goo blog サービス終了のお知らせ 

音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

私の野いちご

2024-01-21 21:07:00 | ロマン派
竜王のいちご、甘くて美味しかったです。
美しくてビッカビカ、贅沢なことです。

「いちご」は『本草和名』(918年頃)や『倭名類聚抄』(934年頃)に「以知古」として、出てきます。

『日本書紀』には「伊致寐姑(いちびこ)」、『新撰字鏡』には「一比古(いちびこ)」とあります。

『本草和名』では、蓬虆の和名を「以知古」、覆盆子の和名を「加宇布利以知古」としており、近代にオランダイチゴが舶来するまでは「いちご」は野いちご全般を指していました。

北半球のヨーロッパやアジアでは、古く紀元前から各地に自生していた野生イチゴの採集と利用が行われていたといわれています。

スイスの遺跡で出土した紀元前3830年から3760年頃の穀物のスープからはイチゴの痩果が発見されています。イチゴの栽培は古代ローマでは既に行われており、14世紀から16世紀にはいくつかの品種が栽培されていました。

近代栽培イチゴであるオランダイチゴは、18世紀にオランダの農園で、北米産のバージニアイチゴ (F.virginiana) とチリ産のチリイチゴ (F. chiloensis) の交雑によって作られました。

北米原産のバージニアイチゴは、探検家や植民者によって16世紀前半から18世紀半ばにかけてヨーロッパへ持ち込まれた種で、植物園を通じてヨーロッパ各地に普及しました。

ヴァージニアいちご
一方チリ原産のチリイチゴは、マプチェ族などの先住民によって長年栽培されてきた品種です。
チリイチゴは18世紀初頭から19世紀半ばにかけてヨーロッパへ持ち込まれた種で、こちらも植物園を通じてヨーロッパ各地に普及しました。



ジャン シベリウス(1865-1957年)フィンランド大公国ハメーリンナ生まれ、フィンランドウーシマー州ヤルヴェンパー没

1890年撮影のシベリウス(25歳)

が、「Rakastova」はカンテレタール(フィンランドの抒情詩)に1894年曲をつけたものです。

数年前にクレルヴォ交響曲を初演するも、評判は芳しく無く、1892年、音楽院や、指揮学校で教鞭を取りますが、これにより作曲の時間が取れずに苦しみます。
「クリスチャン4世」の劇付随音楽を書き、馴染みやすい曲想で人気がでます。妻のアイノと出会ったり、フィンランディアで爆発的人気を博すのはもう少し先。

それまでにヘルシンキ男性合唱コンクールのために書いた作品で「Rakastova」ラカストヴァ(愛する人)

この曲は1898年混声コーラスに本人によりアレンジされ、1911年、トライアングルとティンパニを含む弦楽合奏に編曲されました。

第1曲「恋する人」 Rakastava
第2曲「愛する人の通る道」 Rakastetun tie
第3曲「こんばんは-さようなら」 Hyvää iltaa ... Jää hyvästi

この一曲目「私の愛しい人はどこにいるの?」の歌詞に野いちごが出てきます。まだいちごではなく野いちごです。

英語では

The Lover ( I Where Is My Beloved)として知られています。


I Missä armahani?
どこにいるのか 私の愛しい人は
どこに住んでいるのか 恋人は
どこにあるのだ 喜びは
どの土地に生えているのだ 私の野イチゴは?
歌声は牧場には聞こえず
遊ぶ姿も林には見えない
森からは聞こえぬ 楽の音は
カッコーの声も丘からは
けれどもし 愛しい人が歩けば
私の野イチゴが
私の恋する人が
輝く人がそぞろ歩くのなら
私の角笛は響きを発し
山の斜面はこだまを返す
彼方の森も言葉を発し
あらゆる丘もカッコーの声に満ちる
森は戯れ
牧場にも永遠の喜びが

後にオーケストラ編曲も出ています。


鐘のロンド

2024-01-20 21:00:00 | ロマン派
19日、枚方警察に免許の更新に行きました。 
優良ドライバーだったのに、駐禁で一般ドライバーになりました。
後日講習にいかなくてはなりません…残念です。

自業自得です。気を付けましょう。

久しぶりの枚方市駅前。
カリヨンというオブジェが建っています。1997年市政50周年の時、平和のシンボルとして建てられたそうです。

あまり気にしてませんが、時報にいろいろな曲が鳴ります。テレビで取り上げられたこともあります。音が狂っていて何の曲かわからないとか。
どうなったのか?
残念ながら、聴かずに帰りました。




