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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

フランス王宮の絨毯と音楽

2024-12-29 21:02:00 | バロック
年末。やっと休みになった夫と次男が家にいる間に、ずっと変えたかったすり減ったマットの交換。
コーナンに行って切り売りのマットを敷くことにしました。
台所のカウンターやや食器棚の形にマットを切って

床下収納の形に切って
両面テープで貼って。



なんか良い感じじゃない?
だいぶ部屋が明るくなりました。
足元温かいし。
全体の掃除は明日かな。

うちのカーペットはシンプルな安いものですが、
フランスの絨毯は
1608年、アンリ4世(1553-1610年)


がピエール・デュポンの指示したㇳルコ式の絨毯の生産に始まりました。

この生産場所は、パリのすぐ西のシャイヨのサヴォナリーSavonnerie工場に移動しました。

SavonnerieとSimon Lourdetにより製作された絨毯がいわゆるルイ13世絨毯です。

それらは花瓶や籠の中に花とともに飾られます。
デザインはオランダ風、フランダース風の織物および絵に基づいています。

最も有名なSavonnerie絨毯はグラン ギャラリーGrande Galerie


とギャラリー  ダポロンGalerie d'Apollon






のために作られたものです。

ルイ14世(1638-1715年)

が1678年にヴェルサイユ宮殿に移ったとき、シャルル・ルブラン(1619-1690年)

の指示により作られた105の傑作は使用されることはありませんでした。

それらのデザインは、アカンサスの葉、建築様式の縁取り、および神話の場面(チェーザレ リパ1555-1622年
のイコノロギア
Cesare Ripa's Iconologie)という著作お手本にしたもので、ルイ14世の権力のシンボルを表現するものでした。

18世紀中ごろのデザイナーではピエール ジョズ ペロー(Pierre-Josse Perrot1678-1750年)が最もよく知られていす。

彼の作品と図面は、優雅なロココ様式の巻物、主要なバラ結び、シェル、アカンサス葉、および花の飾りで有名です。

サヴォナリー Savonnerie工場は、1826年にパリのゴブランに移動しました。
ボーヴェBeauvais工場は1780年から1792年までパイル絨毯を作りました。

オービュッソンAubussonの工場での生産は1743年に始まりましま。

フランスの絨毯が始まり、もっとも、栄えたルイ14世の時代、彼の宮殿で響いていた音楽は主にジャン パテイスト リュリ(1632-1687年)

そしてマラン マレー(1656-1728年)
 
ヴェルサイユの音楽でした。

ルイ14世の建築、敷物、音楽そのすべてが彼の力と繁栄を示すものでした。

1.壮大な戦争の空気(ジャン=バティスト・ド・リュリ、1707年)
2.組曲第1番ニ短調よりアレマンド(マリン・マレ、1686年)

3.ブーレ (J-B リュリー、1707)

4. クーラント第1組曲 ニ短調 (マレ、1686年)
5.バスルーム付きグランドエアー(J-B Lully、1707)

7.オーベルチュール〜シャコンヌ(J-BLully、1690年)

8.ロンドー (J-B Lully、1707)

9.愛の前奏曲 (J-B Lully、1681)

10. トルコ人の儀式のための行進(J-B Lully、1670年)



トラヴェルソと通奏低音

2024-12-27 21:00:00 | バロック
木曜日は、今年最後の「聴き合い会」でした。
今回は古楽器のヴィオラ・ダ・ガンバの有馬さんとフルートトラヴェルソの今川さん、田中さんのハッセのソナタを演奏。

リュートの樋口真希さん

ビウエラの斉藤さん

1820年頃の6キーのフルート

でボワモルティエを吹いたのは角谷雅一さんとピアノ神澤さん。

もちろんモダンフルートやいつものギター。
クラリネットの小林さん

が来てくれてピアノの神澤さんと一緒に「ドリー組曲」を演奏しました。

ヨハン・アドルフ・ハッセ( 1699- 1783年)神聖ローマ帝国ベルケドルフ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没。

1740年
ハンブルク近郊のベルゲドルフに生まれ、最初は父親に音楽教育を受けます。

素晴らしいテノールの声の持ち主だったため、彼は劇団員の道を選び、1718年にラインハルト・カイザーが指揮するオペラ劇団に参加しました。

ハッセは歌手として成功を収めたことで翌1719年にブラウンシュヴァイク=リューネブルクの宮廷劇場と契約し、その後作曲も担うようになり、この地で1721年に、オペラ『アンティゴノス』(Antigonus)をもって作曲家デビューを果たしました。

この最初の作品の成功によりブランシュヴァイク公は、ハッセを勉学の完成のためにイタリアへ遊学させました。 

ハッセはヴェネツィア、ボローニャ、ローマを訪問したのち1724年にナポリへ着きます。

ナポリでアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725年)


と親しくなり、彼に師事し、その音楽を身に付けました。

彼の作曲した二声のセレナータはスカルラッティから学んだ音楽で作られ、成功を収めました。

この成功によってハッセの名声は高まり彼は単に有名なだけではない人気を得、ナポリ人から「親愛なるザクセン人(イル・サロ・サッソーネ)」と呼ばれるようになりました。

1726年にナポリの宮廷オペラのために作られた作品『セソストラート』(Sesostrato)は、彼の名をイタリア中に知れ渡りました。

1727年にヴェネツィアへ移ったハッセはそこで有名な歌手のヴェネツィア貴族の娘ファウスティーナ・ボルドーニ、人気台本作家の詩人ピエトロ・メタスタージオと出会います。
メタスタージオとハッセは意気投合して親友となり、以後2人は終生の友情を保った。

