昨日は、1年生のAくんとプラタナスの葉っぱを拾いました。
決められたおやつの時間も部屋の中に入らず、外に出たままお迎えの来る5時まで。
いろんな背景を抱えた子どもは、普通の落ち着いた向き合い方ではなく、特別な注目を求めてきます。ルール破りは、その表れ。ジャングルジムに登り、つばを吐きかけ、「あほ、死ね、豚!」どんなに深く、この子は傷ついてきたんでしょう?落ち葉の色を楽しみながらのんびり、穏やかな気持ちの良い時間を誰かと過ごす。暴力も、きつい言葉も無い時間が、彼には足りない。
保育範囲外の築山の土を蹴り続けて、挑発しようとするA君を、尻目に、もう部屋に返すことは無理。
この荒れた彼の心がこれ以上、荒れないためには何ができるだろう?おいしいおやつも、暖かい部屋も、彼は、いらない。
見渡すと、紅葉したプラタナスの葉が一面に落ちていて美しい。でも、この美しさにも目もくれず、彼は自分の穴を掘り続けている。
えーい!仕方ない。自分が楽しみを見つけるしかないか。
「ほら、きれいだよ。この赤い色見てご覧?」
「わぁ。きれいこの葉っぱ!」
と葉っぱを集めていると、「先生、そんなん、虫食ってるやん。これ、あげるわ。」ときれいな葉を持ってきてくれた。
「まあ、きれい!ありがとう。」
「ふーん、先生そんなん好きなんか。」
「だって、きれいでしょ。」
あそんでいると、落ち着いてきて、いろんなことを話してくれました。
ヴァイツゼッカーが「心の病としての平和不在-核時代の倫理学-」(南雲堂)で、
「平和不在は現実への順応の欠如 健康とは現実に順応できることである だから平和不在は心の病気だった」と書いています。
美しいものを見たり、聴いたり、穏やかで当たり前の幸福を楽しめるようになるまで、私は付き合うことに決めました。彼が平和に幸せに生きていくことができるように。