今はこちらのt-siteが人気。
TSUTAYAや、流行りのパティスリー、レストラン!Appleのリペア、いろいろ新しいものが集まっています。
寄らずに帰りましたが…時間があれば行ってみたかった。
煩悩と欲のかたまりです。

ニコロ パガニーニ(1782-1840年)
ジェノヴァ共和国ジェノヴァ生まれ、サルデーニャ王国ニース没

と言えば、ヴァイオリンの名手。あまりにもうますぎて、「悪魔に魂を売り渡した。」などと囁かれました。

5歳でヴァイオリンを初めて13歳で学ぶべきものが無くなったと言われています。
彼のテクニックはほとんど父親が教えましたが、少しでも練習をサボると暴力をふるわれたり、食事も与えないという過酷なものでした。

1820年に入ると慢性の咳など体調不良をがあり、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始めます。

1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始されました。

さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞(塩化第一水銀)を飲み続け、さらに下剤を飲み続けました。
その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退します。

1709年梅毒の水銀治療
そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。

「1840年5⽉27⽇ニコロ・パガニーニの魂は、この家を後にして永遠の調和の源へと繋がり、魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦は横たわるが、ニースの⼼地よい⾵の中でその⾄⾼の優しさは今もなお⽣きている。」と石板に書かれています。

一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれていますが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしています。記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかになっています。

アルブレヒト・デュラーの「梅毒の男」
Albrecht Dürer 1496
Etching of a Person with Syphilis

悪魔と取引したという噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置されました。

「ヴァイオリン協奏曲第2番」について、パガニーニは1826年12月12付の手紙に「クリスマスの後にサン・カルロ劇場で演奏会を行ない、ナポリではまだ弾いたことがないヴァイオリン協奏曲第1番と、鐘のオブリガートがつく第2番を演奏するつもりです」と書いています。

第3楽章が「鐘のロンド」でラ・カンパネッラと呼ばれています。

また、リストはこの曲の終楽章を後に、変奏曲形式によるピアノ曲に編曲し、後の「パガニーニによる大練習曲」と呼ばれるものを1838年に作り上げ(1851年に大改訂)、その第3番が有名な「ラ・カンパネッラ」で、広く親しまれています。




ツナと呼ばれる音楽

2024-01-19 08:56:00 | 音楽
ハープの発表会の後、金重さんと夕食を食べてかえりました。
阪急三番街の鰹たたきのお店「司」の鰹たたきセット。

お菓子たっぷりのお茶会の後だったので一番シンプルなセット。

これが1300円。
先日ハープの合わせの時に…安福さんと金重さんが前回行くつもりだったお店です。
「有名ホテルのシェフがそこをやめられて出したお店で、味はそのまま値段は安いのよ〜。」
めっちゃ美味しかったです。
野菜の煮物のお出し、鰹たたきも絶品。
これに豚生姜焼きや、天ぷらがついても、1500円…すごい!
若い男性客が1人で続々とやってきて、黙々と食べては帰っていました。

「すごいでしょう?」金重さん、にっこり。
いやぁすごいでした。

「鰹のたたき」は、漁師のまかない料理から発達した説。
鰹節を作るときに残る部分を皮付きのまま串に刺して焼いたとするカツオ節派生説。
土佐藩主・山内一豊が食中毒防止を理由として鰹の刺身を禁じたため表面のみを焼いて焼き魚と称して食べられたとする説。
さらに、魚の皮下に居る寄生虫などを殺すためとする説。
明治時代になってから高知に来県した西洋人が、鯨肉を生焼きにしてビフテキ代わりにした調理法を鰹に応用した説等、様々なあります。

一方「鰹のタタキ」という言葉自体は、古くは本能寺の変で脱出途中の徳川家康が匿われた際に振る舞われた食膳にまで記述が遡りますが、これは「鰹の塩辛」であり、現代で食される「鰹のタタキ」ではないそうです。

この高知県外で「鰹のタタキ」と呼ばれた「鰹の塩辛」は、高知県では「酒盗」と呼ばれています。

鰹は2018年には320万トンの水揚げが報告されており、海洋捕獲漁業の中で3番目に多いです。
モルディブ、フランス、スペイン、マレーシア、スリランカ、インドネシアが漁獲量が多い国だそうです。
生食、缶詰め、乾燥、燻製、冷凍などいろいろな形で消費されています。