1730年にザクセン選帝侯兼ポーランド国王フリードリヒ・アウグスト1世の宮廷楽長に任命されたハッセは、直後にファウスティーナ(1697-1781年)
ファウスティーナの肖像(ロザルバ・カッリエーラ画、1730年代)
と結婚し、ボルドーニ家の養子となってヴェネツィアの市民権を得ました。

ザクセン公はすぐにドレスデンへ来ることを望みましたが、ハッセはおそらく妻の要望によってヴェネツィアに1年間留まり、ドレスデンへ移ったのは1732年の7月でした。

ハッセは9月にドレスデン初のオペラ『クレオフィーデ』の作曲をすると、後は再びイタリアへ行き、さらに1733年にはロンドンへ移りました。

ロンドンで彼は、ヘンデルと対立している排他的な派閥に、この大家の競争者になるように誘いをかけられています。
しかし彼は賢明にもそれを丁重に断って、ロンドンには貴族オペラ・カンパニー発足のこけら落としとして上演されるオペラ『アルタセルセ』(Artaserse)(初演は1730年、ヴェネツィア)のリハーサルを監督をするだけの期間のみ滞在し、1734年になるとドレスデンに戻りました。

ファウスティーナはドレスデンで歌手として活躍していましたが、1733年にフリードリッヒ・アウグスト1世が崩御し、フリードリッヒ・アウグスト2世(1794-1773年)
が即位した後、次第に彼女の宮廷での人気が衰え、ハッセにヴェネツィアへ帰るように促します。

ハッセは長期休暇を取る権利を与えられていた為、望まれる度に外国へ招かれ、特に妻ファウスティーナの実家のヴェネツィアには妻を伴って度々赴き、妻が望むままに長期滞在を重ねました。 

ハッセはイタリア人に、その官職と貴族の養子であることから、シニョーレ・サッソーネ(ザクセン卿)と呼ばれ、敬愛されました。

プロイセンには国王フリードリッヒ2世(1712-1786年)

の招きで1742年と1745年に赴いてオペラの公演を行いました。

フルート奏者でもある国王はハッセのフルート音楽も愛好していたと見られています。

1943年以降はウィーンにも度々訪問し、アントニオ・カルダーラ亡き後創作意欲を欠いていたメタスタージオを喚起させ、彼の台本によるオペラを初演しました、その間ドレスデンでも積極的に作曲し、その影響はドイツの他の都市にも広まりました。

1763年にフリードリヒ・アウグスト2世が崩御し、ハッセは高額の年金をもらい受けて宮廷楽長の職を引退しました。
しかしハッセの創作意欲はいまだ衰えず、彼は家族とともにウィーンへ移り、親友メタスタージオの台本で、更にいくつかのオペラ作品のウィーンでの初演を担いました。

1765年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741|1790年)

の戴冠式では祝典の為の音楽劇《エジェリアEgeria》の作曲を努める栄誉を得ました。

彼の最後の劇場用作品は、ミラノでのオーストリア=エステ大公フェルディナンドの婚礼のために制作された
オペラ《ルッジェーロRuggiero》(1771年)です。

既に引退していたハッセでしたが、大公の母マリア=テレジアがこちらも引退を決めていたメタスタージオに、ハッセが音楽を作ることを条件に台本作製を引き受けさせていたので、ハッセも親友の最後の仕事に力を貸す決断をしました。

同時に15歳のウォルフガング・モーツァルトの作品、セレナータ「アルバのアスカーニオ」も上演されました、

この時ハッセが「このような才能が出てきては我々はすっかり影が薄くなってしまうだろう」と言ったとレオポルト・モーツァルトの手紙に記されています。以前モーツァルトに会った時のハッセは友人への手紙に「父親が息子を甘やかしてその才能を駄目にしないか心配だ」とモーツァルトの将来を慮っています。

1781年ファウスティーナが没し、翌年メタスタージオがこの世を去ると、翌1783年にハッセも、名誉と成功に彩られた84歳の生涯を終えました。

ハッセとファウスティーナは共に同地のサン・マルクオーラ教会(Chiesa di San Marcuola)に埋葬されています。

アリア「やさしい4月の緑に」トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロ、ソプラノの演奏です。


低音の魅力

2024-12-22 20:59:00 | バロック
 土曜日伊藤公一先生のレッスンで梅田ドルチェ楽器に行きました。
またまたこってり絞られました。

先生はニコニコして穏やかで少しも怖くはないのですが、どんな音の乱れも聞き逃しません。

私が思っているレガートはレガートではなく、スタカートはスタカートではない。
合っていると思っている音はズレているという具合に…。
「楽譜に書かれている。あたりまえのことをあたりまえにする。」と言うのがどんなに厳しいことか身に叩き込まれるレッスンです。

、レッスンのあと、榎田先生が「ある。」と言っておられた樹脂のバスフルートを試しに3階でパウエルフルートフェアーをやっているはず、行ってみました。

フェアーの調整会…予約取れなかったです。
「久米さん、調整受けられますか?」と店員さんが聞いてくれました。
「出遅れて予約取れなかったんです。」と言うと
「それがたった今キャンセルが出て、12:40が空いているんです。どうされますか?」
12:35!
「うわぁ~!お願いします🙇」
飛びつきました。
「今日宝くじ買ったら当たるかも。」と調整の小林さん。
しっかり見ていただきました。

その間、バスフルートのお試し。
樹脂フルートのGou

グレーが出てきました。
吹いてみるといいです!
軽くて音も簡単に出て、調整もほぼ要らないそうです。
少し誤算はCと C#トリルキーが押しにくいこと、思っている位置にない上に内側に埋まっていて押しにくい。
これで39万円。

