憧れのAudio☆お知らせブログ☆

メインブログアドレス⇔http://longingforaudio.blog.fc2.com/

ねずさんのブログ記事から戴きました。続☆89 2021-08-14

2023年11月26日 | 続☆歴史の中の「経緯」

ねずさんの学ぼう日本 (nezu3344.com)

https://nezu3344.com/blog-entry-4965.html

戦時中にあっても日本社会では共産主義国はもとより欧米諸国と比較しても、かなり自由な言論が認められていました。ところが当時の日本のメディアは、そのことのありがたみを忘れ、いたずらに戦意をあおり、事実を故意にねじ曲げて報道し、結果として多数の人命を失う悲劇を招きました。
マスコミは第四の権力とも呼ばれますが、すべからく権力というものは責任とセットにあるべきものです。現在にいたるまで、新聞各社は、誰ひとり責任をとっていません。彼らに責任性の自覚はあるのでしょうか。

歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

明日は終戦の日ですが、終戦の前後に何があったのかをまとめてみたいと思います。

昭和20年6月23日、米軍が沖縄を占領しました。
ときの総理大臣は鈴木貫太郎です。
鈴木貫太郎は、このとき和平の道を急いでいます。
このために、元総理であった近衛文麿をソ連に特使として送っています。
日ソ中立条約を締結しているソ連を仲裁に立てて、和平の道を探ろうとしたのです。

このことについて、大東亜戦争の終結のためにと日本がソ連を仲介役に選んだことは間違いであったと指摘する人がいます。
歴史は結果ですから、現代の視点から過去をみれば、ソ連に仲裁役など、なんとつまらないことをしたのだろうかと思う気持ちも分からないではありません。
しかし実際には、もっと別な事情があったのです。

それは昭和20年7月17日の出来事です。
この日、トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国三巨頭が、べルリン郊外のポツダムに参集しました。
有名な「ポツダム会談」です。

この会談の最中に米大統領のトルーマンのもとに「原爆実験成功」の知らせが届きます。
この瞬間、アメリカには、ソ連に参戦してもらう必要がなくなりました。
7月26日に発せられた「ポツダム宣言」は、ソ連抜きで発せられています。
これがその理由です。

米国は原爆実験成功によって、もはや自力で日本を敗戦へ追い込めると確信し、ソ連に協力を求める必要がなくなったのです。
疎外されたソ連にしてみれば、日ソ中立条約を破棄してでも強引に参戦しなければ、領土的野心(共産圏の拡大野心)を満たすことができません。
それどころか、ポツダムで外されたスターリンは、ソ連内部での信頼を失うことになってしまいます。
だからスターリンは、急遽、ヨーロッパに展開していた120万のソ連陸兵を、大急ぎで満州、樺太、カムチャツカ方面に強引に転進させたのです。

もし米国の原爆実験成功がなければ、ソ連の介入による「ポツダム宣言」はまったく違った内容になったであろうし、そうすれば鈴木貫太郎の選択も、近衛文麿のソ連訪問も、有効な手段となっていたかもしれないのです。
いたずらに、過去の人たちのことを悪く言うものではありません。

またこのとき、原爆実験成功の知らせを受けたトルーマンが、ポツダム宣言へのソ連の参加を拒否したのは、原爆を日本に対して使用することを決意していたからにほかなりません。
原爆は、一般人に対する戦闘行為を固く禁じた国際条約(ハーグ陸戦条約)に、明確に反する大量殺戮兵器ですが、ではどうしてトルーマンは日本に対して、明らかに国際条約に反する原爆投下を決断したのでしょうか。

理由のひとつは、この時点で日本が大量殺戮兵器(原爆)を持っておらず、アメリカが日本から報復攻撃される恐れがまったくなかったこと、そしてもうひとつが、五百年続いた白人による有色人種支配の歴史のなかで、有色人種は「人間ではない」という考えが根づいていたからといわれています。

白人の有色人種に対する差別意識は、私たち日本人が想像する以上のものです。
たとえば、アメリカでは建国以来、黒人を動産として扱っていました。
動産というのは、家畜と同じでモノの一種です。
つまり彼らの概念からすれば、当時の日本人、有色人種である日本人は、あくまでモノの一種であって人間ではありません。
ですから、国際条約に反する市街地への無差別爆撃や、原爆投下に対して何のためらいもなかったのです。
実際、戦後のことですが、トルーマンは原爆投下について
「まったく心が痛まなかった」
と語っています。

しかも「ポツダム宣言」の当初草案には、天皇容認が明記されていました。
鈴木貫太郎のメッセージはちゃんと米国に届いていたのです。
しかし、この天皇容認条項さえも、トルーマンは宣言から削除してしまいました。

