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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

バロック大研究組曲「鳥」

2025-03-10 21:00:00 | 近代
土曜日に行った山田池公園の梅林は野鳥がいろいろいました。

日本にいるキツツキ属の内で1番小さなコゲラ。
小啄木鳥 “Japanese Pygmy Woodpecker”
見えるかな?
香里園にいるときは時々見ましたが、大きな木がない牧野では数年全く見ませんでした。
ここで会えてうれしかったです。

それから四十雀(シジュウカラ)は、集団でちょこちょこ移動していました。

ジョウビタキのメス。地味😅

この集団は?

川鵜でした。

これは見にくい!
土管の上に枚方市の鳥。
カワセミさんでした。

おっと!増殖中のヌートリアさんもいました。

オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879 – 1936年)イタリア王国ボローニャ生まれ、イタリア王国ローマ没

1927年に組曲「鳥」を作曲しました。
初演は1927年6月、サンパウロの市立劇場で、作曲者指揮シカゴ交響楽団により行われました。
翌1928年にフリッツ・ライナー指揮、シンシナティ交響楽団により2度目の演奏が行われました。
作曲と言っても、バロック時代の曲の編曲で、レスピーギの古典音楽に対する尊敬と理解が伝わってきます。

組曲「鳥」
1.前奏曲
アレグロ・モデラート、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)が原曲と言われていますが見つけられませんでした。情報求めます。

2.鳩
アンダンテ・エスプレッシーヴォ、嬰ヘ短調、3/4拍子。
ジャック・ガロ(1625-1695年)
のクラブサン曲

によります。

3.牝鶏
アレグロ・ヴィヴァーチェ、イ短調、3/4拍子。
ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764年)

の新クラヴサン組曲集 第2番(第5組曲)『めんどり』によります。原曲はこれ。


4.夜鶯
アンダンテ・モッソ、ハ長調、3/4拍子。
原曲の作曲者不詳。17世紀のヴァージナル(チェンバロの一種)
フランドルのヨハネス・クーシェのミュゼラー型ヴァージナル(1650年)
のための楽曲によります。

5.郭公
アレグロ、イ長調、4/4拍子。
ベルナルド・パスクィーニ(パスキーニ)(1637-1710年)

のピアノ曲『かっこうの鳴き声をもつトッカータ』(Toccata collo schertzo cuccu )によります。

レスピーギ組曲「鳥」


旅好きサン・サーンスの芸術論

2025-03-08 21:00:00 | 近代
枚方市役所にバスボート申請に行ってきました。
昨年の8月で切れていました。
しばらく使わないから良いかと思っていましたが
榎田先生が4月21日に神戸市と大邱市の友好イベントで韓国大邱市のフルートオーケストラを指揮される。
と言うことで「エスカル」のメンバーからも助っ人を募られました。

私も手を上げた何人かと一緒に行くことになりました。

久しぶりのバスボートで戸籍謄本を取るところからでした。
近所のダイソーで証明写真を撮り、行ってみると、駅前の駐車場は満車。

周りに並んでいましたが、そこにも入れないので「帰ろうか?」と思いましたが、駅前周辺をぐるっとひと回りして、「やっぱりもうワンちゃんあるかも。」と行ってみると最後尾に並ぶことができました。
値上げしたので結構回転が速いです。
30分ほどで入ることができました。
戸籍謄本も並んでいましたが、またマシ。
「これからバスボートセンターに行きますが駐車料金は?」
みなまで言う前に「複数の課に行かれると言うことなので90分お付けしておきましたので、それ以上は割引きありませんのでお気をつけて下さい。」

枚方市岡東公園のカリヨンの向かい側の、

サンプラザ1号館2階にバスボートセンターがあります。
前回は駅ビルの中でしたが少し移動されました。
こちらは全く待ち無し。
マンツーマンで申請書を書くところから教えていただきました。
それでも出来てくるのは3/21以降だそうです。
そんなものかな?
とりあえず申請出来てほっとしました。
本当にこういうこと苦手…。
こんなことで航空券取ったりホテル取ったり大丈夫?

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns,1835 - 1921年)
フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

サン=サーンス。ピエール・プティ撮影。1900年。

彼は無類の旅行好きでした。
生涯で27か国に計179回の旅に出ています。

サン=サーンスがピアニストとして聴衆の前に初めて登場したのは11歳。

少年時代のサン=サーンス。
それから50年目にあたる1896年に、長い音楽活動を祝うための記念コンサートがパリのサル・プレイエルで開かれました。
この年の3月から4月にかけて作曲された第5番の協奏曲はその際に初演され、当時61歳だったサン=サーンスがピアノ独奏を受け持ちました。

楽譜は同年に出版されています。
2台ピアノ版は献呈先のルイ・ディエメによって編曲されました。

この曲は避寒先のカイロで書かれました。

第5番には、この国での見聞や、東方的でエキゾティックな雰囲気が反映されています。そのため、サン=サーンスとしては珍しく、表題的な雰囲気を持った「絵画的な」協奏曲が生まれました。

1891年サン・サーンスはエジプトに旅に出ます。
ムハンマド・アリー朝、サン=サーンスは第6代君主タウフィーク・パシャ(1852-1892)の次男で第7代の弟、ムハンマド・アリー(1875-1955)王子(皇太子)

と親しくなり、エジプト滞在する際、彼のためにカイロのローダ島に建てられたマニアル宮殿

に何度も立ち寄っています。
そして王子のために《物憂げなワルツ op.120》(1903)を作曲しています。

1月末にアレクサンドリアに到着し、2月にはルクソール、3月中旬から4月中旬までカイロと、長期滞在になりました。
テノールとバリトンのための二重唱曲《ヴィーナス(ウェヌス)》を作曲し、デュラン出版社に宛てています。

