marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(193回目)ローマ人への手紙(第3章27~31節)

2016-12-05 22:05:09 | 日記
パウロさんの手紙に向かうのはやっぱ、こむずかしくなるなぁ・・・
◆(3:27)「すると、どこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく信仰の法則によってである。」(3:28)「わたしたちはこう思う。人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(3:29)「それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。」(3:30)「まことに、神は唯一であって、割礼のある者も信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」(3:31)「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確率するのである。」
◆パウロさんは、異邦人伝道に使命を燃やした使徒であった。そして、今も彼の手紙は我々に影響を及ぼしている。命あるものに神は活き、動き、働いているとし、信ずる者を導いてきたと。遠く離れた異邦人でさえ、神は(異邦人といえども)彼らは自分自身を律法として互いに訴えてきたという。そこで律法について過敏なユダヤ人にむかって、本来の律法の意味を問うていく。
◆さて、僕らは律法の意味を今一度、考えてみたい。パウロの信仰義認。しかし、(2:13)には「律法を聞く者が神の前に義なるものではなく、律法を行うものが義とされるからである。」とある。それに対し、冒頭に述べた(3:28)は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」とある。さらに、(3:31)「信仰によって、かえって律法を確立する。」とある。これをどう考えたらいいのだろうか。
◆よく言われること。それは手段と目的を間違えてしまっているということである。少し堅い言葉を使うと、律法の本来の目的はいかなるものであったか、それはあくまで遵守する者が安らかに平和に暮らせるように・・・その有効性の確認がもたらされるものであった。ところが、人間の言葉の領域に取り込まれると、それを守れないのは駄目なことだと裁きが人の中に出て来たことだ。形骸化となっていくことと。これはユダヤ人に向けられているものではあるが、一般人(つまり異邦人にも)第2章1節に述べられているように、ああ、すべて人をさばく者よと訴えてるわけは、人間というのは自分優位として生きる動物でもあるから、いずれにしても自分に有利に解釈しない他者はすべて排他意識をもって優位性ををそもそも保とうとする生き物ではないか。(神の目から見れば誰でもが不義であるにもかかわらずであるのに)。我々は、エデンの園で食することを禁じられた”善悪を知る木”を食べてしまったが故に、いつの世も。どの国の人間もこの善悪の判断基準には非常に敏感で判断に欠陥を持っているものなのである。
◆しかし、全人類が、今や我等の欠陥を補填すべくイエスは十字架にかかられたという。その信仰故に義となるのであると。しかし、この身はまだ、不純のままだ。信仰により義人とされるも、実はそこからも新たなるイエスを”まことの人”と目標におき、我等は、それに向けて人生を歩まねばならないということだ。そこで様々な人生の試練も、イエスに見習うべく、近づくべく喜びとなるというパラドクスが生ずる。いずれ、あらゆる否定も前進の糧になるという大変なパラドキシカル・エネルギーとなるのである。
律法は、朽ちていく外なる人肉体を規制するものであったが、イエスを信仰するとはいまや、内なる人の目標たるその人をめざしての、復活成るエネルギー(聖霊)をもらっての自己形成、自己完成を目指していくことに転進していくことを意味するものとなるのである。その完全性は自分の肉なる不完全さも十字架に掛けられたから私の肉体は死んだ、そしてまことの人なるキリスト・イエスが私のうちに生きているのだとまでパウロは言い切るのである。「信仰によってかえって律法を確立する」(3:31)とは、信仰が本来の律法の役目を補完し(つまり、肉の不完全さをイエスの十字架は解消したのであるから)障害はなくなり、その律法の本来の目的を確立させることになるということなのである。・・・