「個体差はあるのですか?」と聞くと
「ありますよ。」と茶色を出してきてくれました。
本当です。こちらの方が音が前に出る感じです。

「吹き比べていいですか?」というとSANKYOのバスフルートが出てきました。

ドロップ型のキーが、思いのほか押しやすいです。

「いいですね〜。」
「いいですね。」音色、音の出、申し分無いです。

良くなったとは言え、やっぱりこの音色にはかないません。
しかし、重たい。
「一曲吹けないわ。」というと
支持棒をつけてくれました。

膝に立てて使ったり、首から下げたストラップにつけて演奏するのと使い分けられます。長さも調整できます。

これは便利。

「これなら買いたい。高いですか?」
「これはリップ銀で116万円。」

樹脂が39万円なのでだいぶ違いますが、この音色なら買いたい。
ところがその楽器は先約が合って売れないそうです。
残念。
というか無かってよかったのか。
お財布のことをおもうとね…。
安くていい楽器はなかなかありません😭💦。

オーケストラでの低音木管楽器と言えばファゴットです。

アントニオ ヴィヴァルディ(1678-1742年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、オーストリア大公国ヴェネツィア没

1725年

ファゴットのための協奏曲を量産しています。
現存しているRV466番から504番までの39曲の楽譜が残されています。
468と482は一部ですが。

すべてはファゴットと弦楽、通奏低音のための協奏曲になっています。
制作年代ははっきりとしていませんが、多くは1720年頃に作曲されています。
1720年と言えば
1718年-1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯エルンスト・ルートヴィヒ(1667-1739年 在位1678-1739年)

の宮廷楽長として奉職した最終年です。

ピエタ音楽院(1346年に孤児や棄児を養育するための慈善機関として設立されました。女子は主に音楽教育を男子は大工などの教育を受けました。音楽会の収入や寄付で、成り立っていました。)
ヴィヴァルディが教鞭をとったピエタ慈善院付属音楽院
で1716年から名実共に「協奏曲長」(Maestro de' concerti)に就任していたこともあり、おそらくこの音楽院のオーケストラのために作曲したのではないかと思われます。

このあとの
1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を正式に交わしています。

ファゴット協奏曲RV484





平和の君

2024-12-15 22:42:00 | バロック
土曜日枚方市文化芸術センターでヘンデルの「メサイア」公演を聴きに行ってきました。
生徒のSさんが毎年合唱で出演されていたのがコロナで中止。
一昨年、昨年はまだ様子見をされていて、今年は4年ぶりに参加されました。
私もいつもSさんを見に行っていたのでお久しぶりでした。

枚方市の「メサイア」公演は有志により2008年に始まりました。

それから毎年恒例となり続けてこられましたが、2018年は大阪北部地震で枚方市民大ホールが被災し中止。

2021年に新ホールが建設予定のため募集されず、
2019年は規模を縮小してメセナひらかた会館で公演。

2020年-2021年はコロナのため公演中止。

2022年からは新しく建った枚方市文化芸術センターの大ホールで公演再開されていました。

今回は合唱133人、オーケストラ48人に指揮者谷村浩さん、
ソリスト
ソプラノ矢野文香(あやか)さん、アルト郷家暁子さん、 テノール矢野勇志さん、バス大西遼さんの4人。

合唱指導は大西遼さん、練習時の伴奏ピアニスト安倍り麻さん。

たくさんの人の想いが集まったコンサートは約1500席が満員でした。

私も客席でヘンデル久しぶりに年末恒例「ハレルヤ」が歌えて幸せでした。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没
「メサイア」HWV56はチャールズ・ジェネンズが受難週の演奏会のために台本を書きました。

その後、アイルランドで慈善事業としてのオラトリオ演奏会の計画が立てられ、ヘンデルが招聘されました。

ヘンデルはこの演奏会のためにジェネンズの台本によるオラトリオを作曲しました。
速筆のヘンデルはこの大曲の楽譜を1741年8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げています。

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。
1741年9月6日の日付を記す。
259ページ 上演時間 2時間半。

「メサイア」ついては以前に書いたので、
第1部 第12曲 「一人のみどりごが我らのために生まれた」(For unto us a child is born)

我らにひとりの男の子が与えられた。
政(まつりごと)は彼の肩に担われ、
その名はこう呼ばれるようになる、
「驚くべき者、弁護者、
 全能の神、
 とこしえの父、
 平和の君」と。
        イザヤ書9:5より。

メサイアについて以前書いたもの
ハレルヤについて以前書いたもの
https://blog.goo.ne.jp/m-fluteangel16/e/21a3499526c9eb9451f105664b73755d

今やガンジス川に太陽はのぼり

2024-12-07 21:00:00 | バロック
金曜日の午前中は京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンに行きました。
久しぶりの快晴。でも寒かった。

ライヒャルトのスケール練習の2番とドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を観ていただきました。

スケールは不安な所に入るとスピードが速くなる癖を見つけられてしまいました。
ゆっくり丁寧に!

さて、レッスン後、久しぶりに出町商店街をウロウロ。

ふたばと鯖寿司は行列で近寄れません。



お腹すいたなぁ。
と、出町ろろろに行ってみました。

予約が無いと入れないお店ですが、3回位断られました。
恐る恐る「空いてますか?」と声かけてみたら、「お席作りますのでお待ち下さい。」

やった〜!
初めてです。

お昼はこのお重弁当のみのメニュー。

土鍋で炊くごはん。

お野菜が小鉢に入ってお浸し、生姜、かつお出汁、胡麻和えなどいろいろな味でついています。

お味噌汁、温かいほうじ茶。

かき揚げ、だし巻き片栗粉あんかけはやさしい味。
胡麻豆腐の揚げたのが1番気に入りました。
これで税込1400円。
また来ようっと。

この本屋さんもお気に入り

いつもの骨董屋さん
映画館「出町座」

紅葉はもう終わりかけだけれど、いちょうは綺麗でした。

お天気良いとやっぱりいいなぁ。

アレッサンドロ・スカルラッティ
(1660 – 1725年)シチリア島パレルモ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