エジプト考古学者のジョルジュ・ルグラン(1865-1917)
ともあっていたようです。
カルナック神殿にある大スカラベ像を見学するサン=サーンスと像の発見者のジョルジュ・ルグラン(1908年以降)
ナイル川の上流、エジプト南部アスワンからスーダンにかけてのヌビア(元々はエジプトと同一の祖先をもっていたものの、その後ギリシャ・ローマ人との混血が進んだエジプトとは異なる文化圏を形成した地域。)を旅行し、ナイル川をダハビア(屋形船)に乗って移動しましたが、そこで船頭が歌うヌビアの恋唄を聴き取ります。

ナイル川のダハビア
この小旅行の後、ルクソールのホテルに缶詰めになって《ピアノ協奏曲 第5番》を作曲します。
後の手紙でルクソールの環境について「ここより仕事するのにふさわしい所はありません、私は水を得た魚のようです。」と述べています。

Camille SAINT-SAËNS, « Égypte », L'Écho de Paris, 29e année, N° 10046, 4 février 1912, p. 1.には、下記のような文章を寄稿しています。

「ところで、我々の近代西洋文明は反芸術の方向へ歩みを進めている。

その証拠が、「芸術」に専念しようとする意図そのものなのだ。

本当に芸術が浸透しているところでは、呼吸をするようにもはや芸術を意識しないものなのである。

ローマの都市であったポンペイにおける芸術を見るように、ギリシア文明においても芸術はそのように存在したし、ギリシアのその本質においては、単なる調理器具といった全くの日用品ですら、常にスタイルを備えていた。

ヨーロッパ文明に侵される前の日本においても、かの国伝来のちょっとしたものであっても、芸術家の称賛に値するものであったのに。

今でも日本人は驚嘆に値するものを作っているが、同時にヨーロッパの商人にそそのかされて、ぞっとするものも作っている。

我々西洋人と同じように、日本人も芸術品と並んで商業品を作っていて、その結果、芸術の感覚が失われてしまった。」

ピアノ協奏曲第5番
第1楽章 アレグロ・アニマート
ヘ長調、4分の3拍子、 

第2楽章 アンダンテ - アレグレット・トランクイッロ・クアジ・アンダンティーノ

4分の2拍子に転じ、サン=サーンスがナイル川で聴いたヌビアの愛の歌によるメロディが切々と歌われ、「コオロギやカエルの鳴き声」(サン=サーンスによる)が聞かれる。後半にはガムランを思わせる響きも現れます。

第3楽章 モルト・アレグロ
ヘ長調、4分の2拍子
サン=サーンスは「航海の楽しみ」と表現。船のプロペラの動きが模されているといいます。
後に、この楽章のみ『練習曲 ヘ長調 作品111-6』としてピアノ独奏のために編曲されました。








トリオの日

2025-02-24 21:09:00 | 近代
日曜日は六甲の里夢でセンメル カルテットの演奏でした。
朝牧野駅で坂田さんと待合せ、出発。その後阪急大阪駅で金重さんと待合せ。
六甲徒歩5分里夢。
カルメン幻想曲に合わせて赤と黒で統一してみました。

今回のテーマは三位一体。
トリオです。
他にもいろいろなトリオ。
木管、弦楽、声楽など出演されました。

三重奏 トリオ- 3人が同時に演奏するアンサンブルのうち、各パートを1人ずつ演奏するもののことです。

トリオ・ソナタ - 17世紀末から18世紀初頭に人気を博した音楽形式でした。

複合三部形式の楽曲で、主部とその後に反復される主部の間に挿入される中間部を指します。

当該部が2つの独奏楽器と伴奏楽器群の3パートで演奏される作品が多いです。

また特定のパートが含まれる三重奏をトリオと称する場合があります。

オルガン、ドラムス、ギターなど3種のパートで編成する「オルガントリオ」、バイオリン3人またはそれ以上の重奏などで編成する「バイオリントリオ」などがあります。

ガブリエル・フォーレ( 1845- 1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没

1905年

の作曲したピアノ三重奏ニ長調op120
ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための室内楽曲。
1922年9月から1923年2月にかけて作曲されました。

1922年1月、ニース滞在中のフォーレにピアノ三重奏曲の作曲を提案したのは、彼が出版契約を結んでいたデュラン社の社主ジャック・デュランでした。

デュランは、モーリス・ラヴェルが第一次世界大戦前夜に作曲したピアノ三重奏曲(1914年)のような音楽を書いてみてはと勧めました。

この年の1月から8月にかけて、フォーレの創作力は完全に失われていました。
1月20日付け妻マリーに宛てたフォーレの手紙には、「今の状態が長く続かないことを願っています。なぜなら、私は猛烈に仕事がしたいのです。」と書き、
2月2日付けの手紙では、「老いよ、消え失せろ!」と自らを叱咤しています。

しかし、3月4日付けの手紙では「恥ずかしい話ですが、私は毎日をわらじ虫のように家の中に閉じこもって過ごしています。まったく何もしていません。ニースに来てから、書くに値するような音符はまだ二つと見つけていないのです。私の才能は涸れてしまったのでしょうか……。」と悩みを打ち明けています。

友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた同年4月21日付けの手紙では、フォーレはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から一節を引用しつつ、ユーモアと自嘲を交えながら、「私はこの4ヶ月間で、ワーグナーのグルペット(グルペットは16世紀イタリアで流行した装飾音の一種)に負けないくらい歳を取りました。」と述べています。

また、悩まされてきた聴覚障害に視力の衰えや歯のトラブルも加わり、フォーレは次第に孤立していきました。

次男のフィリップ・フォーレ=フレミエは、このころのフォーレについて次のように述べています。

「相手をどれだけ思いやり、尊敬していようとも、父には、周りの調子に合わせて普通の会話をするのは不可能でした。

食卓で、周りの人たちの関心が直接自分に注がれなくなると、たちまち父は不安そうな様子を見せました。
そして目を凝らして、人々の顔の表情からその心を読み取ろうと努めました。
父はこうした努力に疲れ果てたましたが、かといって、自分の存在を人に押し付けるようなことは好みませんでした。

