なにやらいやらしい響きだが、いま、生活保護の略称、生保をナマポと言い換えて批判する輩が増えているらしい。
批判というより非難なのだが……
私は去年10月まで生保を受給していた。
だから、生保の良し悪しは体感している。
たしかに不正受給している人も中にはいるだろう。
だけれど大半を占めるのは、お金がなくて親族にも見捨てられた貧困で孤独な人達である。
一部の不正が全体のイメージを下落させた。
真面目に頑張ろうとして頑張れないでいる正当な受給者が、不憫でならない。
私の思う生保の悪いところは、受給者のやる気を削いでしまうところだ。
いつまでも生保だなんて揶揄されないように、受給者は頑張ろうとする。
だが、毎月決まって十分なお金が支給される。
これでは頑張る意義なんてない。
頑張って職に就いても、支給額が減るだけなのである。
頑張ったら減るなんて、おかしいでしょう。
だったらもう頑張らない! となるのが当たり前だ。
こうして、まだ働ける人材が失われる。
かといって、制度を見直すにしても、生保世帯には様々なケースが存在し、生保世帯全体を均一化する=平等という前提ではもう対応しきれないのが現状である。
どうすればよいか。
もちろん、各受給者には担当者が存在しているから、その担当者が頑張ればいい話ではある。
だが、担当者というのは主治医ではない。
受給者ごとにカルテを付けていたら机が埋まるだろう。
また、生保という括りはあっても実状はバラバラ。
そのすべてに平等に対応するにはマルチな知識が必要だし、もし仮に知識が揃っていたとしても、時間も体力も恐ろしく足りない。
ある意味では医者よりも大変と言える。
それでもやれと言われればやってくれるのかも知れない。
だがしかし、その犠牲として、何割かの担当者が過労死する羽目になるだろう。
また、生保の対象とするか否かの判断は、書類だけでは難しいことが多い。
もし正当に判断せよというなら、医師の意見書をもらうなど、なんらかの確証を提示する必要があるが、お金のない者が診察を受けられるはずもなく、結局は書類で審査するしかないのだ。
私が思うに、いまの予算では制度改善などできない。
こうした現状を体験・体感していない偉い人が、サビたメスを入れてしまわないかとひやひやする。
批判というより非難なのだが……
私は去年10月まで生保を受給していた。
だから、生保の良し悪しは体感している。
たしかに不正受給している人も中にはいるだろう。
だけれど大半を占めるのは、お金がなくて親族にも見捨てられた貧困で孤独な人達である。
一部の不正が全体のイメージを下落させた。
真面目に頑張ろうとして頑張れないでいる正当な受給者が、不憫でならない。
私の思う生保の悪いところは、受給者のやる気を削いでしまうところだ。
いつまでも生保だなんて揶揄されないように、受給者は頑張ろうとする。
だが、毎月決まって十分なお金が支給される。
これでは頑張る意義なんてない。
頑張って職に就いても、支給額が減るだけなのである。
頑張ったら減るなんて、おかしいでしょう。
だったらもう頑張らない! となるのが当たり前だ。
こうして、まだ働ける人材が失われる。
かといって、制度を見直すにしても、生保世帯には様々なケースが存在し、生保世帯全体を均一化する=平等という前提ではもう対応しきれないのが現状である。
どうすればよいか。
もちろん、各受給者には担当者が存在しているから、その担当者が頑張ればいい話ではある。
だが、担当者というのは主治医ではない。
受給者ごとにカルテを付けていたら机が埋まるだろう。
また、生保という括りはあっても実状はバラバラ。
そのすべてに平等に対応するにはマルチな知識が必要だし、もし仮に知識が揃っていたとしても、時間も体力も恐ろしく足りない。
ある意味では医者よりも大変と言える。
それでもやれと言われればやってくれるのかも知れない。
だがしかし、その犠牲として、何割かの担当者が過労死する羽目になるだろう。
また、生保の対象とするか否かの判断は、書類だけでは難しいことが多い。
もし正当に判断せよというなら、医師の意見書をもらうなど、なんらかの確証を提示する必要があるが、お金のない者が診察を受けられるはずもなく、結局は書類で審査するしかないのだ。
私が思うに、いまの予算では制度改善などできない。
こうした現状を体験・体感していない偉い人が、サビたメスを入れてしまわないかとひやひやする。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます