スイセンにもいろいろあるのですが、なぜか、資料が見つけられません。他の人も、少ないと書いていました。これはラッパスイセン、比較的良く目にしますね。
子どもがけんかして、相手に暴力を奮うとき、必ずそこに傷つきがあります。
「ブタって言った。」
「砂かけてきた。」
「ごめんって言ったのに、赦してくれへんかった。」
すごい形相で、相手を蹴ったりするので、加害者にしかみえませんが、どんな暴力のうらにも傷があります。
2年生になると、もっと複雑。
尊敬している4年生が、女子に言い負かされそうになっている。後ろに回って、その女子を思い切り、蹴っ飛ばす。
力ある4年生に、仲間はずれにされたり、力でねじ伏せられた傷が、彼をこういう行為に駆り立てます。
仲間からのプレッシャーも、もう大人と変りません。
理屈のない分、大人より激しく、歯止めも利きません。
本当の仲間感を育てなければ、大人の目が届かない所で、ひどいことが起こります。傷を暴力を正当化する口実にさせてはいけません。しかし、傷はすぐに、手当てしなければいけません。
裁判官や、批評家になったりせずに、ただ聴くこと。気持ちを言葉にする手伝いをすること。しかし、聴きっぱなしでいいのは、1年生だけ。
2年生以上になると、思いを受け止めた後、そのことが引き起こす結果について、一緒に考え、自分と仲間の関係が、どうすればうまく行くのかに、焦点を当てて話し合えるように、ファシリテートしていくことが大事です。
ひとりひとりの子どもの気持ちを見ることと同時に、集団としての子どもの心を育てることが、こどもが安心していれる環境を作り上げるために必要なのです。
百合はとても、愛されていて種類もたくさんあります。これはシンプロンと言うそうです。
今日のレッスンは、25日のテレマン、クーラウ、ドップラー。
テレマンのフルートトラヴェルソとヴァイオリンのためのソナタDdur。
私の課題のタンギング。
今日から毎日、スケールを、スラーで、次に、音を切って、3回目は、もっと鋭く、そして最後はアクセントのようなタンギングで、練習しよう。はい、そうします。
舌がどのような位置に来るかを確認しながら、音によっても違うから、注意して。
最近ずっと悩んでます。
なかなか壁が越えられない。
なおも、
もっとこの時代のスタイルを研究して、装飾のつけ方。スラーや、タンギングをどこにつけるか?
テンポは、始めの楽章の4分音符1拍の、長さが2楽章の3連符3つ分、三楽章では8分音符一つ、4楽章では、また4分音符一つと、言うのが、この時代のセオリー。そういうことを、いろんな人の演奏を聴いて、学ぶんだよ。CDでも構わないから、二人以上は聴こうよ。
そして、もっと楽しんで。
これでいいだろうか?思いながらとか、マイナスの言葉をつぶやくのはもうやめようよ。
誰がなんと言おうと自分はこれ。で構わないんだよ。
実力はあるんだよ。
そうでしょ。誰だって、やってきた分だけ、積み重ねた実力はあるんだよ。
理想を持ってそれに近づこうと、するのはいいことだけれど、その理想と比べてだめなところ探ししてはいけない。
出来ていない所を見つけたら、「よかった!これで、どうやって理想に近づいたらいいかわかる!」とそれだけでいいんだよ。
先生と話すと元気が出てきました。がんばろう!
花ニラは、葉がニラに似ていて、匂いもすることから、花ニラというそうです。英名はspring star flower。今の時期、満開です。
今日は2回目の合わせ。厳しいスケジュールの中、時間を合わせるのは大変。
茨木からKさんに来てもらい、午前中、ピアノのTさん。午後は、Kさんと、22日当日のホールを借りてリハーサル。
時間が無いので、移動中車の中でコンビニで買ってきたおにぎりやパンを食べました。
いよいよ、近づいてきたと言う感じです。
音楽をしていると、一人一人の人が持つ影響力を強く意識させられます。
同じ曲でも、デュオになると、一人で吹いている時とは、全く違う色が現れます。そこにピアニストが加わると、またまた、違う色が混じって、全体の色が変ります。
管楽器は、他の楽器と合わせて一つの曲を演奏することの方が多いです。それは、本当にありがたいことだと思います。
一人の力では、成し得ないことがある。ということを常に意識させられます。
それは、自分が一人では不完全であるということでもあります。
人は一人一人存在としては、完璧ですが、言動や、行為、表現において完璧な人は一人も居ません。
不完全な私達が、紙の上に書かれた楽譜を読み取り、求めるのは?
音楽の再現?演奏家の意志の代弁?完璧な演奏?
どれもある程度までは、追求すべきです。が、一番は、人が力を合わせた時の、おもしろさ。わくわく、ドキドキする楽しさ。
音楽は、CDに入れて飾っておく展示物のような類のものではなく、もっと、生々しい、生き生きした人間臭いもの。
人の細胞一個の動きで、息遣い一つで、変化していく音の変化を楽しむ。
そういう意味において、テクニックは自由に変化するために必要なことであって、絶対条件では無い。ともいえます。
今もっているテクニックを少しでも上げる努力を、することも大事ですが、今もっているそれぞれの持ち味の中で、力をあわせることで、わくわくする、生々しい演奏を目指したいと思います。
グロリオーサってはじめて見たときはビックリしました。花なのか、葉なのか?
実は、ユリ科の植物。花びらが反り返っています。この色は、やっぱり熱帯原産。
今日、児童会に行くと、シフトがみんなビッシリ入っていてびっくり。
毎日行ってます。ギリギリの人数でまわさないといけなくなっているのです。
そんな中、私だけ昨年度と同じペースで、いけない日に×をつけているので、とっても肩身が狭いです。
週2回とか、3回しかいらない。と3月31日まで言われてたのに、4月1日から毎日来て下さい。と言われて、「いけるもんか!」って言うのは、私だけだったみたい。
あまりに、同僚に悪いので、土曜日出勤の日に私が変りに出ます。と申し出てしまいました。
4月はお弁当が無いので、時間は長いし、明らかにみんな疲れてきていて。さすがの私も、できません。とは言い放てません。
この中で、自分のペースを守って、練習時間を確保するのは、本当に難しいです。
22日、25日コンサートまで後2週間弱。もう、後が無い感じです。
数年前には珍しかったムスカリは、今ではすっかり一般的になりました。いろんな品種が入ってきています。これは、バレリーフィニスというそうです。
今度こそ暖かくなった今日は、始業式。
先日、家の人が帰った後泣いていた1年生。児童会を辞める様子も無く、元気で、うれしそうにピカピカの名札を見せてくれました。
雨の中、ここでも、約90人の子どもが、二部屋で一日過ごし、とにも、かくにも新学期のスタートです。
コンサートの案内を友達に送っていると、昨年カルテットを一緒にした人が、自宅に被災地の友人を家族で招いて住んでいて、毎晩宴会騒ぎだと知らせてくれました。
もし、時間があれば、その友達ごと、ご招待させて下さい。とメールを送ると、
今は仕事で東京を往復しているので、フルートを吹くことも出来ない、約束もできないけれど、時間が出来れば必ず行く。フルートも絶対に続ける。音楽の神様に乾杯!と返事が来ました。
彼も音楽の神様を信じ、それに支えられているのです。
宗教を信じる人もいるだろう、科学を信じる人もいるだろう、家族を信じる人もいるだろう。
何が人を支えるかは、人によって違う。違うけれど、共通しているのは、その中に人のつながりによって、積み上げられてきた問いかけを見る。これからも続くだろう、壮大な問い。
全ての学問や芸術、宗教は、「人の幸福とは何か?」という問いへのチャレンジ。
その答えが、人を支えるのではなく、問いかけ自体が、人を支え、人生を意味あるものにする。また、問い続ける限り、失敗は無い。なぜならそれは、プロセスの一部にすぎないから。
音楽の神様に乾杯!