何も言わずに、人々の関心が自分のところに戻ってくるのを待っていました。」
— フィリップ・フォーレ=フレミエ

フォーレがようやく新曲のスケッチに取りかかったのは4月にパリに戻って以降で、1922年の5月から6月にかけてと見られます。

1922年7月からほぼ一月の間、生まれ故郷パミエに近いアルジュレスに滞在したものの、気管支肺炎にかかったフォーレはこの地ではほとんど仕事ができなくなりました。

このときフォーレは次男フィリップにパリの家の机の上に忘れてきた原稿を探すように頼んでおり、それがピアノ三重奏曲の第2楽章の中間部のスケッチでした。

8月9日からアヌシー=ル=ヴュー

に移り、約2ヶ月デュナン館で過ごします。

アヌシー=ル=ヴューは1919年以来2度目の滞在でした。

8月26日にこの地でフォーレ・フェスティバルが開かれ、翌27日、教会でフォーレの『小ミサ曲』が演奏されるなどの歓迎を受けました。

フォーレの創作力はここで回復し、妻マリー
1889年マリーとフォーレ
に宛てて次のように報告しています。

「クラリネット(あるいはヴァイオリン)、チェロ、ピアノのための三重奏曲に取りかかっています。
主要な楽章は一月前に書き始め、終了しました。
残念ながら、私は連続して長い間仕事をすることができません。
私にとってもっともつらいのは、絶え間なく続く疲労感です。」

— 1922年9月26日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙

アヌシー=ル=ヴューで書かれたのは第2楽章と見られる。第1楽章と第3楽章は10月にパリに戻ってからヴィーニュ通り32番地の自宅で書かれ、1923年2月中旬に完成しました。

この間、1923年1月にフォーレはレジオンドヌール勲章(勲一等)を授与されています。

作曲時にフォーレが言及していたクラリネットを含む三重奏曲という構想は、完成時には消え去っていますが、その正確な理由は分かっていません。

しかし、フォーレはほとんどすべての管弦楽作品でクラリネットを使用しているほか、ウェーバーの『協奏的二重奏曲』の楽譜を所有しており、サン=サーンスのクラリネットソナタ(作品167、1921年)や友人ダンディのクラリネット三重奏曲(1888年)などを聴いているなど、クラリネットの響きを好んでいました。

ネクトゥーによれば、この曲においてヴァイオリンをクラリネットに替えてもなんら問題はない。
ネクトゥーは「クラリネットとチェロとの対話はむしろ特別な性格を持ち、この二つの楽器とピアノの音のバランスも実に納得のゆくものなのである。」としています。

フォーレのピアノ三重奏曲



偉大なピアノと作曲家とピアニスト

2025-02-19 21:00:00 | 近代
今火曜日午前中はピアノの、調律師さんにきてもらいました。

蓋を開けて


ハンマーで一音ずつ叩いて
掃除機でホコリを吸い取って


「点検してください。」
だいたい大丈夫ですが、Cの幅が高音に行くに従って外れていきます。
「ちょっとCが…。」と言うとすぐに「わかりました!」と治してくれました。

2年同じ方がきてくれていますが、音感も良いし、誠実な仕事にいつも感心しています。

午後からピアノの坂田恭子さんとフルートの角谷雅一さんとフルート久米でドップラーのアンダンテとロンド合わせました。
坂田さん、「やっぱり、調律したせいで音がいつもより広がって深い音がするわ!」ですって、やった〰️!

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ( Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов, vɐˈ]、(1873- 1943年)ロシア帝国ノブゴロドスタロルースキイ郡セミョノヴァ生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ没

1900年
1909年、ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30は彼が作曲した3番目のピアノ協奏曲です。

1909年の夏に作曲され、同年11月にニューヨークで初演されました。
ピアノ協奏曲第2番と同様に、ラフマニノフの代表作のひとつで、演奏者に課せられる技術的、音楽的要求の高さで有名な作品です。

1909年の夏にタンボフ州イワノフカの別荘
イワノフカでピアノ協奏曲第3番の作曲に取り組むラフマニノフ
で、同年秋に予定していた第1回アメリカ演奏旅行のために作曲されました。

全曲の完成は同年9月23日のことでした。
時間の制約からラフマニノフはこの作品をロシア内で練習することができず、アメリカ合衆国に向かう船の中に音の出ない鍵盤を持ち込んで練習を仕上げました。
11月にアメリカで初演されました。
後、1910年にグートヘイリ社により出版され、作品はヨゼフ・ホフマンに献呈されました。

後にラフマニノフはこの曲をカットして演奏するようになりました。
1939年から翌年にかけて行われた録音でも、カットした版で演奏しています。
かつては他のピアニストもこれに倣って一部をカットして演奏することが多かったそうです。

初演は1909年11月28日にラフマニノフ自身のピアノと、ウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団との共演によりカーネギー・ホール

で行われました。

さらに1910年1月16日にはグスタフ・マーラー指揮ニューヨーク・フィルハーモニックとの共演により二度目の演奏が行われました。

リハーサルの際、当時スラヴ系の音楽の演奏・解釈に不慣れだった楽団員がざわついたために、マーラー(1860-1911年)
1909年マーラー
が「静かにしなさい。この曲は傑作だ。」と言ってオーケストラをなだめ、この演奏の為に時間になっても団員を帰さず、完璧を目指して長時間の練習を続けました。

そのマーラーの根気にラフマニノフも感銘を受け、後にオスカー・フォン・リーゼマンに「ニキシュ(アルトゥール・ニキシュ1855-1922年ウィーン、ブタペスト、ライプツィヒ、ボストン、ロンドン、ベルリンなど名だたる交響楽団を指揮した)と同列に扱うに値する指揮者はマーラーだけだ。」と語りました。