は、当時スペイン帝国の統治下にあった現在のイタリアで生まれた作曲家、チェンバロ奏者でした。

貧しい家庭に生まれたアレッサンドロは、まだ子供でしたが、1672 年にローマの親類の元に送られました。

当時、ローマの数多くの教会の聖歌隊の子ども歌手に対する大きな需要がありました。

バロック時代。彼はナポリ楽派の最も重要な代表者の一人で、主にオペラ言語の発展において音楽史において基本的な役割を果たし、ダ・カーポのアリアとイタリアの三楽章形式の完成に貢献しました。

伴奏レチタティーヴォ(人間の声をもとに考案された音楽形式で、会話するときに、声の抑揚があるのが特徴です)と呼ばれるオーケストラとのレチタティーヴォや、幕の終わりに協奏曲 を使用した最初の作曲家の一人です。

彼の作品リストは膨大で、一般にはほとんど知られていませんが、その中には 100 曲以上のイタリア オペラ、800 曲のイタリアカンタータ、声と楽器のためのセレナーデ、マドリガーレ、38 曲のオラトリオ(そのうち 20 曲だけが保存されています) が含まれます。

100の神聖なモテットとカンタータ、受難曲、12のミサ曲。器楽のジャンルでは、交響曲、グロッシ協奏曲、さまざまな楽器のためのソナタ、オルガンとチェンバロのための作品も作曲しました。

スカルラッティはローマでわずか 18 歳で作曲家として名を上げ始め、1679 年に彼の最初の有名なオペラ『Gli Equivoci nel Sembiante』を制作し、大成功を収めました。

「今や太陽はガンジス川に」は
歌劇「愛の誠/L’honesta negli amori」DF ベルニーニまたはドメニコ フィリッポコンティーニのイタリア語の本を使用した3幕からなる音楽劇。
この劇中に歌われるアリアとなっています。

ドメニコ・アントニオ・ヴァッカロ (Domenico Antonio Vaccaro) によるスカルラッティの肖像画
この歌劇は、1680年20歳で作曲。
当時ローマに住んでいた、スウェーデン女王のクリスティーナ(1626-1689年)

の館で上演されたものです。

今や太陽はガンジス川から
さらに明るく輝いて
朝もやの涙を
一滴残さずかわかしてゆく

こがね色の日差しで
あらゆる緑を飾り立て
天なる星たちで
牧場(まきば)を彩る


戦勝の美女

2024-11-29 21:02:00 | バロック
木曜日は京都の病院に行った帰りに藤森神社に寄りました。
昔はお水を頂きによく来ていました。

境内に美味しいお水が湧いています。

神功皇后が摂政3(203)年、新羅から凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのが起こりだそうです。

5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされています。

菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めています。


駈馬神事が馬の神事であることから馬の神として信仰され、

馬主、騎手、競馬ファンの祭典が毎年行われて多くの人々の参拝があるそうです。(藤森神社ホームページより)

お稲荷さんもありました。

赤い鳥居がいい感じ

駐車場には柿の木

渋柿だよね。

でもかわいい実でした。
アントニオ・ヴィヴァルディ
(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

のオラトリオ『蛮族の王ホロフェルネスを討伐した勝利のユディータ』(Juditha triumphans devicta Holofernis barbarie)RV644
は、ピエタ音楽院のために1716年38歳のときに作曲されました。

ヴィヴァルディのオラトリオの中で唯一現存するものです。
『ユディト記』( Book of Judith)は、ユディトという女性の信仰を描く物語にのっとっています。

1716 年夏のコルフ島包囲戦でヴェネツィア共和国 がトルコ軍に勝利したことを祝うために委託されたもので、政治的な意味合いがあります。

この島はギリシャ、地中海にありヨーロッパ諸国の防壁として認識され、オスマン帝国の海軍と陸軍に何度も攻撃され 、 1537年、1571年、1573年、1716年の4度の有名な包囲攻撃を受けたものの、 1401年から1797年までヴェネツィアの手に留まり、その際も都市の防衛の強さが何度も証明されました。

オラトリオは完成し、 同年 11 月 にピエタ劇場で全員女性のキャストによって上演されました。

ヴェネツィアの詩人ジャコモ・カセッティが特別に書いたラテン語の台本が使用されました。

メラリの娘ユディトはマナセと結婚しましたが、夫を日射病で失って寡婦となりました。

彼女は美しく魅力的な女性で多くの財産を持っていましたが、唯一の神に対して強い信仰を持っていたため、人々から尊敬されていました。

ユディトⅠ グスターフ クリムト1901年
アッシリアの王ネブカドネツァルはメディア王との戦いにおいて自分に協力しなかった諸民族を攻撃するため、司令官ホロフェルネスを派遣します。

ホロフェルネスは軍勢を率いてユダヤへやってくるとベトリアという町を囲みました。
水源を絶たれたため町の指導者オジアは降伏を決意しますが、ベトリアに住んでいたユディトはオジアと民を励まし、神への信頼を訴えます。

ユディトはそこである作戦をたてます。
それはユディト自身が着飾ってホロフェルネスのもとに赴くというものでした。
ホロフェルネスの首を持つユディト ルーカス クラナッハ1530年 

ユディトは神に祈って、ホロフェルネスのもとへ向かいます。
エルサレム進軍の道案内を申し出た美しいユディトをホロフェルネスは喜んで迎えます。

ユディトは陣中で出される異邦人の食べ物を決して口にせず、4日待ちます。

4日目にホロフェルネスは酒宴にユディトを呼び出しました。
ホロフェルネスは泥酔し、やがて天幕のうちにユディトは眠るホロフェルネスと2人だけで残されました。

そこでユディトは眠っていたホロフェルネスの短剣をとって彼の首を切り落としました。

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』ミケランジェロ カラヴァッジョ1602年 

『ホロフェルネスの首を斬るユディト』アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ1612年頃
ユディトは侍女と共に、首を携えてベトリアの町へ戻り、事の次第を報告しました。