最近、小学校の庭や、道路の植え込みで良く見かけるこの花は、フロックスです。花魁草、芝桜もこの仲間だそうです。いろいろな種類があります。これは、淡雪とストロニフェラと言う種類かな?たぶん。
今日は牧野在住のピアニストKさんとTさん二人と、22日と、25日の初伴奏合わせ。
フルートのKさんに茨木から来てもらい、2軒の家を往復しました。
10時にKさん宅に行って、1時半ころまで、合わせ、3時まで打合せ兼ランチ、その後、Tさん宅で、7時まで。
同じ曲も何曲かありますが、人が変ると、また曲も変わって聞こえます。
22日は親子サロン向けなので、小品が中心ですが、ドラマティコソプラノでもあるTさんは、深い呼吸で、メロディを歌う様に、生かします。
25日のTさんは、指のバランスが良く、どんな難しい曲も軽やか。
長い一日でしたが、みんなと演奏できてとっても幸せ。
楽しかった。
世間は桜や、木蓮が満開の中、私の庭では地味に馬酔木の花が満開です。
かわいいから、私は好きだけど。
今日午前中はボーンズ フォー ライフ。
「フルートを吹いていると、右肩や、右の股関節が詰まったような感じがしてくる。」
ことを報告しました。
すると、右の股関節が悪いのではなく、左がちゃんと仕事をしていない。
体が分業体制になっていることが問題だということです。
大方の右利きの人が、右側の足が固く、立ったり歩いたりすることの、推進力の役割をより多く果たし、左側が足は、柔らかく、しなりの役割を担っています。
本来は、両方の足が、二つの方向の能力を同じように持っているはずなのですが、人間は得手な方を使ってしまうのです。
得手な方が、あるということは悪いことではないけれど、分業があまりに進むと、バランスが悪くなってしまいます。
両方の足が、持っている能力を存分に発揮すると、楽に動けるはずなのです。
と言われます。
そして、椅子に座って手のひらに坐骨を当てながら、左膝の下にタオルを入れその両端を引っ張ることで、足を皮膚一枚分くらい上に上げます。
ゆっくりと本当に些細な動きですが、何度かやっていると、首、脊椎、仙骨、坐骨が
連携して動いているのが、わかります。筋肉が動くと、この骨の動きは捉えられないそうです。
膝を動かすけれど、膝ではなく、全身の骨が連携して動いていることを脳が意識することが目的なのです。脳は、問いがあるときにより機能します。だから、小さな動きであっても、同じ動きをくりかえさず、微妙に変化させ、よりやり安い位置を探しながらすること。
良い位置を見つけたと、結論を出さないこと、結論を出すと、脳は働かなくなってしまいます。見つけたと思ったら、堕落が始まります。
このワークの目的は、「楽に動けるようなる」こと。「楽になる」こととは違います。
自分の体のゆがみや、癖を直そうとしたり、しない。ただ、ただ、「おもしろい」と見ればいいのです。
左足がしっかりと意識されると、右半身の凝りが解消。花粉症の鼻も通りました。
「自分が演奏した1stに2ndを合わせようとしたら、大変。テンポやリズムが取りにくいんです。」
そう、相手が自分と違うから、得手なこと、苦手なことが違うから、共同作業した時に、うまく行く。得手なことを教える時に、貢献感で教えればいいのに、優越感だったり、苦手なことをやってもらう時に、感謝すればいいのに、劣等感になるから、段々行き詰る。
自分の録音だって、自分のできない所を叩いて、消そうとするから、どんどん、苦手なことは大きくなってくる。
いい所をちゃんと見ていれば、苦手な所がいとおしくなってくるはず。いとおしくなれば、ちゃんと見れるはず、すると、苦手な所は意識に上がって、意識的になれば、自己管理できるようになってくるはずです。
苦手な人(所)と、得手な人(所)との付き合い方は、自分と自分の付き合い方と同じなんですよ。
・・・なんだ、やっぱり、自分なんだ。
今日も、やっぱりおもしろい。
蘭の種類も数が多く、これは、デンドロビューム スノーベビー グリーンポコスと言います。蘭の中では育てやすいそうです。
昨日は、暗い夢の話を書いてしまいました・・・反省。
まだ入学式を終えていない新一年生も児童会にやってきます。
今朝は、そんな一年生のAくんが、送ってきた家の人が帰ってしまったら、急に、悲しくなってしまいました。
廊下で泣き崩れるので、手を引いて部屋に入れると、私の膝でオイオイ泣いて、「絵本読む?」「絵を描いてみない?」とまだ勉強の無い一年生の勉強の時間にすること、いろいろ水を向けてみましたが、全然だめ。
「先生はお仕事があるから、ちょっと向こうに行くね。」と、行ったら、手をつかんで離さないので、ずっとくっつけたまま、あっちの子の勉強を見たり、こっちの子を見たり。
「先生、どうしたん?この子。」
「家の人が帰ったら、不安になって泣き出したの。」泣いたままのAくんに変わって説明すると、やんちゃな3年の男の子が「ああ、そうか。ぼくもあったわ。」。
「へー。よかったねぇ。今泣いてても、こんな3年生になれるんだよ。」
「そうや、大丈夫やで。ぼくみたいになれるで。」
「勉強もがんばって、難しいのやってるよ。すごいねぇ。」
「そうやで。」
結局、勉強の時間はずっと私の上着のすそを持って、みんなの勉強を見守りました。適当に落ち着いた頃を見計らって、離れましたが、お昼前にはご機嫌が治っていました。
午後、運動場に居ると、「先生、あそぼ。」あそんでいると、「ぼくね、明日で、児童会やめるねん。お母さんがやめても良いっていってた。」とうれしそうに言いました。「本当?」「本当やねん。やめても良いって言ってた。」「そうなの。」
「だから勉強もせんでいいの。」
「そう、それは残念だねぇ。みんなは勉強して賢くなってくるのに、Aくんだけは保育園のままだよ。いいの?」
「ふーん。」と気にした様子も無く、
そんなはずは無いと思いましたが、ひょっとしてと言うこともあります。
あんまりうれしそうなのと、確信も無いので、黙っていることにしました。
そのまま、夕方まで、ご機嫌で帰りましたが、さあどうでしょう?