カツオはskipjack tuna マグロtunaの一種です。
tuna musicで調べていたら、興味深いグループを見つけました。

ツナ(tuna)という名前は、
フランス語のroi de Thunes、放浪者の指導者が使用する称号[チュニスの王](主にチュニジアから来た放浪の民に対する蔑称)に由来している可能性があります。

中世、ツナはソピスタといい、コインと一杯のスープ(ポルトガル語とスペイン語でソパ=ソピスタ)と引き換えに音楽の才能を使って人々を楽しませていました。彼らはまた、求愛したい女性の窓の下で音楽を演奏しました。

ツナは、その起源から現在に至るまで、バンドゥリア


リュート、ギター、タンバリンなどの人気のある楽器を続けて演奏してきました。

これらの楽器は、フアン  ルイㇲのスペイン語の本『よき愛の書』に名前が記載されています。 (1283年 - 1350年頃)。

彼らはギターとバンドゥリアを持って当時の流行歌を歌いました。
ツナ=ソピスタは音楽の才能や、口説いていた女性に求愛することを示しました。
ソピスタたちは、その音楽とフレンドリーな性格とずる賢さで、食堂、修道院、通りや広場で数コインで安い食事を探し回る貧しい学生たちでした。

ツナの服装は、16 世紀から 17 世紀のイベリア人学生の服装に由来しています。
それはスペイン語でグリロ(「クリケット」を意味する)またはポルトガル語でトラヘ(伝統的な意味で「衣服」を意味する)と呼ばれ、マント、ダブレット、ベカ(Beca)、シャツ、ストッキング、だぶだぶのズボンまたはグレッグエスコス、および靴またはブーツで構成されます。。

beca は、着用者の出身大学を識別する色のバンドがついています。ダブレットの上から胸と肩に着用します

基本的な楽器は 2 つあります。
1 つはギターです。メロディーは声と歌によって生み出されます。
ラウド


やバンドゥリアなどの楽器も使用されます。(ポルトガルのツナは通常、バンドゥリアやラウドの代わりにマンドリンなどの楽器を演奏します)。学生音楽を特徴付けるもう一つの重要な楽器はタンバリンでした。

これらの基本的な楽器に加えて、他の楽器を使用することにより、ツナの音楽に非常に特別な豊かさが与えられます。これらの要素は、ツナが演奏するさまざまな文化や人々のおかげで融合されました。
他にも、ティンプル(タンバリン)
カナリオ(スペインギター)

とチャランゴ(南アメリカのギター)

があります。さらに最近では、プエルトリコの クアトロ、アコーディオン、コントラバスを使用して、響きの多様性を高めています。

1870-1970年のツナの歴史をその音楽とともに描いた動画見つけました。


フルート練習の夜

2024-01-18 21:00:00 | ロマン派
16日は本町近くのスマイルズミュージックサロンで大阪エスカルのメンバーのうち6人で自主練習をしました。

ファーストとバスフルートは無かったてすが…。
なんて真面目で熱心なのでしょう!

メンバーだけで自主練習するのは初めてです。
スマイルズさんは、安くてたくさん部屋があるので助かります。
今回はこの部屋。

2号館2階10畳アップライトピアノ付き、譜面台も6本ありました。
18:00〜20:30 で3750円。6人で割って1人 625円
大阪市内でこれは安い!
助かります。

最寄りは四つ橋線の本町ですが、私は御堂筋線で行くので出口から徒歩600m。少し歩きます。

スマイルズ ミュージック サロン
https://www.smilesmusic.net/index.html

フリードリヒ クーラウ(1786-1832年)神聖ローマ帝国ユルツェン生まれ、デンマーク コペンハーゲン没

7歳の時に、転倒し、手にしていた瓶の破片で右目を失明しました。
1810年コペンハーゲンに移住し、そこで生涯を過ごします。
「ピアノのためのソナチネ」て有名です。
フルートの作品も多く、作風がベートーヴェンに似ていたため「フルートのベートーヴェン」と呼ばれています。

彼はデンマーク黄金時代の中心人物で、デンマーク国民的ロマン主義の最初の作品で、絶対王政への賛辞が込められた「エルフの丘」の音楽を通じてデンマーク文化史に不滅の名を残しています。今日に至るまで、このメロディーの彼のバージョンが決定的な編曲となっています。