この作品を「私の曲」と呼んで愛奏したのはウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989年)でした。

アメリカ・デビューとなった1928年1月のコンサートの4日前にはラフマニノフと初対面を果たし、この作品を2台のピアノのための版で演奏しました(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持ちました)。以後この二人のピアニストは親しく交流するようになりました。
作曲家自身がホロヴィッツの演奏を聴いた後ステージに駆け寄って「私よりうまくこの曲を演奏する」と感動を伝えたそうです。

1930年にはホロヴィッツはアルバート・コーツ指揮によるロンドン交響楽団との共演でこの曲の世界初録音を行いました。

そのホロヴィッツが愛用していたピアノはスタンウェイのピアノです。

スタインウェイ・アンド・サンズ(英: Steinway & Sons、通称: スタインウェイ)は、1853年にアメリカ合衆国ニューヨークでドイツ人ピアノ製作者ハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(後のヘンリー・E・スタインウェイ)によって設立されたピアノ製造会社です。

スタインウェイは1857年から126のピアノ製作における特許を与えられていました。
最高級グランドピアノ市場のスタインウェイ社の市場占有率は一貫して80パーセントを超えています。

1930年ホロヴィッツの演奏でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番


精密や機械時計師

2025-02-16 21:00:00 | 近代
ピッコロを預けて5時間。
谷六の交差点。
とっぷり日が暮れました。
梅田でいるとお金使わないと休むところもありません。
ロカボのお店でナッツの小袋でも買おうかと入りましたが、値上げし過ぎて買う気になりませんでした。

それからダイソーでシリコンのヘラ、使い過ぎてデコボコが出来てきたので代わりのヘラ。よかったまだ100円でした。
5時半。
電話ありませんが、もう谷六で待つことにしました。
6時か7時ということでしたので、連絡もらったらすぐに行けるように。 
6時 矢田工房さんの前まで来ましたが、急かしては悪いと15分待ちました。
もういいかな?と4階に上がり「すみません。中で待たせてもらってもいいですか?」 と言うと返事が無い。
あれれ?
と思ったら奥から「もうできてますよ。」とビッコロを組み立てながら出て来られました。
「試してみますか?」
鳴ります!
気になっていた高いAの音もストレスなく鳴ります。
「ありがとうございます。」
「高いCまで鳴るようになりましたよ。」
想像の上をいく出来!
繋ぎのところの管の内側にテープをはって、上がりにくかったBキーを修理。
キーのバランスも調整してくださったそうです。

見違えるように良くなるようになりました。
本当に感謝です。
「楽しんでくださいね!」
と、声をかけて頂いて帰ってきました。
後は。練習あるのみ!

モーリス ラヴェル(1875 - 1937年)フランス共和国シプール生まれ、

1913年
ラヴェルは、スペイン国境から18キロ (11 マイル) 離れたビアリッツ近郊のフランスのバスク地方の町シブールで生まれました。
父ピエール=ジョゼフ・ラヴェルは、フランスとスイスの国境に近いヴェルソワ生まれで、教育を受け、成功したエンジニア、発明家、製造業者でした。母マリー(旧姓デルワール)はバスク人ですが、マドリードで育ちました。

ジョセフ・ラヴェル(1875年)、マリー・ドゥルーアール(1870年)、4歳のモーリス・ラヴェル(1879年)

ジョセフはエンジニアで発明家でした。彼の発明品ループ・ザ・ループは人気のアトラクションでした。1903年死亡事故が起きるまでは。

ラヴェルの両親はともにローマカトリック教徒で、マリーも自由思想家で、その性格は長男モーリスに受け継がれました。

長男は生後6日後にシブール教区教会で洗礼を受けました。

家族は3か月後にパリに移り、そこで次男のエドゥアールが生まれました。(エドゥアールは父親と仲がよく、やがて父親の跡を継いでエンジニアの道に進みました。)

モーリスは特に母親を慕っていました。彼女のバスク系スペイン人の血統は彼の人生と音楽に強い影響を与えました。
彼の最も古い記憶の中には、母親が歌ってくれた民謡があります。
家庭は裕福ではありませんでしたが、家族は暖かく、2人の少年は幸せな子供時代を過ごしました。

ジョセフは息子たちを工場に連れて行って最新の機械装置を見せるのが好きでしたが、音楽や文化全般にも強い関心を持っていました。

後年、ラヴェルは「子供時代を通して私は音楽に敏感でした。父はほとんどのアマチュアよりもこの芸術の教育を受けており、幼い頃から私の趣味を育て、熱意を刺激する方法を知っていました」と回想しています。
ラヴェルが幼少期に正式な一般教育を受けたという記録はありませんが、伝記作家のロジャー・ニコルズは、ラヴェルは主に父親から教育を受けたのではないかと示唆しています。

ラヴェルは長じてその精緻なオーケストレーションから「精密な機械時計師」「オーケストラの魔術師」と呼ばれています。

機械時計という呼び名をラヴェルは嫌っていたようですが、創造的なクラフトマンの家庭に育ったラヴェルの1つの側面のような気がします。

シェヘラザードは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの2つの作品のタイトルです。どちらも、アラビアンナイトのヒロインであり語り手でもあるシェヘラザードに対する作曲家の強い関心に由来しています。最初の作品である序曲( 1898年)は、ラヴェルの現存する最初期の管弦楽曲ですが、初演時の評判は芳しくなく、その後も最も人気のある作品ではありませんでした。4年後、彼は同じタイトルの歌曲集で大きな成功を収め、これは今でも標準的なレパートリー作品であり、何度も録音されています。

どちらの曲もロシアの作曲家、特に1888年にシェヘラザードを基にした交響組曲を書いたリムスキー=コルサコフの影響を受けています。最初の作品はロシア音楽の影響を強く受けており、2番目の作品はリムスキー=コルサコフの交響詩に触発されたテキストを使用しています。序曲と歌曲集の音楽的な関係は希薄です。

