野良り暗り日記 ４月１３日。

　昨日の夜のことだ。
　ぼくは夕方の出来事で心を失っており、同室者の見せてくれた面白いムービーにも、何の反応も示さなかった。
「なんか沈んでるな……」
　彼はそう言ったが、実際はどうだかワカラナイ。沈んでいるというより、浮いているような、微妙な浮遊感を感じていたからだ。
　そのムービーはおそらく平常時のぼくが見ればリアクションに困っていたであろう、なんか変なやつだった。ウルトラマンが踊っていた。「なんだこの陽気な歌とダンスは」ていどのことは言えたかもしれないが、口を動かす気にもなれなかったので閉口しておいた。
　まぁとにかくそんなカンジに安静にしていたぼくは、なにを思ったのか指を口の中につっこんだ。
　そこでようやく、口を開いたのである。
　背後では同室の彼のパソコンがよくワカラナイ音を上げている。そしてパソコンの持ち主はときどき鼻歌を歌っていた。
　口の中の指は別にのどの奥に進んだわけではなかった。たしかにそうすれば自分の晴れない心を模様替えすることができていたかもしれない。しかしそのときのぼくは能動的な意思を持っていなかった。
　口の中の指はどこに進んだのだろうかというと、主に歯列の辺りだ。
　というか、もろに歯だ、歯。
　ぼくはあまり歯を磨かない。虫歯菌（これが口中に棲んでいると、虫歯になる）がないので、ハミガキしなくても虫歯にならないのだ。
　不精(ぶしょう)なぼくはただハミガキするのを怠けている。めんどうくさいからだ。それだけ。
　しかしよく考えてみると、これでもし彼女なんかいたらヒドイ。口臭で破局に至りそうである。でも彼女いないから平気。大丈夫。
　しかし、そうも言ってられない。
　近々、女友達ができてしまう予定だからだ。
　詳細は言わない。女遊びではないのでご心配なく。しかも家族ぐるみの清い付き合いである。
　話がそれた。戻そう。
　そう、口中の指の動きについて、だった。
　ハミガキをしないぼくの歯にはけっこう沢山の歯垢がついている。白い歯などひとつもなく、黄色というか半分、茶色だ。
　指というよりツメを使う。歯にこびりついた歯垢を取り除くのである。
　おもしろいようによく取れるので、怖い。「おもしろいように」ではなくて、「コワイくらいに」と言ったほうが正しいに違いない。
　さらに言うと、ぼくは１９歳のくせにまだ乳歯が残っている。
　もう、５年近く前から、
「早く歯医者に行って抜いてもらって下さい。死にますよ」
　と、歯科検診のたびに歯医者のおじさんに忠告されつづけている。
「放っておくと死にますよ」
　もう何度か言われた。
　乳歯は上アゴにあるので、そこから上にばい菌が体内に侵入していき、やがては脳に侵入して破壊してしまうのだと言う。
　その真偽はワカラナイが――てか確実に真だろうが――、ぼくは放置しつづけている。
　周りの歯たちがそいつに邪魔されてあらぬ方向に生えていたりする。
　そしてその乳歯はなんだか黒い。
　……というのが現状だと思っていた。
　しかしどうやら、もうちょっと酷いようである。
　ツメで歯垢を除去している最中、ゴリっという音がして、なにかの固形物が舌の上に落ちてきた。
　取り出してみる。
　正体不明の物体が、ぼくの手のひらの上にあった。
　再び口に指を入れて、もっと力を入れてみた。
　ポキっという音がして、さらに大きなカケラが手に入った。
　おぞましい感情が、痙攣となって体を蹂躙する。脳内もだ。
　ぼくは乳歯がついに溶けてもろくなったのだと思った。
　急いで洗面所に向かい、鏡で確認する。
　乳歯は無傷であった。
　しかし。
　その乳歯のさらに奥のほう。そこに、異変があった。
　歯が欠けている。
　と、最初は思った。
　しかしよく見ると、歯ではなかった。
　歯の周りを、正体不明の固形物が覆っており、その一部が欠けていたのだ。
　その奇怪極まりない自分の口中映像に、ぼくは震撼した。底冷えするような悪寒が背中を中心に全身を駆け巡る。
　まさに、蹂躙だった。
　これ以上書くとホラーになってしまうのでやめる。
　というか、書いていて痙攣が再発した。黒板をひっかいたときのような不快感である。おぞましい。
　結局、その謎の固形物はなんだったのか。
　いまだにハッキリしない。
　当ての推量でいくなら、きっと、歯石とかいうものなのだろう。歯垢が固まったものだと思われる。
　歯医者に見せれば、眉を顰(しか)めるというか顔全体を顰めるに違いない。
　そして翌日の今日。
　ぼくは口中を見られるのが怖くてろくにしゃべったりしなかった。ウソだ。
　しゃべらなかったのは、単に億劫(おっくう)だったから。それだけ。
　しかし……。
　早いとこ、歯医者に行かなければいけないな。
　健康保険証が届きしだい、早急に行こうと思う。
　早く届け。
　死んでしまうじゃないか。