コブシは、九州、本州、済洲島が産地だそうです。木蓮に似ていると思っていたら、コブシの漢字「辛夷」は、中国では木蓮のことだそうです。
土曜日の明け方。夢を見ました。
水が流れる浅い川の中、川底はセメントで、藻が絡んでヌルヌルしてたりする。
そんな川の上を、高校時代の同級生3人と、歩いています。
久しぶりに会ったみたいで、昔のように話しながら、でも大変な道を、上がったり下ったり。歩いている川の上、頭の上が線路で、電車が走っていたり。
一人は少しからだが悪いのか、どうしても遅れがちになります。
その人を引っ張ったり、励ましながら、ようやく高台のがけの上のようなところに到着しました。
急勾配の、上に登って下を見下ろすと、田んぼ何枚も広がり、大楠木の森、赤い実のついた木、小さな池には、蓮が咲いていて・・・。日本の里山の原風景ともいうべき、懐かしい景色が広がっていたのです。
胸がいたくなるような、懐かしさと感動で、友達に「すごいね。良い景色だね。また来年も、一緒に来ようね。」というと、友達の一人が「私は、もう来れない。」そういうのです。
体が悪くて一年持たない。もうこれが、最後の出会いだと。
私はその人の膝に顔を埋めて、「嫌だ、嫌だ。」と子どものように泣いて、泣いて・・・。
泣きながら目が覚めました。
なぜそんな夢をみたのか?
先週同窓会があったからなのか、傷んだ日本の風土を、テレビで毎日のように見ているせいなのか。
毎日同じように生活していると、このような毎日が永遠に続くように錯覚してまって、いつでも、誰とでもそう願えば会えるような気がしています。
でも、そんな保障はどこにも無い。
会っておきたい人とは、会っておかなくては。
日本の風土を愛しているなら、もっとそれが表れるような生活を行っておくのだった。
今からでも、間に合うと信じたい。
水仙もいろんな種類があります。これは大杯水仙。生命力にあふれています。
新年度が始まって、新しい職場での仕事が始まりました。自宅から近い小学校になったので、通勤は便利。
建てられてすぐの児童会室は、美しく。2クラス92名ですが、ゆとりがあります。
たんぽぽや、いぬふぐり、ホトケノザ野草を摘んで、上級生の女子が1年生の女子の髪や首に飾っています。校庭の片面は川の土手の前で、緑の多い学校です。
暖かい一日でした。
モイーズの「スケールと分散和音」の練習をすると、4回づつ繰り返し、3オクターブまで、長調だけで、3時間。分散和音3時間。短調もやると、全部で9時間は掛かってしまいます。
仕事に行っている日はとても無理なので、やっている曲の調を中心に抜粋してやります。
テレマンのソナタは、Ddur。クーラウはGdur中心。
2つの調のスケールを4回づつ繰り返し、全部やって1時間。
曲を2時間弱やれれば、良い方。
同じ調ばかりすることになるので、ローテーションを組んで、3日に一度は全調を、繰り返しを2回にはしょったり、スケールを4度づつに細かく区切って一音づつ上がっていく練習をはしょったりして使います。
繰り返しも、毎回スラーにしたり、タンギングしたり、いろいろ位置を変えて練習します。これはギオー流。
下手すると、曲をする時間がないときもあります。で、あせってまた曲練習をして。
基礎練が減って。またまた、基礎練を入れて。
そうやって、いつも何かの練習が足りません。