主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。
気比神宮を
誓約(宇気比)の場所で有ったと考えると
イザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)の名前も同じように考えられる。
カタカナで読んでも、
佐(精神・気)を分ける(判定する?)
去来紗別も、去る者・来る者を清浄(沙)に別ける。
とも、読める。
この神が気比独自のものであるとも書かれていることからして
神を審判するという
他では、なしえないことをするのであれば
たしかに独特の神であると思える。
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再び、気比神宮に戻る。
この神宮の社殿の作り方もほかにないものであるが・・・
代理がきになったのは、
実は素戔嗚だった。
以前、千木について調べていた時にも
千木のない社殿について、どう調べればよいか
迷ったのであるが、
気比神宮もそうだった。
そして、もう一つは、菊の御紋。
これは、多くが、
「祀り変え」が、おこなわれていると考えてよいと思う。
*****御祭神の名前に(~天皇)や(~皇子)のような、皇室の直系であったり、神話において直系とされる御祭神の場合は菊の紋を使しています。*****
ところが、
本殿(本宮)気比神宮
- 伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
- 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
- 神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。
気比神は、すでにいたはずなのであるが、
仲哀天皇などのいわれがあるため、ここには、菊の御紋がある。
そして、代理が気になったのは、
素戔嗚の存在だった。
気比神宮には、素戔嗚が居ない。
ところが、先に書いた神功皇后が内乱を鎮めた。と、いう話。
『日本書紀』によれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産する。それを聞いた麛坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
皇子らは仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現在の兵庫県明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。
一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れた(『古事記』では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。
この麛坂皇子と忍熊皇子にスポットをあてると、
素戔嗚が出てくる。
劔神社(つるぎじんじゃ)は、福井県丹生郡越前町織田にある神社である。別名織田明神(おたみょうじん)。気比神宮に次ぐ越前国二宮とされる。越前国の式内社、敦賀郡「劔神社」の論社とされる。
素盞嗚尊を主祭神とし、気比大神・忍熊王を配祀する。
社伝によれば、御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。忍熊王はその後もこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)とともに配祀されたと伝える。
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妙なことになっている。
気比大神は、イザサワケであるはずなのに
父である仲哀天皇(気比大神)となっている。
一説によると、
神功皇后に征伐されたはずの、忍熊王が、越前に逃げ延びたのが、織田剣神社の創建であると考えられるが・・
と、いうことであるのだが、
「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫する目的であったと推測する説もある。
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祟り性・・とは、なにゆえ?
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仲哀天皇架空説
仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられている。その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物とされているためである。日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物であり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、との見方がある。そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。
また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。また「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇と共通する。このためタラシヒコの称号は7世紀前半のものであって12、13、14代の称号は後世の造作という仮説が成り立ち、さらにここから仲哀天皇の実在性及び諸事績の史実性にも疑いがあるという仮説が成り立つ。さらに『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあって、実在には疑いが持たれている。
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熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。翌年2月に急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり橿日宮(訶志比宮)に同地で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。
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仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。翌年2月に急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。
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故に祟り性?
この解釈では、つじつまが合わない。
多くささやかれているのが、暗殺された。
と、言うものである。
誰に暗殺されたか?
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ここに、つぬがあらしと を 配置する。
熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。
つぬがあらしと(大加羅の皇子) は、例えば、神功皇后にとりいって、
新羅(他)を、成敗してくれ。
そのかわりに、統治権も自由にされよ。
と、言ったとする。
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三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。 |
普通に考える。
このようなことを、神功皇后に発言できるということは、
どういうことであるか。
そして、突如、聖徳太子伝の話によると、
欠史八代の天皇の何人かは、角があり、身の丈もちがっていた。
それから、突然、(7代あいているのに)15代応仁天皇も、角があった。
と、伝えているらしい。
それは、むしろ、つぬがあるしと の血筋であるように思える。
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一方、つぬがあるしと は、ある女性を追って、日本にやってきた天日矛と、同一視されている。
阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国国前郡の比売語曽社の神になったという
2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。
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ここも、素直に?とると、
結果的に、
その女性は、神功皇后ではないのか?と、思えてくる。
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すると、仲哀天皇暗殺説も、つじつまがあうし、
素戔嗚が気比神宮に祀られず
織田剣神社に忍熊王と共に祀られているのも納得できる。
素戔嗚が八岐大蛇からとりだしたという三種の神器のひとつである。
つまり、素戔嗚を祀るということは、正統な継承(天皇)であるという事に成ってくる。
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仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定した。のち、伊部郷座ヶ岳に祀られていた素盞嗚尊の神霊を伊部臣が現在地に勧請し、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まる
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ところが、天叢雲剣。
なぜか、草薙の剣ということにもなっている。
八咫鏡
八尺瓊勾玉
天叢雲剣(草薙剣)
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崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。 景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。
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古事記相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退ける。生還した倭建命は国造らを全て切り殺して死体に火をつけ焼いた。そこで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
日本書紀駿河が舞台だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。
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ややこしいのだがwww
草薙の剣の名前になったのは、ヤマトタケルが草を薙ぎ払った後からのことである。
この記述でいえば
天才バカボンのパパは、天才バカボンが生まれていない時から天才バカボンのパパと呼ばれていた。ということになり、なにか、妙な話である。
気比神宮には
別社にヤマトタケルを祀っている。
つまり、仲哀天皇(子)
ヤマトタケル(父)が、別々にまつられているのだが・・
ヤマトタケルをまつるのは、正統な継承であると言いたいがためであるようにも見えてくる
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聖徳太子がかいていたという天皇記は現存しないが
気比神宮の つぬがあるしと の存在と
仲哀天皇暗殺と
角のあった(と、聖徳太子伝の)応神天皇
これは、天皇の血筋に「からびと」が はいってきた「事実」と、
かんがえたのではないだろうか?
聖徳太子は、
天皇が、日本国の巌・磐緒であるべきだという考えを持っていたと思う。
素性がよくわからない女が
天皇を暗殺し、からびとの王と通じ、
その子供を日本の天皇にしてしまった。
と、考えたとき、
聖徳太子はこれをどう史実にかきとめようとしたのだろう?
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乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。
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ひどい仮想論ですが、
それでは、このままでは、
からびと天皇の血筋・・ということになってしまうのでしょうか?
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年代的には、ずれがあって、
つぬがあらしと・・神功皇后は同じ時期の人ではない。
だが、神功皇后・仲哀天皇も、実在したかどうか、わからないようなはなしがあるのなら、
天皇の血筋に「からびと」がはいってきたという匂いをもたせた書き方であるともいえる。
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記紀の妙なところは
「のちの人が読んだら」と、いうことを
計算して書かれている。と、思える部分である。
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自分でかきながら、愕然とした思いがする。
神功皇后と言えば
「女であっても」
と、いう処で、
日本女性の目標になった時期もある。
某国のように、献上品としての女性でなく
1番小さな「国」=家庭において
いざとなったら、神功皇后さんのように・・
国(家庭)をまもる「女」の誇りをみせてくれた女性である。
それが、
我が亭主を暗殺するか?
神懲りして、亭主をないがしろにして、
国がなりたつか?
どうにも、美談に程遠い話がちらりほらりとみえてくる。
その存在、ねつ造であるとするのなら、
ねつ造されなければならなかった背景(理由)が見えてこない。
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