これは戦争を長引かせるための意図的な行為です。
なぜならこの条項があれば、貫太郎は間違いなく「ポツダム宣言」を受諾するでしょうし、そうなれば一気に戦争は終結したであろうからです。
けれどそれでは、対等に近い形での講和しかできません。
日本を徹底的に破壊するために、原爆を用いる。
そのうえで、日本との戦いを収束させようとしたのです。

こうして7月26日に、天皇容認条項のない「ポツダム宣言」が発せられました。
天皇の地位が保障されなければ、日本としては、この宣言を受け入れることはできません。

そこで鈴木貫太郎は「ポツダム宣言」の存在を「論評なしに」公表しました。

ところがここで、大変なことが起こりました。
日本の大手新聞社は、派手な見出しとともに、一歩踏み込んだ記事を掲載したのです。
「首相、ポツダム宣言黙殺」
「笑止、対日降伏條件」
「笑止!米英蔣共同宣言、
 自惚れを撃破せん、
 聖戦飽くまで完遂」
「白昼夢錯覚を露呈」等。

なかでも『朝日新聞』は
「帝国政府としては、
 米・英・重慶三国の共同声明に関しては
 何ら重大な価値あるものに非ずとして
 これを黙殺すると共に、
 断固戦争完遂に邁進するのみとの
 決意を更に固めている」
と、派手に報道しました。

中国語で、このような口先だけ勇ましい人のことを「吹牛皮」といいます。
まさにこの時の日本のメディアは、吹牛皮であったわけです。

この新聞記事にあおられて勢いづいた強硬派が、ポツダム宣言に対する政府の見解を強硬に求めてました。
記者会見を開いた鈴木貫太郎は、情報局の作成したコメントを読み上げました。
その中には最初に新聞が使用した「黙殺」の言葉がありました。
これを当時の代表通信社である同盟通信社が
「ignoreittentirely(全面的に無視)」
と翻訳し、ロイターとAP通信ではこれを
「reject(拒否)」
と訳して世界に報道しました。

実は、日頃から鈴木貫太郎ら閣僚と接する機会の多い新聞記者たちは、貫太郎が和平の道を探っていることを承知していたのです。
承知していて彼らは意図的に歪めた報道を行ったのです。
これは「軽はずみ」ということで済まされる問題ではありません。

こうした日本のメディアの情報の歪曲によって、アメリカは「日本は断固戦闘継続の意向」との見方をすることになりました。
当時のアメリカは、すでに戦争によって国費を使い果たし、国家財政が破綻寸前の状況にありました。
また、多数の戦死者を出していることから市民の間には厭戦気分が広がり、さらに共和党を中心として、戦争継続反対の気運が盛り上がっていたのです。
ですからアメリカ政府は、アメリカ側の被害をこれ以上増やさずに戦争を終結するため、実験に成功したばかりの原爆の使用を、ついに容認してしまうのです。

これは日本の常識として、私たちが明確に知っておかなければならない歴史だと思うのですが、広島と長崎に投下された原爆被害は、
「日本のメディアの軽はずみな報道がひとつの原因となっていた」
のです。

確かにトルーマンは、日本に対して原爆を使用するつもりでいました。
しかし市街地への原爆投下など、誰がどう考えてもやってはいけない非人道的な行為です。
原爆の使用に関しては、アメリカの多くの議員や軍人が反対していました。
後にアメリカ大統領になるアイゼンハワーも猛反対しました。
日本のメディアの歪曲報道がなければ、これら原爆反対派の意見が主流となり、日本との間に講和の糸口を見いだした可能性が十二分にあったのです。
つまり原爆投下は、日本のメディアの不誠実な態度が招いた虐殺であったのです。

原爆投下は八月六日、九日、ソ連の対日参戦は九日です。
「ポツダム宣言」は七月二十六日です。
もし、そうした和平をめぐる動きが出ていたとするなら、原爆投下はなかったであろうし、ソ連の対日参戦も行われなかった可能性さえもあります。
ソ連参戦がなければ、満州にいた日本人が大量に虐殺されたり、シベリアに抑留されたりするといった大惨劇もなかった。

鈴木貫太郎は「天皇の地位を保障するなら、いつでも和平に応じる」とメッセージを発しているのです。
そのことは新聞記者なら知っていました。
それがどうして「ポツダム宣言黙殺」や「笑止」「聖戦飽くまで完遂」「錯覚」となるのでしょうか。
どこをどうしたら、そういう報道になるのでしょうか。

そしてこのことは、もうひとつの大切な歴史を私たちに教えてくれます。
よく、戦時下の日本では
「厳しい言論統制が行われていた」
という記述を見かけます。
しかし実際にはかなりの報道の自由、言論の自由が認められていました。