クーラウは主にコンサートピアニストおよびデンマークオペラの作曲家として知られていましたが、彼はベートーヴェンの作品の多くをコペンハーゲンの聴衆に紹介しましたました。

多作な作曲家であり、自宅が全焼して未発表の原稿がすべて焼失したにもかかわらず、ほとんどのジャンルで 200 以上の出版作品を残しています。

フルートの『四重奏曲 Op.103 』 は世界で最も演奏される機会の多い四重奏曲です。

クーラウ自身がドイツのライプツィヒを訪問した際に、当時のフルートの名人J.ガブリエルスキーに献呈され、彼と仲間によって初演 (1829) されました。

第1楽章は典型的なソナタ形式です。付点音符を伴う荘重な長い序奏 Andante maestoso、ロマンティックで情熱溢れる第1主題 Allegro assai con molto fuoco、清楚で明るい旋律の第2主題 が魅力です。

第2楽章 Allegro assai は躍動感溢れるスケルツォ で3部形式トリオ付きです。

第3楽章 Adagio molto con espressione は後半に変奏を伴う優美な旋律の3部形式 です。

第4楽章 Allegro assai は軽快で流動感に溢れるロンド形式です。

この初演の数年後 (1831) に火災に遭い、その後相次ぎ両親を亡くし、本人も病を患って僅か46歳の若さで世を去りました。





蛙化現象

2024-01-17 21:50:00 | ルネッサンス
ハープの発表会でゲストの小学生の子どもさんのカエルのリュック。
かわいいでしょ。

口を開けたら、真っ赤!
走ったら手足がぶらぶら動いて、ますますかわいいです。

蛙化現象という言葉が最近流行っているそうです。

好きな相手が自分に好意があるとわかってしまうと、それがきっかけで急に嫌悪感を抱いてしまうことを言うそうです。

昔からある、相手の何かの言動で付き合ってみたら「100年の恋も覚める」とかと言うものではないらしく、男女を問わず「好意を持たれたら」「湧き上がってくる嫌悪感」ということが「蛙化現象」らしいです。

王子様が魔法で蛙にされていて、女性との試練の後に魔法が解けて、元の王子に戻り、王子と結婚して末永く幸せに暮らしました。という物語の逆だそうです。

ジョン ダウランド(1563-1626年)イングランド生没

は、「蛙のガイアルド」という曲を作っています。

1579年にフランスのアンジュー公フランソワ
 
フランソワのミニアチュール(1577年)
ニコラス・ヒリアード作
は求婚のためイギリスに渡り、エリザベス一世

エリザベス1世 ペリカンの肖像画(1572)
と面会しています。

その時 エリザベスは彼が噂されているほどには「醜くはない」ので、「蛙 (frog)」の愛称をつけました。

エリザベスはこの求婚を真剣に考え、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイヤリングを大切にしていました。

しかし、プロテスタントの女王に対して、カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局この縁談は成立しませんでした。

1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しんで喪に服し、贈られた蛙のイヤリングを、身につけたと言われています。

エリザベス1世・虹の肖像(1600)
イヤリングをつけていますが、蛙のイヤリングかどうか?わかりません。

蛙化現象というより。政略結婚の失敗ですが…。女王は国と結婚していたと言われています。

この悲恋をダウランドが「蛙のガイアルド」として作曲しました。
この曲はその歌詞から「今こそ別れ(Now o now I needs must part)」とも言われています。

「蛙のガイアルド」(長いので触りだけ)
今、ああ、私は別れなければなりません、
私は悲しみに暮れていますが、別れる必要があります。
不在は喜びをもたらすことはできません。
一度逃げた喜びは戻ることはできません…。略

ジョン ダウランド
「蛙のガイアルド」Frog Gaillard





対決!クロマティックとダブルアクション!

