marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(204回目)ローマ人への手紙(8章1節~11節)

2016-12-16 23:27:48 | 日記
2016年冬、ニュースでは、シリアのアレッポという町が、ISに対しシリア政府に制圧とかのニュース。
アレッポという町は、あのキリスト者「クリスチャン」と呼ばれるようになったアンティオケアから東にそんなに遠くない町だったななどと思う。当時の地中海の大都市と言えば、ローマ、エジプトのアレキサンドリア、そして、このアンティオケアだった。西はローマへのそして、東ペルシャ、南エルサレムへの交通の要衝。アンティオケアは、同じ名前の都市がトルコの中央部ほどにあるピシデア州のそれとは名前が同じだが異なる場所。それにしても、僕らは今も、パウロが苦心の上、伝道して歩いたこのシリア、トルコの地方が、世界のニュースに上がるのを、考えないわけにはいかない。
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◆(8:1)「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。(8:2)なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊(みたま)の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したからである。」
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◆パウロの霊と肉の二元論について、この地上の生涯を終える(死を迎えることが必須)のすべての人々にとっての仕組みについて、そこにはともすれば曖昧になってしまう個人差もあろう信仰がどうのこうのという言葉の入りこむ余地はない。曖昧になる言葉はない。実際そうなっているのですよということが書かれているだけだ。それは、「法則」という言葉。ともすれば、信仰は個人如何ではあるが、それとは切り離しても、「実際にそうなっているのです」ということをどのように僕らは受け取るかにかかっているのではないかと思わされるのです。
◆あのイスラエルの教師、ニコデモさんがイエスに「イスラエルの教師でありながらそのようなこともわからないのか」(ヨハネ伝:第3章11~12節)と叱責を受けたことは、有機的な生物としての霊と肉のありよう、そのようになっていることについては、僕らは知りえないがゆえに納得しきれないものがあるが、事実そのようになっているのだとすれば、僕らが知っていると思っているキリスト教などのしがらみのようなものはすべてかなぐりすて、直截にイエスを信ずるに越したことはないということになる。障害となるのはやはり、今までのキリスト教の歴史の中のしがらみであるということになる、そこまでそれを考えるかということも個人にかかわるけれど。
◆そして第一に、パウロ自身が事実、自分の内面を深く掘り下げ、(通常、人という生き物は、自然体のままでまず感謝し、その環境に対していかに貢献的に生きていくか、そのために不完全な自分の肉体を律することに、荒行などにより身体の拡散エントロピーを抑制することが宗教には付随しているようなのであるが)、自然体のそのことに、まずはスーパーエリートだったとも思えるパウロが自己を見つめ人間のありよう自体に疑義を呈したことだ。そして、そこに法則を見出したと語っていることである。全知全能の万物を創造された神、むろんこれには人間もその中に包括されているわけであるから、人間にはそのさらに外に立ってその事態を自己説明することはできないそういう”場”の中にあって、「いわば仕組みとしてそうなているのである、誰がこの哀れな死の体から私を救ってくれるのか」と嘆いていることである。これが”罪”であると・・・。しかし、多くの人は、自分を知らない。ここに決断がある。
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◆(8:11)「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたの内に宿っている御霊(みたま)によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」・・・ Ω