シェヘラザード序曲
シェヘラザード、妖精序曲は、1898年に作曲されましたが作曲者の存命中には出版されず(1975年に出版されました)、同名のオペラの序曲として計画された管弦楽曲です。

この作品は、1899年5月27日に作曲者自身が指揮したフランス国立音楽協会の演奏会で初めて演奏されました。

評価は賛否両論で、観客からはブーイングと拍手が入り乱れ、批評家からは辛辣な批評が寄せられました。


エドゥアール・フレデリック・ヴィルヘルム・リヒター、1844 – 1913
シェヘラザード
その結果、ラヴェルは二度とこの曲を演奏しませんでした。

シェヘリザードとスルタン・シャリアル、1880年、フェルディナンド・ケラー
序曲シエラザード



没後100年伝統的な概念を打破

2025-02-07 21:02:00 | 近代
6日、病院に行ってきました。
診察終えて、母に会ってきました。
元気そうでした。
話し出すと止まらなくて、お昼ごはんが届いて冷めそうになりました。

駅から病院に行くまでに鷺が2羽
母のお琴の師匠中島警子先生が今年数えで100歳になられるそうです。
その記念演奏会、宮城道雄を偲ぶ夕べ第50回…大阪新音の人と約束の50回。

宮城道雄先生が亡くなられて新音の方がそのお話しを持ってこられた時に「50回はやりましょう。」と約束されたそうです。

「ちょうど区切りの年やね。」と、母はそのお話しで頭がいっぱいみたいです。
中島先生、
さすがに弾かれはしませんが、企画に余念がないそう。
恐るべし100歳。 
母は数えで85歳。
でも、休んではいられないのでしょう。

今年2025年は
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、1866 - 1925年)
フランス共和国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

没後100年です。

サティと言えば、ピアノ曲で有名ですが、『パレード』は、レオニード・マシーンが振付し、エリック・サティが音楽を作曲し、ジャン・コクトーが脚本を書いたバレエです。

このバレエは、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929年)

のバレエ・リュスのために1916年から1917年にかけて作曲されました。

このバレエは、1917年5月18日金曜日にパリのシャトレ座で初演され、衣装と装置のデザインはパブロ・ピカソ(1881-1973年)、

ピカソ、ヴィラ・レ・クロシェットの絵画『愛好家』(バーゼル美術館)の前に立つ、1912 年夏
振付はレオニード・マシーン(1896-1979年)

(ダンサーも担当)、
オーケストラの指揮はエルネスト・アンセルメ(1883-1969年)

が担当しました。

このバレエのアイデアはジャン・コクトー(1889-1963年)

が考案したものです。

彼はコンサートでサティの「洋ナシの形をした3つの小品」を聴き、そのような音楽に合わせてバレエのシナリオを書こうと考えました。

サティはバレエ音楽を作曲するというアイデア(それまで作曲したことはなかった)を歓迎しましたが、以前に作曲した曲をこの機会に使うことは許可しませんでした。

そこでコクトーはシナリオを書き始め(テーマは3組のサーカス芸人が屋内公演に観客を呼び込もうとする宣伝パレード)、

それに合わせてサティが音楽を作曲しました。

この作品の制作は第一次世界大戦のさなかに始まり、コクトーは企画と製作段階の間、ベルギーの戦場を何度も往復しました。

ピアノ曲の最初のバージョンはミシアに捧げられ、1916年に上演されました。

結局、他の計画(とさらなる陰謀)が中止された後、ディアギレフの支持が得られ、振付は、戦争勃発の直前にパリを去ったワツラフ・ニジンスキーの後任として、バレエ・リュスのプリンシパル・ダンサーでディアギレフの恋人となったばかりのレオニード・マシーンに託されました。

舞台装置と衣装デザインは、当時キュビズムの画家だったパブロ・ピカソに託されました。

衣装デザインに加え、ピカソは公演前の晩餐会に出席する一団の出演者を描いたカーテンもデザインしました。

イタリアの未来派芸術家ジャコモ・バッラは、カーテンやその他の『パレード』のデザインを手伝いました。

1917年2月、サティを除くすべての協力者がローマに集まり、 『パレード』の制作を開始した。

初演は1917 年 5 月 18 日、パリのシャトレ座
で行われました。

劇用の大きなカーテン、舞台装置と衣装はパブロ・ピカソ。


マリア・チャベルスカの写真はハリー・ラックマンが撮影。

詩人のギヨーム・アポリネールは1917年にプログラムノートを書いた際、『パレード』を「一種のシュルレアリスム」(une sorte de surréalisme 無意識の精神を表現できるようにすることを目指し、非論理的または夢のような場面やアイデアを描写しました。アンドレ・ブルトンによると、その意図は「以前は矛盾していた夢と現実の状態を絶対的な現実、超現実、つまりシュルレアリスムに解決すること」)と表現しており、パリでシュルレアリスムが芸術運動として出現する3年前にこの造語が作られたことになります。

バレエ・リュスによる『パレード』のイギリス初演は1919年11月14日にロンドンのエンパイア劇場で上演され、文化イベントとなりました。

『パレード』 の筋書きは、パリのミュージックホールやアメリカの無声映画など、当時の大衆娯楽を取り入れています。

パリの正式な劇場の外、パリの街路を描いています。
ミュージックホールや遊園地など、日常生活のさまざまな要素を再現しています。

『パレード』以前は、大衆娯楽の素材を使用することは、バレエというエリートの世界には不適切であると考えられていました。

ピカソのキュビズム的な衣装のいくつかは厚紙で作られ、ダンサーは最小限の動きしかできませんでした。

楽譜にはいくつかの「騒音を出す」楽器(タイプライター、霧笛、牛乳瓶の詰め合わせ、ピストルなど)が含まれていました。
これらはコクトーによって追加されたものでした(このことはサティはややがっかりさせました)。
クトーは数年前にスキャンダルを引き起こしたイーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」に匹敵する成功を生み出そうとする彼の熱意を示すものと考えられています。