なるほど、天皇を抹殺しようとする者や、国家体制の転覆を目論む者については、治安維持法により、これを逮捕し勾留しました。
しかしこれは当然のことで、そうでなければ国内の治安は維持できません。
過激な共産主義者や不逞外国人が当時の日本社会にも少なからず存在していたのです。

たとえば、終戦時に戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した重光葵外相は片足がありません。
それは不逞外国人による爆弾テロに遭ったからです。

けれど、そうした「極端な思想以外」については、戦時中にあっても日本社会では共産主義国はもとより欧米諸国と比較しても、かなり自由な言論が認められていました。
ところが当時の日本のメディアは、そのことのありがたみを忘れ、いたずらに戦意をあおり、事実を故意にねじ曲げて報道し、結果として多数の人命を失う悲劇を招きました。
マスコミは第四の権力とも呼ばれますが、すべからく権力というものは責任とセットにあるべきものです。
現在にいたるまで、新聞各社は、誰ひとり責任をとっていません。
彼らに責任性の自覚はあるのでしょうか。

そして広島・長崎に原爆が投下されました。
ソ連が対日参戦した日の夜、鈴木貫太郎は緊急閣議を召集しました。
貫太郎は、なかば強引にポツダム宣言受諾を取り決めようとしたのです。
けれど閣僚の半数が賛成、残りの半数が反対でした。

結局、結論がでない。

そこで貫太郎は、御前会議で天皇のご聖断を仰ぐことにしました。
これは「あってはならないこと」なのです。
政治における意思決定は、どこまでも内閣の仕事です。
その意思決定を天皇に仰ぐというのは、内閣の存在意義を、内閣自身が否定する行為なのです。

けれど貫太郎は、たとえ自分がいかなる恥ずかしめを受けようとも、これ以上、多くの日本人がアメリカの殺戮兵器により命を落とす事態を防ごうとしました。
だからこそ御前会議を召集しました。
このことも、昭和の歴史を語るうえで、とても大事な点です。

八月十四日の御前会議で、日本は正式にポツダム宣言受諾を決定しました。
そしてみなさまご存知の玉音放送が、八月十五日の正午に流れました。
ところがその日の早朝、東京小石川の私邸にいた鈴木貫太郎は強硬派に襲撃されています。
貫太郎夫妻は警護官の手によって無事に脱出しましたが、私邸は焼き払われ、財産もろとも全焼しています。

鈴木貫太郎は八月十五日、内閣を総辞職しました。
本来であれば、ポツダム宣言の受諾を承認した以上、九月四日の降伏文書調印も鈴木貫太郎内閣で行うべき仕事です。
にもかかわらず鈴木貫太郎が辞職したのは、御前会議でご聖断を仰ぐという、内閣として本来あってはならないことをしてしまった責任をとったからです。
貫太郎は、全責任を自分ひとりで負ったのです。

鈴木貫太郎は、主戦論渦巻く当時の内閣、国会、世論に対して、表立った反論をせず秘かに和平の道を探り、日本を終戦へと導きました。生粋の軍人でありながら時代の要請で首相となり、わずか四カ月の在任期間で、戦争終結という大業をなし遂げたました。
そして精根を使い果たした貫太郎は、このわずか二年半後の昭和二十三(1948)年四月十七日未明、八十歳で永眠しています。

その鈴木貫太郎はは、死ぬ前にひとこと、

「永遠の平和」

という言葉を残したそうです。

鈴木貫太郎は幼少のころから、何度も死にかけています。
そして海軍軍人となってからは、たえず死と隣り合わせの第一線に身を置きながら、生き延び武勲を立てています。
二・二六事件では銃弾を受け、実際に心停止までしています。それでも彼は息を吹き返し、八十歳近くになって大東亜戦争に幕を引くという、胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけています。
真実は「神のみぞ知る」ですが、もしかすると貫太郎は、日本の終戦処理という重大使命を帯びて、この世に生を受けた人だったのかもしれません。
そう考えてみると、人はどんな人でも見えない大きな力によって「生かされている」存在で
あるのかもしれないと思えてきます。

そして天は、誰かに大任を委ねようとするときには、必ず「これでもか」というほどの艱難辛苦を与えるのです。
その艱難辛苦に見事打ち勝った者だけが、天命を得るのではないか、鈴木貫太郎の生涯を見ていくと、それは確かであるような気がしてきます。


※この記事は拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第二巻』をもとに、加筆したものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
YOUTUBE 日本の心をつたえる会チャンネル


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 万葉集  大和には群山あれ... | トップ | 原爆と日本~超経験者しか知... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

続☆歴史の中の「経緯」」カテゴリの最新記事