日曜日の朝は実家でレッスンでした。
1864年
1865年
アルフォンス ミュシャ(1860-1939年)オーストリア帝国モラヴィアイヴァンチツェ生まれ、 ドイツ国ベーメン・メーレン保護領没
1896年「椿姫」
1896年「メディア」
1898年「ロレンザッチオ」
ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュッセル没
のオペラ「トスカ」から、「歌に生き、恋に生き」」
母の活けた芍薬、水揚げがうまくいっていない。
この花は難しくて、切り口をミョウバンでこすったり、蕾についた蜜をお湯で優しくお湯につけて拭いて、新聞紙で巻いて、お湯につけて一晩。
木槌で茎を叩いたり、葉もできるだけ落としたほうがいいようです。
しかし!
「切り口を焼くわ。」と、焼き出します。
「お湯で揚げたり、新聞紙で巻いて、葉も落としたほうがいいみたい。」と言っても「もう焼いたからいい。」
と聞きません。
水揚げ法のサイトをLINEで送って、レッスン。
終わってから見たら
葉は少し落としたみたい。
まだ多いけど…。
咲くといいなあ~。
帰りにムサシに寄って昨日の続き、サロンのお母さんに作ってもらえそうなものを探しましたが
なかなか適度なものがありません。
流行りの革細工は手がかかり過ぎ、羊毛フェルトも大変。つまみ細工ももうやりました。
粘土は色を揃えるのにお金がかかり過ぎ…デコパージュは良かったけれともう道具も置いてない。
簡単で安く作れるもの無いかなあ?
芍薬はシベリア、中国、モンゴルの原産。日本には古く中国から渡来し、薬用、観賞用に栽培されています。
ボタンの台木として使用されますがシャクヤク自体の花も美しく、中国で、宋代には育種が始まっています。江戸時代には「茶花」として鑑賞され、
品種改良も行われた古典園芸植物です
。
また熊本藩では武士の素養として園芸を重要視し、奨励されました。
特に六種類の植物が盛んに栽培、育種され、これを「肥後六花」と総称するが、キク、朝顔、椿等と共にシャクヤクもそこに加わっています。この熊本で育種された系統を「肥後芍薬」と呼びます。
近代に入り西洋にも紹介され、19世紀には特にフランスで品種改良がなされ、豪華な千重咲き大輪の品種群が生まれました。
明治時代以降の日本では、神奈川県農事試験場(現:神奈川県農業技術センター)がこれらを導入し従来の日本の品種群との交配を重ねて、新たな一群が作られました。
その後日本でも切り花用品種の育成が続いているほか、伊藤東一によりボタンの黄花品種との交配により濃黄色の品種がいくつか生まれ、世界的にも注目されました。
また20世紀後半にはアメリカでの育種が進み、いくつかの近縁種との種間交雑も試みられ、従来にない花色を備えたものもいろいろと現れています。
芍薬「サラ・ベルナール」
サラ・ベルナール
(1844-1923年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没
1880年
舞台女優。
舞台女優。
フランスの「ベル・エポック」と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られています。
1864年
普仏戦争前後に女優としてキャリアを開始し、すぐに名声を確立しました。
1865年
ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と評され、「聖なるサラ」や「劇場の女帝」など、数々の異名を持ったが、19世紀フランスにおける最も偉大な悲劇女優の一人であると考えられています。
ジャン・コクトーは「聖なる怪物」と呼びました。
キャリアの終わり頃は初期の映画が制作された時代とも重なり、数本の無声映画に出演しています。
国際的な人気を博した「最初の国際スター」と言われています。
また、彼女のために豪華で精緻な舞台衣装や装飾的な図案のポスターが作られており、「アール・ヌーヴォー」という新芸術様式/運動の中心人物でした。
当たり役の1つ「椿姫」
ラ・プリュム誌の表紙サラ・ベルナール1896年
アルフォンス ミュシャ(1860-1939年)オーストリア帝国モラヴィアイヴァンチツェ生まれ、 ドイツ国ベーメン・メーレン保護領没
が彼女のポスターを描き、一躍時代の寵児に躍り出ました。
「ジスモンダ」のポスター ミュシャ
「ジスモンダ」のポスター ミュシャ
「トスカ」1899年
1896年「椿姫」
1896年「メディア」
1898年「ロレンザッチオ」
「ハムレット」1898年
ジャコモ・プッチーニ(1858-1924年)トスカーナ大公国ルッカ生まれ、ベルギー ブリュッセル没
のオペラ「トスカ」から、「歌に生き、恋に生き」」
シャクヤクを花瓶で鑑賞しようとすると、大変なんですね。私はどこかに見に行くだけです。(^^;
芍薬、大変ですね。私は鉢植えで楽しんでいます。
こちらは何もしなくてもここ数年咲いてくれています。
でも、できるなら育ててくれたのを見るのが一番かも💖