『パレード』は、一般的なストリート エンターテイメントをエリート層にもたらしたという点で非常に革命的でしたが、観客からは軽蔑され、批評家からは賞賛されました。

『パレード』に含まれる ラグタイムは、後にピアノ独奏用に編曲され、独立したピアノ曲としてかなりの成功を収めました。

バレエの初演は数々のスキャンダルを巻き起こしました。

観客の一部はブーイングをし、非常に騒々しく、熱狂的な拍手にかき消されるまで暴動を起こしそうになりました。

反対の多くはピカソのキュービズム的なデザインに集中しており、「sale boche」(汚い工作)という叫び声で迎えられました。

画家のガブリエル・フルニエによると、最も記憶に残るスキャンダルの一つは、『パレード』に否定的な批評を書いた音楽評論家のジャン・プーイ(1876- 1958年)の間の口論でした。

サティは評論家に

「Monsieur et cher ami – vous êtes un cul, un cul sans musique! Signé Erik Satie」

(「親愛なる友人よ、あなたは音楽のない馬鹿だ! 署名、エリック・サティ」)

と書いたポストカードを書きました。
評論家はサティを訴え、裁判でコクトーは法廷で何度も「馬鹿」と叫んだとして警察に逮捕され、殴打されました。
また、サティは8日間の禁固刑を言い渡されました。

2013年、コンプレックス誌のデール・アイジンガーは『パレード』を史上最高のパフォーマンスアート作品の20位にランク付けし、「これまでにもバレエやオペラのコラボレーションはあったが、20世紀初頭のこのアーティスト集団ほど伝統的な形式の概念を打ち破ったものはなかった」と書いています。

サティ作曲「パレード」ピカソの舞台衣装によるプロモーション



対決!エラールvsプレイエルハープ編

2025-01-31 21:00:00 | 近代
病院最後の日の朝食。
薄い食パン、牛乳、パイナップル。オムレツ…かな?ミンチ肉がうっすら入っていました。

7日午前中に退院ということで、帰りました。
途中、上賀茂神社でお礼参り。
「手術無事終わりました。ありがとうございました。」
三条通り商店街の町中華、台湾風

エビチリ定食1380円
サラダと

大根餅もついてます
でお昼を頂いて帰りました。
「あ〜!娑婆に帰ってきた気分。」
とは言っても、まだ無理はできません。
安定するまで走るな飛ぶな
特に転ぶな〜っ!です。
つまり安静に。

こういう時は、やっぱり音楽!

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没

フランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれました。

生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しています。

ラヴェルの生家
母マリー(1840年 - 1917年)はバスク人、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)はスイス出身の発明家兼実業家でした。

同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれました。

左からエデュアール、母マリー、モーリス、父ジョゼフ
ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論がありましたが、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったといいます。 

サン・ジャン・ド・リュズのラヴェルの休日
成人になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりしました。

やがてパリ音楽院へ入学。
音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学びました。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となりました。

1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなりました。

1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされました。 その中の一曲
『序奏とアレグロ』(Introducción et allegro, )
は、1905年に作曲した、ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲。

エラール社のダブル・アクション方式のペダルつきハープの普及のために、依嘱された室内楽曲です。

初演は1907年2月22日に、フランス写真協会主催の演奏会においてパリで行われました。

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)

がハープと弦楽合奏のために作曲した『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』とほぼ同時期の作品です。

ドビュッシーの作品の方はプレイエルの新型の半音階ハープの普及のために作曲された作品で、エラールはこのプレイエルの動きに対抗するためにラヴェルに依頼しました。

『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』が実はエラールのハープでも演奏可能だったのに対し、『序奏とアレグロ』をプレイエルのハープで演奏するのはまったく不可能でした。

エラールのハープ

1820年エラール社のハープ(7音を半音ずつ上げることと下げることができます)
が現代のハープの原型となったのに対して、プレイエル

プレイエル社クロスストラングハープ、弦を増やすことで半音を出そうとしましたが演奏するのが難しかった
の発明品は忘れ去られてしまいました。

『序奏とアレグロ』は変ト長調、単一楽章のソナタ形式ふうの作品で、美しい2つの旋律主題を軸に繰り広げられています。

序奏は4/4拍子、主部はワルツ風の曲調となり3/4拍子。

ハープのやや長めの印象的なカデンツァも挿入されていて、室内楽編成によるハープ協奏曲のようです。


教育で力を発揮した音楽家

2025-01-30 21:00:00 | 近代
病院のWi-Fiのせいか、なぜかログアウトし、その後はまたしてもログインできず、帰ってアンインストールをして、ログインしたら入れました。
手術の夜も下書き保存していたのに投稿9:00にできず😭💦
今頃になってしまいました。

1月29日は左目の手術でした。
朝、次男が京都の病院まで送ってくれました。 
8:30から入院手続きなので、
7:00に出発。
6:59日の出。
今日も快晴です。
失敗率の少ない手術とは言え、やっぱりどきどきします。
今回は12:30から手術。
次男は「めしは手術の後だな。」と言ってでていきました。

コロナで面会は手術当日でも30分までだから。
また、流行っているみたい。

前回は2時からだったので、ゆっくりだったのですが、診察。
手術前の目薬16回。
お昼は先にでてきました。
「途中だったら温め直しもあるので食べててくださいね。」

と、言うことで食べました。
…なんと前回と全く同じ!
曜日で決まっているのかなぁ?
まあ、最後までしっかり食べて、結局1番過ぎに移動。
「病院あるあるやな。」と後で次男。

