marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(210回目)脱線 再びK・バルトさんについて

2016-12-23 20:51:34 | 日記
2016年アドベント第4週目の中、今年は、イブが明日24日でクリスマスが25日、日曜日。
◇20世紀最大の神学者カール・バルトの言葉を前回、引用したのでその方を引用するとそのままでは次へと行かなくなるな、やっぱ。
◆前回のバルトさんの書かれていることの続きを書き表したいが、おそらく(これは大変失礼なことだろうけれど)読まれる方はチンプン、カンプンだと思います。けれど、バルトさんの考えは、僕が理解するところでは、つまるところ人間世俗世界の中に、了解して納得するような(満足するような)言葉が、神の業、言葉として流布され通常自己理解で人に話されている時に、おそらくすでにそれはどこか腐敗が始まってきているのであろうなということを暗示してくれるような指摘なのである。したがって、バルトは今までの歴史の中で定着してきて、それはキリスト教などという自己理解をもっとも嫌うようなのですね。今、ある、今、語る常に新鮮な神の言葉なのであって、それは人間が自己理解する(取り出す)ようなものではなく、現実の神の言葉に出会うのは、その臨界点のような時点でのみ、イエスの十字架の言葉にあうのが正しくあるのだという、そういう、神は、生き、働き、動いているというその鮮烈な言葉を、神の言葉に接したときに、受けとらないといけないと話されているようなのです。
◆バルトの考えでは、したがって人間の言葉は、神の言葉から本来、断絶していることをいう。エミール・ブルンナーとの論争で、ブルンナーが人間は神の似姿に創造されたから、神を求め、理解する地上からの呼び求めでの神が応答するのではないのかに対し、バルトはNein!と論争したのは理解できないことではない。つまるところ、人間が神の言葉を自己理解したところで、生ぬるくなり戦争で多くの神の似姿に創造された人間が犠牲になったいう当時の世界的な事情もあったのだろうけれど。
 そのような、バルト特有な書き方が至る所に見られる。したがって、バルトさんは、信仰から信仰へという(1:17)を、真実から信仰へと訳したのである。 その真実とは、人間の時間的理解の深まりの推移(横の線)<時間的経過ではクロックではなく>とは読み取らず(なぜならその時点で既に人間の言葉の範疇に神の言葉が取りこまれているから)、真実、それはまさに縦の杭のような瞬時<質的な時の顕れカイロス>の顕れの神の言葉の授与と読み取ったのである
◆バルトさんの文書を読むと、そのことを伝えたい表現に時折行き当たると、なんと言ったらいいのだろう。文字から離れて、自分の眉間の眼前にほのかに彼(イエス)を待ち望むかすかな灯火が、一気に空間が縦に裂けてまばゆい光があふれ出て、眼前凡てが光に満たされるというイメージを僕はもつのである。・・・ Ω