青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中篇

2016-11-21 07:20:00 | 日記
ジョイス・キャロル・オーツ著『邪眼 うまくいかない愛をめぐる4つの中篇』には、「邪眼」、「すぐそばに いつでも いつまでも」、「処刑」、「平床トレーラー」の四篇が収められている。夫婦、恋人、親子といった狭い人間関係の中で繰り広げられる愛憎劇は、濃密で息が詰まりそうになる。まさに、すぐそばに、いつでも発生し得る身近な狂気だ。

副題の原文は“Four Novellas of Love Gone Wrong”
四つの物語の愛は何れも極端に歪み、ねじくれている。個人から個人に向ける愛とは多かれ少なかれ執着を伴うものなので、”Gone Wrong”に陥りやすいのだろう。

「邪眼」
邪眼とは、邪視、魔眼、イーヴィルアイ(evil eye)とも言い、世界の広範囲に分布する民間伝承の一つ。悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける。

主人公のマリアナは、両親を立て続けに亡くしたばかりの内向的な若い女性。
一人っ子で頼れる親戚も持たないマリアナは、天涯孤独に陥った己の境遇を受け止めきれず、情緒不安定な日々を送っていた。

そんな彼女に手を差し伸べてきたのが、職場の上司で舞台芸術界の大御所オースティン・モーアだった。
オースティンは、それまで殆ど交流のなかったマリアナを熱心に労り、短期間で距離を詰める。親しくなって六週間もしないうちに泊まるようになったオースティンの家には、ナザールという奇妙なお守りがあった。ナザールには邪眼を払う効力があるという。最初の妻イネスが置いていった物だ。

二人は僅か六ヶ月で結婚に至った。
三十歳の年の差、そして、三度の離婚歴のある男。マリアナに親しい人がいれば、危険だと忠告したに違いない。しかし、残念なことに彼女は孤独だった。
結婚した途端に、マリアナの人格を否定する態度をとり、些細なことに激高するようになったオースティン。
思えばおかしなことばかりだった。職場では温厚な人柄で知られる彼に、前妻たちとの間に設けた子供たちは悉く寄り付かない。プライベートで親しくしている友人もいない。彼は、身近な人間を隷属させることに快楽を感じる異常人格者だったのだ。

夫の顔色を窺いながら息をつめて暮らすマリアナ。
ある日のこと、夫の最初の妻イネスが姪のホーテンサを伴って泊まりに来る。
イネスと初めて顔を合わせたマリアナは驚愕した。イネスは隻眼だったのだ。気後れして上手くもてなせないマリアナは、息の詰まるような思いでディナーの席に着く。
一見和やかなように見えて、互いを牽制し合うオースティンとイネス。刺々しい態度を隠そうともしないホーテンサ。

草臥れたのかオースティンは、早々に寝室に入った。
すると、それを見計らったかのようにイネスはマリアナに近づいてきて、ある打ち明け話を始めたのだった…。

「すぐそばに いつでも いつまでも」
男性との交際経験のない内気な少女リズベスは、図書館でハンサムな少年デスモンドに声をかけられる。気さくで知的なデスモンドに忽ち夢中になったリズベスは、彼をボーフレンドとして家族に紹介する。母はデスモンドを気に入ったが、姉は彼を毛嫌いした。
友人たちはリズベスが変わったと噂し、教師はボーイフレンドから虐待されていないかと心配した。

最初はデスモンドを庇っていたリズベスも、デスモンドの極端な距離の詰め方と支配的な態度に恐怖を覚えるようになる。リズベスが、二人きりになるのを断ると、デスモンドはストーカーの本性を露わにしてきた。

手紙や隠し撮り写真が送られてきた。愛犬が行方不明になった。
リズベスは誰にも相談できなかった。こんな男と関わってしまった不注意を非難されるのではないか?家族の反応を考えると、とにかく怖かった。

そんなある日、学校帰りにリズベスはデスモンドに待ち伏せされた。
デスモンドは、その場で動けなくなるリズベスをリトル・ヒューロン湖までドライブに誘うのだった…。

この二作は、内気で男性経験の無い、もしくは少ない若い女性と、一見魅力的な男性という組み合わせが共通している。
無力で相談できる人のいない若い女性は、他人を支配したがる男性からすれば格好の餌食なのだろう。彼らが捕食者の本能で大勢の女性の中から犠牲者を選び出し、退路を断ち、電光石火の速さで支配する様は、なかなか鮮やかである意味感心してしまう。
「邪眼」は、美しいがどこか不気味なナザールと隻眼の老美女イネス、そして、イネスに付き従う醜女の姪という組み合わせがミステリアス。
「すぐそばに いつでも いつまでも」は、最後まで読むとタイトルの意味が分かって、じわりと嫌な気持ちになること請け合いだ。