ユディトのベツリアへの帰還
サンドロ ボッティチェリ1470年頃
ユダヤ人はこの機会を逃さず、出撃し、敗走するアッシリア軍を打ち破りました。

ユディトは105歳でなくなるまで、静かにベトリアの町で一人暮らしました。

ユディトとその侍女 アルテミジア・ジェンティレスキ1619年頃

アリア「 顔と敵」は、ユダヤ人陣営がユディタがホロフェルネスの首を切ったことを知る場面から取られています。





登録有形文化財でコンサート

2024-11-25 22:25:00 | バロック
岸和田自泉会館で今川さんのフルート教室の発表会に出演してきました。

今川さんはフルートアンサンブル「エスカル」のメンバーです。

「エスカルで出て!」と言うことで友情出演。

トラヴェルソを田中さんと今川さんで披露。チェロは西先生。

チェロの西先生と共催されています。
ハイドンの「ロンドントリオ」を今川さんと久米フルート、西先生のチェロで。

フルートカルテットで大阪エスカルの田中聖平さん、垣内緑さん、今川さん、久米で「亜麻色の髪の乙女」「ラデツキー行進曲」フルート四重奏編曲版で演奏しました。

生徒さんたちもみんな熱演で素敵な演奏でした。

自泉会館は現在のユニチカの前身の一つ、岸和田紡績の2代目社長・寺田甚吉が、会社の社交場などとして昭和7年(1932)に設立した建物を、昭和18年(1943)に岸和田市へ寄贈。

以降、音楽ホールやギャラリー、会議室など文化活動の場として一般開放されています。

関西の建築家・渡辺節が設計した近世スパニッシュ風の建物は登録有形文化財に指定されており、建築業界でも注目されています。

イベントがないときのみ館内を見学でき、テレビドラマで使われたピアノなども展示されています。

(岸和田市ホームページより)

アントニン ヴィヴァルディ(1678-1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

ヴィヴァルディは172€-1740年書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したと書いています。この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしています。

1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演したました。

1724年には、ローマ教皇(おそらく同年5月に教皇に選出されたばかりのベネディクトゥス13世)


に二度謁見し、その御前で演奏した事も書いています。

1725年9月12日には、9月5日に挙式されたフランス国王ルイ15世

とマリー・レグザンスカ

1747年
の結婚式を祝うために、駐ヴェネツィア・フランス大使ジャック・ヴァンサン・ランゲ伯爵が主催したヴェネツィアでの祝宴でヴィヴァルディのセレナータ『グロリアとヒメネオ』(RV 687)が上演されました。

1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり、この年のオペラ《テンペラーのドリッラ》で歌手のアンナ・ジローがヴィヴァルディのオペラで初めて主演を務めました。
ヴィヴァルディはその後1739年まで断続的に劇場の興行に携わっています。

1727年に作品9『ラ・チェトラ』を出版、神聖ローマ皇帝カール6世に献呈します。

1728年にトリエステでカール6世自身に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集を「ラ・チェトラ」として献呈します。
皇帝と親密になったヴィヴァルディは、多額の金品とパトロンの証の金鎖付きのメダリオンを賜りました。

1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かいました。

1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行いました。

この時期の作品群では、1724年頃に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」としてロジェの後を継いだミシェル=シャルル・ル・セーヌから出版されました。

1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が、『6つのフルート協奏曲』作品10として出版されます。

また生前出版された楽譜としては最後となる『6つの協奏曲』作品11と『6つの協奏曲』作品12のヴァイオリン協奏曲集が出版されています。

1740年頃にはパリのル・クレール社からチェロ・ソナタ集が出版されましたが出版経緯は不明です。

また12月には「メルキュール・ド・フランス」紙からチェロ・ソナタ集の出版広告が掲載されたが、実際に出版された可能性は低いと考えられています。

1730-32年
カンタータ 変ロ長調 RV.656「涙の泉、今ぞ泣け」変ロ長調(ソプラノと通奏低音のための)が書かれています。

おそらく、26歳から勤めていた、ピエタ慈善院(Ospedale della Pietà女子孤児院、救貧院、音楽院)での音楽教育のために書かれたと思われます。


12のカンタータ集の6番目の作品です。
12 Cantatas, D-Dl Mus.1-I-7 (Nr.6)
Partial Holograph manuscript, .

1.邪悪なアエネアス 作曲アントニオ トッツィ
Dunque il perfido Enea by Antonio Tozzi

2.美しいナイチンゲール 作曲ヴィヴァルディ
Usignoletto bello, RV 796, by Antonio Vivaldi

3.枝から枝へのスケルツァ ヴィヴァルディ
Scherza di fronda in fronda, RV 663, by Antonio Vivaldi

4.去っていく波のうねり ヴィヴァルディ
Geme l'onda che parte, RV 657, by Antonio Vivaldi 

5.夜だった ヴィヴァルディ
Era la notte, RV 655, by Antonio Vivaldi

6涙の泉よ、今ぞ泣け ヴィヴァルディ
Fonti di pianto piangete, RV 656, by Antonio Vivaldi

7.空に紅く昇る ヴィヴァルディ
Sorge vermiglia in ciel, RV 667, by Antonio Vivaldi 

8.慣例を超えて遅刻してしまったようですが、
Par che tardo oltre il costume, RV 662, by Antonio Vivaldi

9.疑惑の影で ヴィヴァルディ
All'ombra di sospetto, RV 678, by Antonio Vivaldi

10.最も不誠実な心 ヴィヴァルディPerfidissimo cor, RV 674, by Antonio Vivaldi

11.あなたはため息をつきながら慈悲を求める ヴィヴァルディ
Pianti sospiri e dimandar mercede, RV 676, by Antonio Vivaldi