2024-01-16 20:50:00 | 近代
14日は塚口、t-raumで野田千晶先生のハープ教室の発表会でした。

ハープ久米でヴァイオリンの富宅(ふけ)光さんとゴセックのカボットを演奏しました。

ハープ歴4年目…そろそろ初心者の言い訳できなくなって来ました…がぼちぼちです。
リハーサルよりもゆっくりになってしまいましたが、富宅さんがアレンジしながら合わせてくださってなんとか最後まで止まらずに演奏てきました。
ふうっ!
富宅さん、すばらしいヴァイオリニストです。

それからフルート久米で西原こうりゅうさんとパラディスの「シシリエンヌ」リハーサルまで合わなかったのに本番で西原さん、バッチリ決めてくれました。
こうりゅうさん実家がお寺ということで、なんと!僧侶の正装で演奏してくれました。なので、私も正装。
最後は、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」からプレリュード。

フルート久米、ヴィオラ金重美代さん、ハープ鈴木健司さん。
鈴木さんは野田教室を卒業されて、プロとして活動されています。
すばらしいハーピストです。
ダマーズ編曲の難しいハープをダイナミックに演奏してくれました。
「ちょっとやりすぎたかな?」ですって、大丈夫!おもしろかったです。

野田教室発表会のすばらしいところはプロのゲスト演奏があることです。

モーツァルトのハープとフルートのための協奏曲の第1楽章、ドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」を、それぞれグループで管弦楽をピアノで演奏してくださいました。

終演後は、お菓子を食べながらお茶。
楽しい一日でした。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

1894年テレーズ ロジェと婚約しますが、恋人だったガブリエル デュポンに知られ、破断。ガブリエルは自殺未遂をします。
1899年リリー テクシエと結婚。
仕事では「牧神の午後への前奏曲」が認められ、オペラ「ペレアスとメリザンド」を書き大成功します。
1903年にはレジオン・ド・ヌール勲章を得ます。

1904年「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」は作曲されました。

しかしその頃から、リリー テクシエと結婚しながらエンマ バルダックと同棲。
リリーはコンコルド広場で拳銃で胸をうち自殺未遂。
1905年にはリリーと離婚が成立し、エンマと結婚することになるのです。

「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」はハープ独奏と管弦楽のために作曲されました。

プレイエル社がクロマティックハープを開発し、その普及のためにドビュッシーに作曲を依頼しました。


このハープはそれまで全音階に調律されて、半音階にするにはペダル操作が必要だったものを、
弦の数を増やしたものです。

この楽器の普及のためにプレイエル社はハープコンクールを開催し、そのための課題曲として作曲されました。

しかし同時期にエラール社がダブルアクションのペダルハープを発明し、こちらは普及のためにモーリス ラヴェル(1875−1937年)フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没


に曲を依頼。
ラヴェルは「序奏とアレグロ」を作曲しました。
現代ではクロマティックハープは廃れ、ダブルアクション ペダルハープが隆盛になっています。

「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」
神聖な舞曲(Danse sacrée )
トレ・モデレ(Très modéré) ニ短調 2分の3拍子

世俗的な舞曲(Danse profane )
モデレ(Modéré) ニ長調 4分の3拍子


海の組曲

2024-01-15 21:08:00 | ロマン派
13日夜は八戸ノ里の東大阪文化芸術創造館で大阪樟蔭女子大学マンドリンソサエティの第定期演奏会でした。
西宮今津から、阪神で八戸ノ里へ。

懐かしいマンドリンクラブの音色。
後輩が少なくなっているのが気がかりですが、葛原さんや他のOGのみなさんが手助けしてなんとかクラブを存続しています。

フルートは大編成でないと入れないので私は何年も観客として応援しています。
ちょっと残念。

アメデオ アマディ(1866-1935年)イタリア ロレート生まれ、イタリア トリノ没

父のRobert Amadei(この人もまた優れた作曲家で、マンドリンアンサンブル曲も作曲している)に音楽を学んだが、1888年ボローニャのAcademia Filarmonicaで作曲を収め、翌年にはピアノの課程も修了、更にオルガンや合唱指揮も収めました。

1889年にはイタリア陸軍に従軍、軍学隊長等を歴任して退任しました。


その後はトリノに定住し、指揮者や教授として尽力しました。

作品は多岐に渡り、その数も500 を数える。彼の作曲の本領は管弦楽にあり、そのうちの幾つかはマンドリン合奏にも編曲されています。

1897年ごろからマンドリン合奏曲の作曲を始め、100曲近いマンドリンの合奏曲や編曲を残すなど、マンドリン音楽界に多大なる影響を与え、彼の作品は今日に至るまで多数演奏され続けています。

「海の組曲」
Suite Marinaresca, op.290
1908年にイル・プレットロ誌が主催した第2回作曲コンクールにおいて第1位を受賞しました。 
4楽章からなる組曲で、各楽章にはギリシャ神話に登場する神や妖精などのサブタイトルがついています。