「処刑」
大学の交流会で散財を重ねるバートは、ついに両親からカードの使用を止められてしまう。
己の来し方を反省せず、ひたすら両親を恨むバートは、実家に忍び込み、両親を斧で襲撃する。

本人は周到に計画したつもりだったが、犯行は杜撰だった。
父親は即死した。しかし、母親が意識を失う直前に、犯人は息子だと証言したため、バートは、あっという間に逮捕されてしまう。アリバイ証言を頼んでいた交流会のメンバーからも見捨てられ、バートは裁判にかけられることになった。

ところが、意識を取り戻した母親が突如証言を翻したため、事件は思わぬ顛末を迎えることとなる…。

バートは、自意識過剰と自己卑下の間を絶えず行き来する愚かな人物で、全く共感できない。ただ、彼のあまりに自己中心的な内面の描写は、こういう輩が殺人に奔るのだな、と興味深かった。
彼の両親もまた然り。こういう連中が、殺人犯を生み育ててしまうのだな、という見本のようなダメ親だ。
父親は、長年金の力で息子の不始末を隠蔽し続け、手に負えなくなると放り出そうとする無責任な人物。母親も盲目的に息子を溺愛するばかり。どちらも息子をまともに育てようとする気概がない。息子と両親は、実質的にはお互いを潰し合う加害者同士だ。事件に他人が巻き込まれなくて、本当に良かったと思う。
なお、服役を免れたのにタイトルが「処刑」なのは、読めば理解出来るはず。

「平床トレーラー」
アート系の財団に努める29歳のセシリアは、男性に触れられると恐怖と嫌悪を抑えられなくなる。そのため、これまで付き合ってきた男性からは、最終的には不躾な態度を取られた。そのことで少なからず傷ついてきた。

Nだけは違った。
40前半で離婚歴があるが、社会的に成功した魅力的な男性。彼だけが、セシリアの心を解きほぐしした。

セシリアは、Nに少しずつ秘密を打ち明けていく。
それは、セシリアが小学校に上がる前から6年も続いた秘密の行為だ。神経質な母親や怒りっぽい父親には到底聞かせられなかった。教師、友達、親友にさえ話せなかった。

親戚の多い、裕福な一族。
その中で権力を持つGは、セシリアの祖父だ。Gは息子であるセシリアの父を愛さず、セシリア以外の孫にも興味を持たなかった。

Gは言った。
〈これは私たちの秘密だ。どんなに楽しくても内緒にしなきゃダメだよ〉
疑われたことは一度もない。セシリアはずっと、自分は特別だと思い込まされて育った。それが秘訣だった。

セシリアは、自分だけがGに依怙贔屓されることが誇らしかった。
〈彼は姉たちをかわいがったりはしない。姉たちは年上だったし、かわいくなかった。彼のかわいいダーリンは私一人!〉
それでも、心のどこかで自分の人生は台無しにされたと感じている。

Nは言う。
〈奴は死んで当然だ。子どもを傷つけるような奴は誰でも〉
Nは断定した。ほかの子どもたちにも手をかけたに決まっているだろう。君の前、それから君のあとにも――。Nにセシリアを糾弾する意思はなく、共感を示しながら慎重に言葉を選んでいた。複数回にわたる制定法上の強姦罪。未成年者に対する性的暴行。僕たち二人でその連鎖を断ち切ろう。

二人は、Gを墓地に呼び出した…。

Nは、対等な関係では愛せないという点においてGと同病者だ。彼は、自分に依存してくれる精神的に未熟な女性の世話を焼くのが好きなのだ。もし、彼女が自立したら忽ち興味を失くすのだろう。
でも、Nとの間に、Gとの間以上の秘密を抱えたセシリアは、未来永劫立ち直れそうにないから、Nはずっと幸せだ。

セシリアもまた、GやNと同様の歪んだ愛の持ち主だ。
彼女は、頭蓋骨から血を流すGを見詰めながら、Gは確かに愛してくれたと言い募る。Nは彼女の言葉を無視して、Gを殴り続ける。執拗な暴行と罵声に、彼女は酩酊していく。それは、彼女が見た平床トレーラーの夢と同種の、暴力が性的興奮に直結するサディズムの世界だった。

性暴力の被害者側の心の歪みを主題とした作品は珍しい。
無論、オーツは、安易な刺激を提供する目的で本作を書いたのではないだろう。
僅か49ページの小さな物語の中で、狡猾な大人によって巧妙に一人の女性の人生が損なわれていく過程が綴られる。そして、彼女自身が被害者の自覚を持たないまま、新たな加害者に寄り添う状態で物語は終わる。出口のない悪夢に胸が塞がった。
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