12,疑惑の呼び出し ヴィヴァルディ
Qual per ignoto calle, RV 677, by Antonio Vivaldi。

「涙の泉よ、今ぞ泣け」
涙の泉、 心が涙で溶けるまで
たくさん泣いてください。  

私のフィーリ。
恋人の心 あなたは硬いダイヤモンドでできています。
今日あなたが 私の痛みで 壊れていないなら。

涙の泉... 私のあなたの頑固な心 ほど無慈悲な心はないように、 
あなた ほど荒涼とした心はない 、

私の愛する心よ。
あなたは忠実、彼女は変わり者。
あなたは彼女を愛し、彼女はあなたを憎み。
あなたは彼女に従い、彼女はあなたから逃げる。

痛みの中で、 抵抗できない時は、
苦しんだ心を溶かし、涙で溶かしてください。

私の目を見てください、 無慈悲なフィーリ。
ああ神よ 、あなたはなんと残酷で 、私はどれほど忠実で、 見てください、私がどれほどあなたを崇拝しているか。

そして愛が私の中にあるように、
あなたの美しさに等しい、
私の心の中の私を見てください 、
あなたの誇りとなろう。
私の目を見てください...



大王が主題を出題

2024-11-20 21:00:00 | バロック
火曜日は牧野生涯学習センター音楽室で第18回聴き合い会でした。

いつもチェロで参加されているSさん。
今日はヴァイオリンも持参して披露してくださいました。

演奏前にヴァイオリンとチェロの違いを少しレクチャーしてくださいました。
チェロの大きさはヴァイオリンの8倍。

弓はチェロの方が意外に短い。
幼い頃「父にヴァイオリンを習いたい。」と言ったら「あれは金持ちのするもんや!」と断られたそうです。

中学生になってようやく習わせて貰えるようになりましたが、近所の蔵にあると聞いてヴァイオリンをそこから借りてきて習ったそうです。
カバーも無く風呂敷に包んでヴァイオリンを運んだのは乙女心が傷ついたそうでした。

バッハの無伴奏チェロ組曲と、ヴァイオリンとフルート、ピアノで「音楽の捧げ物」を演奏されました。

他にもギター、ビウエラの参加がありました。

次回聴き合い会は12月26日(木)
牧野生涯学習センター音楽室
1人15分、協力金500円
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。
勇気を奮ってご参加ください。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685- 1750年)神聖ローマ帝国ザクセン、アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

「音楽の捧げ物」BWV1079
、1つの主題に基づく16の作品からなる曲集。フーガ2曲と4楽章からなるトリオソナタ、ならびに10曲のカノンが含まれます。 

バッハが1747年5月7日にフリードリヒ大王(1712-1786年在位1740-1786年)

1740年フリードリヒ2世
の宮廷を訪ねます。

サン・スーシ宮殿
その時、ハ短調のテーマ (Thema Regium) を大王より与えられます。

バッハは、これをその場でゴットフリート ジルバーマン(1683-1753年バロックオルガン、フォルテピアノ制作者)
 
のフォルテピアノにより即興演奏を行いました。

サン・スーシ宮殿

1746年ジルバーマンのフォルテピアノ
2ヵ月後には曲集を仕上げ、
「王の命による主題と付属物をカノン様式で解決した」
(Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta) とラテン語の献辞を付けて大王に献呈しました。



献辞の頭文字を繋いだ言葉 RICERCAR (リチェルカーレ)は、「フーガ」様式が出来る前の古い呼び名です。

大王の主題が全曲を通して用いられたこの曲集はその後「音楽の捧げもの」として知られています。

当時の新聞記事や証言が伝えるところによれば、王の与えた主題を用いて即興演奏を求められたバッハは3声のフーガを演奏しました。

6声のフーガの演奏も求められましたがさすがに即興では難しく、自作の主題による即興演奏を行いました。 

のちにその場で果たせなかった6声のフーガを含むこの作品を王に捧げました。

曲集の正しい配列ははっきりわかっていません、出版社や演奏者により順序に違いが生じています。

2曲のフーガはリチェルカーレと題されています。

一曲は3声のフーガで、これが王の前での演奏に近いのではないかとも言われています。もう一曲が6声のフーガです。

10曲のカノンのうち9曲は「謎カノン」と呼ばれる形式で書かれています。
単旋律に記号が付されていて、演奏者はその記号に基づいて曲を完成させなければならないのです。 

また、4楽章からなるトリオソナタが含まれ、これにのみ楽器の指定があります。

音楽の捧げ物
Das Musikalisches Opfer, BWV 1079
トリオソナタ フルートとヴァイオリン、通奏低音のための




友情と愛と陰謀

2024-11-16 21:00:00 | バロック
木曜日はピアノの坂田恭子さんと聴き合い会で披露するドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を合わせました。

夫が、育てているメダカの鉢

坂田さん昨年倒れて入院半年。ようやく最近ピアノ復帰てきるようになりました。
まだ、本調子ではありませんが、姿を見るだけで嬉しいです。

以前のように一緒に紅茶を飲んで、おしゃべりして、練習。  

それだけで幸せです。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710−1736年)教皇領イェージ生まれ、ナポリ王国ポッツォーリ没

イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家。オペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲しました。

短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺しています。


オペラ「オリンピアーデ」
台本はオッタヴィアーデ

シチョーネ(古代ギリシャの都市国家キシュオン)の僭主クリステーネの娘アリステア
イタリアのコントラルト、テレサ・アルブッツィ・トデスキーニ
アリステア(ドレスデン、1756年)
は、古代ギリシアで行われていたオリンピックの祭典競技で数度にわたって優勝したことのあるアテネの高貴な青年メガークレ