第1楽章「ナイアーデのセレナーデ」
ナイアーデは美しい女性の姿をした水の精霊です。

第2楽章「オンディーヌの踊り」
オンディーヌも多くは美しい女性の姿をした精霊で、人間の男と結婚することで魂を得るとされています。

第3楽章「シレーネの歌」
シレーネは半人半魚の怪物であり、美しい歌声で船人を惑わし襲います。一般にはセイレーンといわれています。

第4楽章「トリトーネのフーガ」
トリトーネは法螺貝を吹き、波を立てたり鎮めたりします。一般にはトリトンといわれ、海神ポセイドンの息子とされています。




忘却

2024-01-14 21:22:00 | 近代
13日は今津公民館で今年初西宮ギター練習会でした。

みんな元気でよかった。

私は川原久美子さんとカルリの2つのデュオから第2番。
ピアソラのオブリビオン、プホールのブエノスアイレス組曲から第2楽章を演奏しました。

正月ぼけでしたが、気持ちを込めて吹きました。

能登半島出身の人がいて震災の話になりました。
西宮も阪神淡路大震災で被災したのでみんな心を寄せていました。
何ができるか?を探してやるつもり。

Oblivionとは英語で「忘却」「無意識」「人事不省」「大赦」を意味します。
また、14世紀後半に「忘れること」「忘却」「記憶の喪失」という意味で使われていた言葉で、古フランス語の「oblivion」やラテン語の「oblivionem」に由来しています。

1984年のマルコ・ベロッキオ監督の映画『エンリコ四世』の挿入曲として作曲されました。

エンリコ四世DVD
バンドネオン、オーボエ、トロンボーンなどいくつかのバージョンがあります。また同じ映画で使用されている「アベマリア(Tanti Anni Prima)」も近年よく演奏されています。

映画『エンリコ四世』は落馬事故で頭を打ったショックで記憶を失い、自分が皇帝エンリコ四世

イングランド国王ヘンリー四世(1366-1413年)従兄のリチャード2世に追放されるも逆転して王位につきました。在位中は諸侯に反乱を起こされ、闘いの連続でした。

だと思い込んで古城で暮らす男を主人公にした一風変わったストーリー。もともとは戯曲だったものを映画化した作品です。マルチェロ・マストロヤンニ主演、音楽をピアソラが担当という豪華な作品です。

「オブリビオン=忘却」というタイトルが物語るように、甘美なメロディながらどこかはかないこの曲は、狂気と正気の交錯するようなこの映画の雰囲気にも合っています。「はたして彼は本当に記憶を失っているのか?」
(「エンリコ四世」レビューより)

恥ずかしながら、映画は観たことありません。

人生は「忘却」の連続。
人は最後の時にはすべて置いていかなければならない、すべて忘れる…だからこそ頬と頬を寄せた記憶、どこかで聞いた音楽の記憶、腕の重み、誰かに触れられた指の記憶が残って切なく迫ってくる…。

忘却
重い 突然重く感じる
あなたのベッドのシーツとカバーが
私たちの愛が忘却へと向かう時には
重い 突然重く感じる
一晩中私の身体にまきつけられたあなたの腕が
私はどこかへ船出してしまった 
人は別れる 私は忘れる 忘れる
その後 どこかのマホガニーのバーで
またバイオリンが流れる
それは思い出の曲 だけど忘れた
その後 それは頬と頬を別れさせ
すべてはぼやけてゆく
そして私は忘れる 忘れる
短い 時間が短く感じる
夜のカウントダウン
私たちの愛が忘却へと向かう時には
短い 時間が短く感じる
あなたの指が私の生命の上を過ぎてゆく
見もしないで 人々は迷う
駅のプラットホームで 
私は忘れる 忘れる

ピアソラ自身のバンドネオンで「オブリビオン」


スネフリード

2024-01-13 22:52:00 | ロマン派
母が育てた石蕗(つわぶき)

日のあたる鍋の氷や石蕗の花
        正岡子規

寒いときの季語ですね。
今年はこのあたりではまだ零下にはなっていないので氷は見ていません。 
日曜日は−1℃になるそうなのでいよいよ凍るかも!

