marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(213回目)脱線Ⅳ K・バルトさんについて

2016-12-25 21:43:38 | 日記
カール・バルトは天才音楽家モーツァルトが好きでしたの敬意を払って You Tube の Mozart 名曲集を聞きながら・・・
◆元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦さんの「二十世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか)(教文館:2011年4月10日初版) 2 カール・バルトとの出会いと格闘 から
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◇『ロマ書講解』(第二版)は当時の神学の世界に広く衝撃を与え、それ以前の神学、十九世紀の「学問的神学」あるいは「自由主義神学」と言われたものとはっきり決別した、新しい「神の言葉の神学」の出発点になりました。そこでは従来神学の基盤であった人間の宗教経験とか、それを把握する心理学的方法や歴史的方法は拒否され、神と人との無限の質的断絶が強調されました。「神のみを神とせよ」。あの第一の戒めが高らかに鳴り響きました。神学において文化的な前提とか、歴史的な資産に対する依存性は覆され、まったく圧倒的に上から迫ってくる神の言葉が強調されました。「危機の神学」とも言われたように、人間的、文化的、社会的なものは、すべて「危機」の相の下に見られ、垂直線の上方向から迫る神の言葉、多くは審判的な神の言葉にさらされました。(p30)
◇カール・バルトを代表とする「神の言葉の神学」もしくは「危機の神学」は、また、「弁証法神学」とも呼ばれました。これはバルトの『ロマ書講解』(第二版)の序文の中に自分に神学的な思惟方法があるとすれば、キェルケゴール的な永遠と時間の無限の隔たりに立ち続ける逆説的弁証法であると語ったバルトの言葉から来ています。(p32)
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◆さて、僕が本ブログの自己紹介に書いたこと”すべてのしがらみから解放されて・・・”がまがりなりにも書かれている訳です。人間的な思惑というか、神の言葉を取得したら自己了解のもとにおき、それが一人歩きする。そして、心理的に拘束することにもなる。取得した言葉、神の言葉は一方的にその個人に語られるものであって、それがまた他に、それは他の霊を持つものに対して拘束となるものではないということだと思われる。そこには、不完全な人間の言葉が入り込んでいるだろうから。
◆イエスは、疑い深いトマスに言う。「われ(イエス)は道なり、真理なり、命なり」と、また「真理はあなた方を自由する」と。本来、神の言葉は(人間の)すべてのしがらみ(無論、その中には人間の「死」もはいる)から解放された真の自由を保証するものなのである。・・・Ω  

世界のベストセラーを読む(212回目)脱線Ⅲ K・バルトさんについて

2016-12-25 20:28:55 | 日記
25日、日曜日クリスマス礼拝、午後は来られた方とのお食事で祝会を行う。後かたづけ後、僕は来られなかった高齢者の方にツリーをかたどったショートケーキと本日の礼拝の栞を持って訪問した。 穏やかな静かな夜である。You Tube の J.S.Bach 名曲集を聞きながら・・・。
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◆さて、バルトさんの続き・・・
僕が、K・バルトを読む時に、感じる印象を今まで述べたけれど、僕のようなドシロウトでも読むのであれば、なるほどそのポイントを押さえてみれば、何を言いたいのかは凡てとは言わないけれど、おおよそ理解していただけるのではないかと思う。おおよその神学者は基本となるその考えが、ベースにあるのであって、少なくともバルトさんは、その膨大な著作量もすごいけれど、当然といえばいいいか、その時代の読んでもらう人々が想定されているのであるから時代に対して、あるいは時代は変わった考え、あるいは時代として感化されない読み聞かれなければいけないなどということの伝達が使命となっていることです(バルトさんは一番最後だろうけれど)。どうぞ、ご興味あるかたの多く読まれることを希望致します。
◇しかしながら、プロ級のその道の大家では、当然、その先理解の知識量も膨大なものであって、その先理解がある程度、知識として実際に就いていないと少し理解度の深さには困難を生ずるかもしれません。そこで、基本に戻りますと、十字架で言えば、縦の杭に当たる、しかも鋭く、あちらとこちらとの移行時の接触点、変曲点、臨界点のように神の言葉を強調していることです。人間の自己了解のこちら側のあれやこれやではなく質的次元の断絶、相違が既にあるということ。かといって、まったくぶちぎれていれば、こちら側の人間も理解も何もあったものではないのですが・・・。僕ら凡人は、その神の接点にイエスが立たれたというその、霊的な驚愕という一瞬でも感ずることができれば、その述べられた内容の目標が達成されたとしなければいけないと思います。
◆元東京神学大学の学長であられた近藤勝彦さんの「二十世紀の主要な神学者たち」(私は彼らからどのように学び、何を批判しているか)(教文館:2011年4月10日初版)には、最初に出会った神学者はカール・バルト(Karl Barth)であったと述べています。  この後には、批判としてやはり、歴史的な見方がなされていないと述べていますが、僕から言わせると何も神学者というのは、時代の預言者としての影響を強調して欲しいのでそれは、それでいいのだと思うのだ。総括的にまさに学問としてのあれやこれやを傍観者的に理路整然と述べるのではなくてね。いつの時代も神学者は戦わないといけないのだと思う。自分の説に悦にいって学問としての象牙の塔の中に引き込むより、時代に議論を吹きかけ、引き回し、あるいは、時代を背後で動かす悪の霊に対抗すべく安穏とした人々への警告者であって欲しいのだ。その道の人々には特に僕はそう思う。教師は特別厳しい裁きを受けるとある・・・。
◇次回、近藤勝彦先生のその著作の中の『ロマ書講解』について述べた一部を紹介することにします。・・・