と愛し合っていました。

しかし、アリステアの父クリステーネはアテネを嫌っていたため、メガークレとアリステアとの結婚の許しを与えず、メガークレは失意のなかクレタ島に赴きます。

そこでメガークレは追剥に襲われますが、クレタ島の王子として知られるリーチダ

に助けられ、一命を取り留め、メガークレはリーチダとゆるぎない友情を築きました。

リーチダはクレタ島の令嬢アルケ゚ーネ
アルゲーネ
と愛情で結ばれ、密かに婚約もしていました。

しかし、クレタ王はその結婚が身分違いのものであるとして許ざず、望みを失ったアルケ゚ーネは、祖国を捨て、身分を隠してエーリデへと逃げてしまいます。

エーリデで、アルケ゚ーネはリーチダの一族やクレタ王から身を隠すため、羊飼いの服を着て、「リーコリ」と名を変えて暮らしていたのでした。

エーリデの村では、4年ごとにギリシャ全土から参加者が集うオリンピックの祭典競技が開催されていました。

リーチダは、愛するアルケ゚ーネがいなくなってしまった悲しみを紛らわせようと、これに参加することにします。

リーチダは、メガークレをクレタ島に残し、ひとりエーリデにやってくると、このオリンピックの祭典競技の代表として選出され、シチョーネからエーリデにやってきていた僭主クリステーネと出会います。

クリステーネは、オリンピックの祭典競技の優勝者に自分の娘アリステアをめとらせると決めます。
リーチダは、恋人アルケ゚ーネを忘れてそれを賞賛し、さらにそのアリステア姫を見て、恋に落ちるのでした。 

しかし、リーチダには戦いの経験がなく、優勝には程遠いと感じます。

そこで、オリンピックの祭典競技で優勝経験のある親友メガークレを、自分の身代わりとして戦わせて優勝させることを思いつきます。

しかし、もちろんリーチダはメガークレがアリステアと昔、恋に落ちていたことなど知る由もありません。友であるリーチダからの強い願いもあって、メガークレもエーリデの地に向かいます。

このオペラはここからが始まりです。

第1幕
メガークレは、かつて命を救ってくれた友人、リーチダという名でオリンピック大会に出場するのにちょうど間に合うようにシキュオンに到着します。

かつてクレタ島の王女アルゲーネと婚約していたリーチダは、メガークレとアリステアがすでに愛し合っていることを知らず、その後友人に賞品のことを告げます。

アリステアとメガークレは互いに親しみを込めて挨拶しますが、メガークレは今やリーチダとして競技に参加するという約束に縛られていると感じています。
一方、アルゲーネは羊飼いの女に変装してオリンピアに到着し、リーチダの前に現れます。

第2幕

メガークレがゲームに勝ち、そのまま去ります。
リーチダが彼女を要求しに来ると、アリステアは彼を非難し、変装したアルゲ―ネも同様に彼を非難し、彼を落胆させます。

リーチダの家庭教師は、メガークレは溺死したと報告し、欺瞞を知ったクレイスチーネ王はリーチダを追放します。

第3幕
アルゲーネは絶望したアリステアが自殺するのを阻止し、メガークレは漁師に救われ、リーチダは王の暗殺を企てます。
企ては失敗。
アリステアは父のクリスチーネ王にリーチダのために慈悲を乞い、アルゲーネは彼の代わりに自分を差し出します。

彼女は王女である証拠として、リーチダからもらった鎖をクリスチーネに見せます。

クリスチーネ王はそれが、父親を殺すという予言を未然に防ぐために幼い頃に捨てられた息子のものであると認識します。復権したリーチダはアルゲーネを受け入れ、妹アリステアをメガークレに託し、二組の結婚が祝われます。

アルゲーネのアリア 



フルートトラヴェルソの世界

2024-11-14 21:00:00 | バロック
月曜日の夕方からエスカルのメンバーの今川さんに誘われて有志で出演する今川教室の発表会デモ演奏の練習に行きました。

本町の貸しレッスン室スマイルズに着くと今川さんと田中さんが二重奏の真っ最中。

同じメンバーの田中さんは最近トラベルソを買いました。
今川さんもトラベルソを持っていてその楽器とテレマンの二重奏を披露するのです。
二人とも熱が入っています。

その後、私と今川さんでハイドンの「ロンドントリオ」を一回合わせ、いよいよ垣内さんもはいってドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」フルート四重奏版。

こちらはモダンフルート、パウエル、SANKYO、ムラマツ。

練習の後、近くの焼き鳥屋さんで一杯呑んで帰りました。…私は呑めないので烏龍茶。

普段あまり話す時間が無いのでいろいろ話せて楽しかった〜。
前日の定演の余韻も充分に堪能しました。

焼き鳥屋さんってほとんど入ったことがなかったけれど、安くて美味しいですね。
特に鶏皮揚げが美味しかった。
癖になりそうです。

お腹すきすぎてて写真撮れませんでした。

フラウト・トラヴェルソ(伊:Flauto traverso)は木管楽器の古楽器の一種で、今日のフルート(モダン・フルート)の前身となった横笛です。

バロック期以前には、西洋音楽においてフルートといえば縦型のリコーダーの方が主流であったことから、「traverso(横向きの)」という修飾語を付けてフラウト・トラヴェルソと呼ばれていました。

バロック・フルート(4分割型,上方はピッチの異なる替え管,復元楽器
バロック期における典型的なトラヴェルソにはトーンホールが7つあり、歌口に近い側の6つの穴は、左手の第2 - 4指と右手の第2 - 4指で直接押さえる。最下流の穴には指が届かないので、右手第5指で押すと穴が開くシーソー形のキーが設けられています。
この形態から「1キーフルート」とも呼ばれます。