「早く呼び出しといて待たされる。」まあね。

手術は「ちょっと心配だったけど、まあうまく行きました。」と先生。

よかった。
30日10:00には退院します。

「2回目なのでちゃんと動かさないでくださったので、やりやすかったですよ。」ですって、だって1回目は「上むいて、上!」とか「違うそっちは右!後1ミリ下!」とか立て続けに言われて視界はぼやけてるしどこをどう見ているのか?自分でもわからないのに、どうすればいいんだ〜!って感じ。
最後の方に「反対の目と同じところ明かりの方を見てくれたらいいんです。」って言われてやっと納得。
先生ってコミュ力いるなぁ!私も生徒さんに同じことしてるんではないか?と3週間考えた末の今回。 
音楽の教え方も同じ。
以前学んだ師匠出口和世さんのお話し。

1相手が変わるという確信がない、(理解できるように言えないと思う時は)言わないこと

2.批判は一度目は親切、2回目はおせっかい、3回目は余計なお世話、4回目は暴力。

3、誰かが叱られているときは、それに重ねて言わない。集団でいうのは暴力

などなど他にもいろいろあったような気がしますが、レッスンの時には特にこの3つは思います。
なかなかコミュニケーションは難しい。
まだまだ修行しなければ。

ナディア ブーランジェ(1887-1979年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

実家は代々音楽家の家庭で、
父エルネスト・ブーランジェ(1815年 - 1900年)は、パリ音楽院で1835年にローマ大賞を受賞したオペラ作曲家でした。

エルネストは母校で教鞭を執り、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世(1179-1146年)

の子孫)門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚しています。

ライサはエルネストの43歳年下でした。2人の間に1888年に生まれたのが長女ナディアで、1893年に生まれたのが夭折した次女リリでした。

1897年、10歳でパリ音楽院に入学し、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドール

とガブリエル・フォーレ

に、伴奏法をポール・ヴィダルに師事しました。

在学中は和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏、フーガで首席になり1904年卒業。

長年の目標としてきた1908年のローマ大賞では次点に終わりました。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していません。

1908年の提出作品は騒動を起こしました。
声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏曲を提出しました。

カミーユ・サン=サーンス

などの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれています。
ブーランジェがローマ大賞に挑んだのはそれきりでした。

ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていました。

6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアでした。 

リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時も、姉の手引きを受けていました。

ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていました。

姉妹の父エルネストが1900年に没したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのですが、今度はリリが1918年に急逝すると、ナディアは作曲を辞めました。

リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していましたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていました。

ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》があります。

《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョ(1852-1914年)

のために作曲されましたが、自信不足や極度の自己批判のために、数多くの改訂を加えています。

プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られています、 

後者は1914年の上演が計画されていましたが
同年にプニョが他界したためと、第1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わりました。

1912年に指揮者としてデビューを果たしました。

主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団やボストン交響楽団、ハレ管弦楽団、BBC交響楽団などを指揮しました。

ソリストとしても活動し、1925年にアメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドに委嘱した《オルガンと管弦楽のための交響曲》の初演でオルガンを弾きました。

1907年にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920年より、アルフレッド・コルトーのエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執りました。
1921年には、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院
で和声法の教授に就任して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎されました。

ブーランジェはジャズやストラヴィンスキーなど新しい音楽にも態度を開き、学生一人一人が自ら才能を発揮できるように仕向けたので、多くの生徒が彼女の門をたたくようになりました。

ブーランジェは最終的に1948年に院長に昇格しています。
またアメリカのロンジー音楽学校でも教鞭をとりました。

第二次世界大戦中はアメリカに過ごして、ウェルズリー大学、ラドクリフ大学、ジュリアード音楽院の教壇に立っています。

1946年から1957年までパリ音楽院のピアノ伴奏科で教授を務め、晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979年に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送りました。

1979年、パリで92歳で逝去しました。
歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じ墓に葬られています。

ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法(ソルフェージュの応用)などです。

しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》

を暗譜することと、しばしばバッハが行なっていたように、フーガを即興演奏できるようになることが要求されました。

世界各国から非常に数多くの学生を集め、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリア、カナダ、トルコ、極東からも学生を集めました。

1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家でした。

彼らはブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立しました。

ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇にほとんど絶え間なく浸透しました。

コープラン、バークリー、バーンスタイン、ピアソラ、バレンボイム、ホロヴィッツなどなど
大勢の門下生を育てました。

ピアノと管弦楽のための変奏幻想曲
la Fantaisie variée pour piano et orchestre de Nadia Boulanger



ベルガマスク組曲ダマーズ編曲

2025-01-07 21:10:00 | 近代
6日は今年初合わせ。
1月19日のハープの発表会で演奏するドビュッシーの「ベルガマスク組曲」メヌエットです。
ダマーズの編曲でフルートとヴィオラとハープ版。
昨年はプレリュードをやったのでメヌエットは第2曲です。

ヴィオラは金重さん、ハープは鈴木健さん。

メヌエットはハープが超絶技巧。
「野田先生に指使い聞いてみたいです。もっと練習しときます。」と鈴木さんは言っていましたが、ほぼ完成していました。

駅まで、送っていいって
金重さんのハープと私のフルートでビゼーの、『アルルの女』の「メヌエット」
私の「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「間奏曲」はヴァイオリンの渡邊さんが弾いてくれますが、代わりにヴィオラで弾いてくれました。
簡単なのに…全くダメ。
私こそ練習しま〜す!

