネによる福音書第4章22節「~救いはユダヤ人から来るからである。」と述べられたからには)異邦人の僕らにとってもどうでもよい話ではなく、天地創造来の神の選民としてのこの地上における使命があると当然のごとくにパウロはさらなる議論に入っていくのです。
事実、世界の歴史を見よ!
◆それは遠い国の話で昔話ではない。今も現にその国はある。パウロが、その正当性をもって本来の幹から生え出てきたその枝を、体に染みつき刻まれて来たといってもよい神の民に対して、律法からそれさえも総括した神の導きの由来を切々と語り、その考えを変えるには、非常なる困難があったことが理解されます。何しろ、長い天地創造来からの先祖伝来の言い伝え、律法、そしてその研究が深く行われてきていたのだから。
◆パウロをそうさせている原動力は何なのだろう。それは死から生を示したまさにその事実、パウロはその肉体が「復活したイエスに会ったその事実があったからだ」と言っても間違いないだろうと確信する。・・・