頭部管・中部管・足部管の3部分に分割されるものと、頭部管・左手管・右手管・足部管の4部分に分割されるものとがあり、キーは足部管に付いています。


モダン・フルートはキーを必ず右側にして構えるが、1キーフルートは足部管を回転させれば左側に構えることもできます。(この場合キーは左手第5指で操作します。)


音域はD4からE6までというものが一般的です。B6までの運指が知られていて、A6あたりまでは出しやすい楽器もあります。

D管であるにもかかわらず、楽譜は実音で記譜されたため移調楽器ではありません。
長調について考えると、D-dur(ニ長調)、G-dur(ト長調)、A-dur(イ長調)は比較的大きな音量で演奏できますが、それ以外の調ではクロスフィンガリングによって出す弱々しく不安定な半音が多くなるため、演奏は簡単ではありません。

五度圏の図で D-dur(ニ長調)から遠い調ほど演奏が困難になっていきます。

モダン・フルートと比べるとシンプルで、複雑なキーメカニズムはなく、頭部管のリッププレートもありません。

外径は全体的にモダンフルートよりも太く、内径は頭部管から足部管に向かってしだいに小さくなる円錐形になっています。

管の結合部はテノンと呼ばれ、糸を巻いてあるものと薄いコルクを巻いてあるものとがあり、適宜コルクグリースを塗布して気密を保ちます。

クラシカル・フルート(6キー)

古典派以降の時代になると、より多くの調に対応できるよう、半音を出すための新たなトーンホールが設けられ、これを開閉するキーが付け加えられていきます。
さらに、高音域を出しやすくするために管の内径を細めるなどの改変がされて、変貌していきます。

メイヤー式フルート(10キー)
1847年のベーム式フルートの登場によって、トラヴェルソの時代は終焉を迎えます。
トーンホールの径を大きくして音量を増すなどの改良が加えられた多キーのメイヤー式フルートは、フランスを除くヨーロッパやアメリカで、1930年代まで使われていました。

モダン・フルートは、ほとんどが銀や洋白などの金属で作られていますが、古いものはほとんど木製です。 
フラウト・トラヴェルソの管体の材質としては柘植(つげ)や楓(かえで)、梨(なし)、黒檀(こくたん)、グラナディラなどが用いられます。


木材以外で最も多く使用された材料は象牙で、総象牙製のフルートはとりわけ王侯貴族に愛用されました。

デュモン 総象牙 トラヴェルソ
木製フルートでも、結合部の飾りあるいは補強のために銀や象牙のリングを用いているものがあります。
しかし、象牙は割れやすいので今日まで残っている当時の楽器には、割れを補修してあるものが多いです。

キーは銀や真鍮(黄銅)、洋白などで作られていて、穴を塞ぐ部分には薄いシート状のパッドが貼られて空気漏れを防いでいます。 

パッドの材質は皮などですが、製作者によって異なり、スズ系合金のピューター製の弁を用いるものもあります。

なお、現在はABS樹脂製のトラヴェルソも発売されていて、油を塗布する必要がなく、メンテナンスが容易です。

アクロス フルート 樹脂製

アムステルダムの木管楽器製作家リチャード・ハッカ(Richard Haka, 1645-1705)の作った3分割フルートが、現存する最古のバロック・フルートであるといわれています。

いつ頃誰によって最初に考え出されたのか、確かなことはわかっていません。

ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス)…通称オトテール・ル・ロマン。オトテール一族はフランスの著名な楽器製作者。3分割式のモデルがよく知られています。

ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルク(Johann Hyacinthus Rottenburgh,1672-1756,ベルギー)…JHRでなく、IHRと略記されることがあります。

J.H.Rottenburgh 1740年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz & 440Hz

ゴットフリード・アドリアヌス・ロッテンブルグ(Godfridus Adrianus Rottenburgh,1703-1768,ベルギー)…ヨハネス・ヒアキントス・ロッテンブルクの息子。GARと略記されることがあります。

G.A.Rottenburgh 1760年頃 R.Tutz作 つげ 415Hz

トーマス・ステインズビー・ジュニア(Thomas Stanesby Jr.,1692-1754,イギリス)…父親のトーマス・ステインズビー(Thomas Stanesby Sr.)も著名な楽器製作者。


ピーター・ブレッサン(Peter Jailliard Bressan,1663-1731,イギリス)…銀象嵌を施した独特のデザインを持つ4分割式フルートがよく知られています。

ヤーコブ・デンナー(Jakob Denner,1681-1735,ドイツ)…父親のヨハン・クリストフ・デンナー(Johann Christoph Denner,1655-1707)も著名な楽器製作者。


アウグスティン・グレンザー(Carl Augustin Grenser,1757-1814,ドイツ)


柘植 復刻

クロード・ローラン(Claude Laurent,?-1848,フランス)…クリスタルガラス製フルートの製作者。今日の木管楽器に広く使われているキーポストの構造を考案したことでも知られています。


ジャック・オトテール(Jacques-Martin Hotteterre,1674-1763,フランス王国パリ生没)

は、マルタン・オトテール(1712年死去)とマリー・クレスピーの息子としてパリで生まれました。

1704年頃、ジャック=マルタン・オトテールは従兄弟のジャックの後任として宮廷の「basse de hautbois et taille de violon」の職に就きました。

オトテールは、フラウト・トラヴェルソの設計に数々の変更を付け加えました。

最も重要なのは、フルートを3つの部分に分け、頭部(マウスピース付き)、胴体(ほとんどの音孔つき)、脚部(いくつかの音孔あり)としたことです。

復刻オトテールモデル アフリカンブラックウッド一部樹脂製象牙に変更可能 オトテール商会
また、彼はオーボエの改良でも知られています。
1708年作曲
フルートトラヴェルソとその他の低音楽器のための最初の作品集