写真は金重さん作のキツネのマフラー。かわいいですね~💖

クロード ドビュッシー(1862−1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

「ベルガマスク組曲」は1890−1905年ピアノ独奏曲として作曲されました。

タイトルの「ベルガマスク(「ベルガモの」、あるいは「ベルガモ舞曲」の意味です)」は、ポール・ヴェルレーヌ(1844−1896年)

の詩集『艶なる宴』(Fêtes galantes)

に収録されている詩「月の光」(Clair de lune)の、"Que vont charmant masques et bergamasques"
(現われたる艶やかな仮面喜劇者たちとベルガモの踊り子たちは)という一節に使用されている言葉です。

またこれに基づくガブリエル・フォーレの歌曲『月の光』(1886年-1887年)があり、その伴奏の一部に似た音形が『ベルガマスク組曲』の「前奏曲」に登場することなどから、ドビュッシーがヴェルレーヌやフォーレを意識したことを窺わせます。

同じ詩にはドビュッシーが初期に単曲として歌曲を作曲し、当時彼の心を射止めていたヴァニエ夫人
に献呈されています。

そしてその歌曲は改訂され、ヴェルレーヌの詩集による歌曲集「艶なる宴」に収録されました。

ただしこの組曲内の「月の光」は、この歌曲版とは全く異なる音楽です。

当初、ドビュッシーは『仮面』(Masques)(前述の詩に基づく)および『喜びの島』(L'Isle joyeuse)をこの『ベルガマスク組曲』の中に加えようとしましたが、出版社の都合でそれぞれ単独で出版されました。

ジャン=ミッシェル ダマーズ(1823−2003年)フランス共和国ボルドー生まれ、

ハープ奏者ミシュリーヌ・カーン(フランス語版)を母にもち、幼少時より音楽の才能を発揮。
エコールノルマル音楽院を経て13歳でパリ音楽院に入学し、アルフレッド・コルトーにピアノ、アンリ・ビュッセルに作曲、マルセル・デュプレに和声・対位法をそれぞれ師事しました。

1943年にピアノ科で一等賞を受賞して卒業する(この年には後にオリヴィエ・メシアンの妻となるイヴォンヌ・ロリオも同時に首席卒業者となっている)。

1947年、カンタータ『そして美女は目覚めた』(et la belle se réveilla)でローマ賞を受賞します。

以後、作曲家・ピアニストとして積極的に活動するほか音楽教育にも力を入れ、パリ音楽院の副院長もつとめました。
2013年4月21日に死去しました。

ダマーズは主として室内楽曲をはじめとする器楽曲の作曲で知られ、フルートを用いた作品のほか、ハープ奏者の母親の影響もありハープを用いた作品も多い。

ダマーズは20世紀後半に主流だった前衛的な現代音楽の流れに反し、新古典主義音楽に基礎をおいた優美な旋律を特徴とする作風を展開しました。

そのため20世紀においてはあまり評価を受けられない状況が続きましたが、近年は複数の作品集がCDとして発売され、再評価が高まりつつあります。

ベルガマスク組曲
第1曲 「前奏曲」 (Prélude)
第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
第3曲 「月の光」 (Clair de Lune)
第4曲 「パスピエ」 (Passepied)

第2曲 「メヌエット」 (Menuet)
イ短調、Andantino、4分の3拍子。
冒頭部分のスタッカートを中心とした軽快な主題は、教会旋法の一種であるドリア旋法
(古代ギリシャの音楽理論に由来、
音階(D E F G A B C D)で構成されます。全音と半音の並び方が全-半-全-全-全-半-全となります。)で書かれています。

ダマーズ編曲フルート ヴィオラ ハープによるベルガマスク組曲「メヌエット」



箒を持って踊るヒロイン

2024-12-30 20:49:00 | 近代
年賀状を出そうと近所の郵便局に行こうと、歩いていると椿の花が咲いていました。

季節を感じます。
うちでは小さな葉牡丹の寄せ植えを買ってきて植えました。

大きさ一つ3センチ位。
お正月飾りは以上。
とにかく貯めに貯めた机の上のあれやこれやを片付け、水回り、台所トイレ、洗面所、お風呂をせっせと洗い。
長男がなぜかくれたコーティング剤をぬりました。
これ、なかなかきれいです。
しかも汚れにくいらしいです。
塗って6時間待たないといけませんが…。

夫がコンクリートの駐車場を高圧洗浄機で掃除。一皮むけたみたいです。

しかし、1年まめた汚れはまだ落ちません。

明日は実家の掃除です。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト演奏モスクワ没
作曲のバレエ音楽「シンデレラ」は1840年「ロミオトジュリエット」の成功を経てキーロフ劇場から作曲依頼がありました。

しかしドイツのソ連侵攻やオペラ『戦争と平和』の作曲によって作業は中断され、完成は1944年、初演は1945年までずれ込みました。
台本はニコライ・ヴォルコフ、振付はロスチスラフ・ザハロフ、美術はピョートル・ウィリアムス、ガリーナ・ウラノワでした。

初演は成功し、プロコフィエフは1946年交響曲第5番ピアノソナタ第8番などと併せてスターリン賞受賞しました。

貴族の娘シンデレラは、母を亡くします。その後やってきた義母は連れ子の姉2人とシンデレラを召使いのようにこき使います。

その国の王子は、結婚相手を見つける舞踏会を開きます。姉たちは着飾って出かけますが、シンデレラは家を掃除するように言われ残ります。
そこに魔法使いが現れ、かぼちゃを馬車に、ネズミを騎手に変え、シンデレラにドレスを着た姿に変えお城に送り込みます。

シンデレラは舞踏会で注目の的になり、王子の心を捉えます。
しかし魔法は12:00の鐘が鳴ると解けてしまいます。
慌てて帰るシンデレラはガラスの靴を片方落として帰ります。
王子は「ガラスの靴を履けた人と結婚する。」とお触れを出し、シンデレラを探します。
城下の娘たちはみんなガラスの靴を試します。
シンデレラの姉たちも試しますが失敗。
最後にシンデレラが試すと靴はぴったり入ります。
王子と再会したシンデレラは彼と結婚し、末永く幸せになりました。

このバレエ音楽では、珍しく箒を持って踊るシーンがあります。