音楽の喜び フルートとともに

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陽の音楽

2023-12-07 20:54:00 | 古典
今日は暖かい日でした。
歩けないので、こもってます。
写真は先週の里山のばかりです。


不動川砂防歴史公園の貯水池。
明治6年にオランダ人工師ヨハネス・デ・レーケによって作られた石積堰提は日本初だったそう。

堰提。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
1761年29歳でパウル・アントン・エステルハージに雇われました。
パウル・アントンは一年足らずで亡くなり、弟で当主になったニコラウスのもとで年務めました。

アイゼンシュタット、エステルハージ宮殿
後にはニクラウス

ニコラウス(ミクローシュ)・エステルハージ侯爵
が建てたハンガリーのフェルテートの宮殿で

ここにはオペラ劇場とマリオネット劇場があり、そこで演奏される音楽や、演奏家との契約は、すべてハイドンの仕事でした。


1790年58歳のときに、ニクラウスが死去し、後継ぎのアントン・ エステルハージ

1738-1794アントン・エステルハージ
は音楽に興味がなく、ハイドンに年金を与えて引退させてしまいました。

しかし、ハイドンの名声は高まっていて1791.2年、1794.5年のイギリス演奏旅行は大成功で、演奏収入は年金1400グルテンに対して20000グルテンにのぼっていました。

イギリスでの人気は高く、移住も考えたようですが、1794年旅行中にニコラウス2世が当主になります。

1765-1733ニコラウス2世

ハイドンは呼び戻され、エステルハージ家と再契約し、ここの楽長になります。
ニコラウス2世はウィーンで過ごすことが多かったのでハイドンもウィーンで過ごしました。

ハイドンが晩年を過ごしたウィーンの家

国内の人気も高まり、1797年に作曲した「神よ皇帝フランツを守り給え」はオーストリア国歌になります。

ハイドンは65歳になっていましたが、器楽曲では『トランペット協奏曲 変ホ長調(Hob. VIIe:1)』のほか、『エルデーディ四重奏曲 作品76』(第76番(第61番)『五度』、第77番(第62番)『皇帝』、第78番(第63番)、『ロプコヴィッツ四重奏曲 作品77』を作曲していて、その創作意欲は衰えていませんでした。

弦楽四重奏曲第78番(第63番(偽作を除いて後に63番と言われるようになりました))は、第一楽章の冒頭部分が日が昇って来るような感じがするので後世、「日の出」と名付けられました。







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