どうかみなさん、
温かくしてお過ごしくださいね。

寒くなるとジャン シベリウス(1865-1957年)フィンランド大公国ハメ州ハメーリンナ生まれ、フィンランド ウーシマー州ヤルヴェンパー没

1900年シベリウス
が聴きたくなります。

1892年にアイノ ヤルネフェルト
アイノ・シベリウス(当時はヤルネフェルト)、1891年
と結婚。後に6人の子どもをもうけます。

1899年フィンランディアを作曲し、一躍人気になります。

その1900年『スネフリード』(Snöfrid) 作品29を作曲します。


Hufvudstadsbladetによる『スネーフリッド』初演の新聞広告 (スウェーデン語)
メロドラマで、「語り手、混声合唱と管弦楽のための即興曲」です。

ヴィクトル・リュードベリ(1828-1895年)スウェーデン及びノルウェー連合王国ヨンショービング生まれ、ストックホルム没

のテクストを下敷きに1900年に作曲。

初演は1900年10月20日、ロベルト・カヤヌスの指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で行われました。

筋書きは古いスカンディナヴィアのバラードに着想を得たものです。 

主人公の女が同郷人たち、特に英雄役の男性に対し、富、名誉、喜びよりも高い目標である自由のために戦おうと呼びかけます。

シベリウスはリュードベリの複数の作品に触発され、独唱曲や『森の精』などを作曲しています。

彼はリュードベリが愛と政治的思想の両方を表現した自由詩を気に入っていました。

シベリウスは詩文の中からヒロイン スネフリードが「もし貴方が私を選ぶのなら、貴方は嵐を選ぶことになる」と述べる個所など、劇的な場面を選択しています。

すすり泣く弦楽器、唸る管楽器、雷鳴のような打楽器を伴った管弦楽による前奏曲は夜の嵐を描写しています。

初演は1900年10月20日、ヘルシンキにおいてロベルト・カヤヌスの指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニック協会管弦楽団の演奏で行われました。

楽団がパリへ演奏旅行へ出るための資金集めのための宝くじのイベントでした。






 

コントラバスとバスとバス

2024-01-12 21:00:00 | 古典
京都今出川大宮の冨久田先生のレッスンも始まりました。
骨折のせいで12月のレッスンが飛んでしまい。お久しぶりです。

ブリジアルディの歌劇「ローエングリン」のファンタジーを見てもらいました。

「お怪我に気をつけてくださいね。」と最後に言われました。
「はい。」お恥ずかしいです。
今出川通りを通るバスは同志社の前を通って京阪出町柳駅にでます。
同志社大学の中を見学できることをクリンさんのブログで始めて知りました。
その昔、友だちに誘われて寮に泊まったことがありますが、中まではよく見なかった。素敵なようなので見てみたいですが、あいにく雨が降ってきたので、慌てて帰りました。
傘もってなかったし。
今度ゆっくり来よう。とバスに揺られながら思いました。

「このうるわしい御手と瞳のために」K.612は、
ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大公国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

がエマヌエール シカネーダー(1751-1812年)神聖ローマ帝国バイエルン州シュトラウビング生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


の劇場のバス歌手フランツ ゲルル(1764–1827年 魔笛のザラストロ初演)と、コントラバス奏者フリードリヒ ピシュルベルガー(シカネーダーのフライハウス劇場のバス奏者)のために書かれました。

モーツァルトの作曲目録に

「バスアリア、コントラバスのオブリガート付き、ゲール氏及びピシュルベルガー氏のために」のために書いた曲とあります。

シカネーダーは、1789年からヴィーデン郊外のフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場 Freihaustheater auf der Wieden ともいう)

オペランガッセのフライハウス劇場跡地近くのパパゲーノ裁判所にあるパパゲーノのレリーフ像(1937 年)
 の興行主となり、新しい時代のさきがけとして、ドイツ語による台本をもとに大衆的な音楽劇を盛んに上演していました。

モーツァルトと組んで「魔笛」を成功させたことが音楽史に残るできごとでした。

モーツァルトの 魔笛で鳥捕りのパパゲーノを演じた劇場監督シカネーダー

その頃、周辺にたくさんの小品も彼の劇場ために書いています。
そのような曲の1つです。

コントラバスは伴奏として使われることが普通でしたが、この曲ではそういう扱いではなく、ソロとして演奏し、歌手とも渡り合っています。
そして超難曲。

こういう編成はめったに無く、
モーツァルトがコントラバス奏者の名手ピシュルベルガーが演奏する手や指が美しく見えたので彼のために「このうるわしい御手と瞳のために」を書いた説があります。確定はしていませんが、さて、どうでしょうか?