多感な年齢でもあったと思う。
かなり、幼いころにカメラをあてがわれ
そこで、衝撃を受けたのが
ロバート・キャパ
「撃たれる兵士」
今は「崩れ落ちる兵士」になっていたかもしれない。
そして、どっちが先だったか
ユージン・スミスの「ミナマタ」
と、
いつごろからか、広島へ行かなければいけない。
と、思い始めた。のと。
そして、原・たみきの「詩」
広島、原爆ドームをこの目で見ようと
16歳の夏、バイトでためたお金で
夏の終わりころ、広島を目指した。
大坂につく頃、台風がやってきて・・・
広島行きはあきらめざるを得なかった。
ところが、埋め合わせをしてくれるかのように
大坂のデパートで「原爆展」が開かれていた。
それをみて、京都に戻って
うろうろして、旅行は終わってしまった。
その次は、修学旅行で
長崎を訪れ
原爆資料館を見学した。
そして、月日はすぎさり、福山に35年近く住んでいながら
原爆ドームに足を延ばすことはなかった。
なぜだろう?
と、思う。
長崎の資料館を先に見てしまった。と、いうのが原因かもしれない。
戦争を子供に伝えることは、しなかった。
子供たちは、学校で教えられ
原爆ドームにも社会見学でいっていて
もしかした、こっちより、もっといろんなことを知っているかもしれない。
自分がそうだったように
「知っていったのは、自分だった」
子供たちも、いずれ、それぞれの立場で
「知っていくことになる」
そんな思いだったかもしれないし
卑怯だったのかもしれない。
悲惨な事実をー親の口から子供に伝えるー
どこまで、きちんと事実をつたえられるだろうか?
(自分自身が判っていないのに)
子供の衝撃を考えると
もう少し、大人になってから・・・
と、思っていたけど
地域もあるだろう。
小学5年生くらいで、社会見学だった。
子供の柔らかさは
物事をそのままうけいれていく懐柔性ともいえる
そこに、なんの「傷」もなく。もしかして、痛みもなく
ガラス片が体の中に入ってしまったとき
子供の体は、それにどういう被膜をつくりあげるのだろう?
よく考えたら・・
もっと、早い時期。
5年生くらいだろうか?
はだしのゲン を読んでいた。
今は差別まで書いているということで
学校図書に置かなくなったところもあるらしい。
子供心に
そんな思いを感じることはなかったし
それは、ちゃんと、いろんな場面で
「ゲン」が、カバーしていた。
差別を書いているという捉え方のほうが良くわからない。
むしろ、
差別をこえていくーこえているーゲンの姿に
心打たれたし
強くたくましい子供だと思った。
自分がその当事者だったら
ここまで、たくましく生きていけるだろうか
と、思う。
不屈の魂というと大げさかもしれないけど
それでも、生きていく。
大きな悲しみを超えていく?
確かに悲しい差別の話もあったと思う。
その矛盾に涙して
人がどうこうより、自分がやっていくという
気持ちの強さも見せてくれた。
その姿に
「日本人の原点」を見るような気もした。
なので、そんな物語に
「差別をかいてある」という
世論に負けるというより
子供の感受性を、過小評価しすぎ
と、思う。
だけど・・・
なぜ、原爆ドームにいかなかったのか。
もしかすると
司馬遼太郎に寄るかもしれない。
長崎の人は(クリスチャンも多かったせいか?)
「のさり」と受け止めたという。
のさり・・・
「のさり」とは、天草地方に伝わる古い言葉で、「天からの授かりもの」という意味。
いいこともそうでないことも、今ある自分の全ての境遇は 天からの授かりもの。
否定せずに受け入れるという、天草の優しさの原点でもあるそう。
熊本の漁師言葉には「のさり」というものがある。 「自分が求めなくても天の恵みを授かった」 という意味を持つ。
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おそらく、
良いことは、神様のおかげといい
悪いことは、神様のせいだという
こんな信仰はないという思いだろう。
良くも悪くも、すべて、神(天)からの授かりもの
という考え方。
多分に、仏教的観念も入っていると思うけど
もって生まれた「業」をへがれた と、とる。
一種の浄化を行ってもらえた、と考えれば「天の恵み」
であり
司馬遼太郎は「試練」と訳していたと思う。
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そして、広島のほうは
今の復興があるし・・・
アメリカのせいだ、非人道的だ
と、相手を責めるより
まな板の上の鯛のように
いさぎよく、見えた。
ゲンでみせてくれたような「たくましさ」と「恨み言をいわないいさぎよさ」で
復興している、と、感じると
なんというか、
「それこそを誇れ」という思いに替わっていったのかもしれない。
そして、色んなことが
やっと、表ざたになってくると
それを知る人と知らない人
教育現場での「ある種の洗脳」
天皇は戦犯だとおしえたり
日の丸をあげない
国歌を歌わない。
どこかの国が国旗掲揚や国歌斉唱・天皇 こそ軍事化の兆候と馬鹿をいい
その手先が、教育現場を取り仕切ったとしか思えない。
国を思い、国民を思う、そんな存在を
妙な色目で見ておきながら
自国では、首相・・を ー我が父ーのごとくに祭り上げさせられている。
文句を言うのは、自国での話だろう。
と、思わぬでもないが
柔らかい脳に、妙な思想を植え付けていた。
国旗掲揚はしない。
国歌斉唱はしない。
と、いう風潮の中
友人の息子は卒業式に一人立ち上がり
国歌を歌いあげた。
おかあさんは、一時期
「恥ずかしい」といっていたが
馬鹿なことを言うんじゃない。
自分の意志を曲げない。
集団心理に流されない。
孤であっても、通し切る。
こんな立派な子供はいない。
と、話したことがある。
なんとなく、みんながいうから。
1人だけ違うと仲間外れにされるから。
と、みんな、流されていく。
「重い」し
「別にどうでもよいじゃん」
とか・・・。
信念を通すという事は
よほど、の、思いがないとできない。
「自分」を曲げないという以前に
「自分」さえ、無い状態だってある。
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無論、信念あって、歌わないというのなら
それはそれでよいと思う。
でも、そういう「信念」は
えてして、見えないものである。
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なにか、原爆ドームを訪問するより
もっと、深刻な物事が
普段の中に
埋もれている。
と、思うようになったところもある。
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それが、例えば、ねずさんがいう
「日本が原爆を先に使えばーあるいは報復でおとしたら
日本民族ばかりでなく。世界が地球が滅ぶ」
この苦渋の大御心を知らずして
戦犯だと教え込まれることをほうっておいて
被爆で亡くなった方の慰霊になるだろうか?
亡くなった方とて
大御心をしれば、心安らかになるのではないだろうか?
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