marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(196回目)ローマ人への手紙(第4章25節)

2016-12-08 07:38:16 | 日記
パウロさんの信仰義認は、続きます。
◆(4:25)「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
イエスを信じたからハッピーなのかと言うと、決してそうではありません。どの程度、信じているの? 何を、どういう方を、誰を? 世界的な普遍的宗教とまでなったキリスト教について、パウロはここでイエスを信じなさいとは言ってはいませんね。その父、つまりその前の節に書いてありますが、(3:24)「私たちの主イエスを死人の中からよみがえらせた方を信じる私たちも義と認められるのである。」とあるとおり父なる神を信じる人が義と認められるとあります。とすれば、世界のすべての人でイエスが解らなかった人までも、とにかく死人の中から復活させる力を神は持たれているということを信じているのであれば、誰でも義と認められるということにならないだろうか? そうですね。このことはあるいは他の宗教を見てみたときに死人の復活、あるいは死なないという内容には多くの宗教が何等かに携わっているかもしれないなと思わされます。しかし、問題は次です。つまり、冒頭に掲げた(4:25)
私たちの罪とは、そして、イエスがそのために死に渡されたということはどういうことか? ここに、とても重要なそして、誰でもが逃れられない鍵があるのだと思います
◇僕ら地上に生きる人間は、人間だからということで公に口にしてはいけないことがあります。いや、あえて言わないようになったといったらいいか。その一つは遺伝的なこと。犬で言えば血統書付きとか雑種だとか、馬で言えば例えば競走馬。何々の子供だとか、種馬が優秀ならば子供はその血を引いているとか・・・。騎手の武 豊さんは優勝歴は沢山ですが彼のインタビューで、デープ・インパクトは空を飛ぶように走ったと話されたことが耳に残っています。確かに・・・とすれば、人間はどうなのでしょうか。
◇それと、なぜに聖書は旧約から、アブラハムに言われたごとく、「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたし(神)の示す地に行きなさい。」と言われるのか。また、イエスがニコデモに言われた「新たに生まれなければ神の国を見ることができない。」と言われたのか、その他、「わたしのため、福音のためにすべてを捨てて・・・:」など、そして、ヨハネ伝第九章、そして、誰しもが行く死の世界。・・・
究極この身体に属するもろもろのこの地上に生まれた時から、すでに我々は誰でもが制約を受けているととらえることができるが、それから離れよ、解放されよと促しているように神の声が聞こえるのは僕だけだろうか
◇誕生は、自分では選べないのです。それらにかかわるしがらみをすべて捨ててみたいとは思いませんか。第一、自分の欠点をうかがい知ることができる人がいるとすれば、そのまままではとてもパラダイスに行けるとは思われないでしょう。すべてを隠すことができないのですから。僕にはこの思いが楔のように打ち込まれています。そしてそれが、自分の十字架なのだと。
◇ヨハネ福音書の次の言葉をどう思われますか? (12:25)「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」
そうです。イエスの十字架は、我らの罪の解消となっているのです。あるいは、その補填。それゆえ、天上界においては、それらの欠陥、生まれつきの制約を受けている、しかも自分自身では如何ともしがたい罪を帳消しにしてくれる、完全な方の犠牲を受け容れることにより、それがなくなるというのです。ただ、そういうイエスを受け容れるだけ、信じて生きることなのです。
◆もし、われわれがハピーのみのことで、それだけで生きるならば、いつかは自分の思いのみに変質していることだろう。であるから、僕たちは(私たちの罪のために死に渡され)、僕自身の罪のために十字架にかかられたイエスを見上げないわけにはいかない。「あなたの十字架を負って私に従いなさい」彼は、いつもそう僕に語っているのだ。ここに動かされぬ碇(いかり)がある。・・・Ω